Act.137:痕
エクリアは走っていた。全速力で走っていた。壊されてはならないものの為に、守るべきものの為に、脇目もふらずに全力で走っていた。
廊下を駆けていって、階段を駆け上がり、さらに廊下を走り抜けていって、いくつもの扉を開けて抜けていく。その先に、自分もやるべき戦いが待っているのだと信じて。
そんな彼女の望み、願いはただ一つ。
リスティア、アーサー王、そして全ての人達よ、どうか無事なままでと……
「くっ!」
エクリアは走っていた。息を切らしながら、全速力で走っていた。選手専用スペースに戻り、誰も居なくなった選手控え室からリングのある会場へと向かう。そこに結界はもうない。駆けてゆけば、そのまま広い会場へと出るようになっていた。
試合会場への通路を抜け、そこから大きく視界は開ける。全てのものを白日の下に曝け出す。
アーサーの死体。
その開けた視界の先には、壊れたリングとアーサーの死体だけがそこにあった。他には何も無い。敢えて言うならば、観客席で混乱して暴徒と化している観客と、命を諦めたかのようにぼーっとしている観客の姿が見えるだけだった。
他には何も無い。
「あ、ああああ……」
リスティアは崩れる。そこで全てを思い知らされた。全ては手遅れだと。何もかもが後手に回り、手遅れだと。
嗚呼、私は大馬鹿だ……
今回のこの悲劇は、全て自分の咎であるとエクリアは思っていた。自分が至らなかったから、このようになってしまったのだと思っていた。
だから、彼女は気付けないでいた。あの魔獣の群を越えても、そこにはラスターが居た。魔の六芒星のラスターが居た。後手に回ろうが、回らなかろうが、どちらにしてもアーサーの死までに間に合う出来事ではなかった。どうしようもないように仕組まれた作戦だったのだと。
気付けないでいた。
出場選手専用のシャワールーム、そこにルナとマリアはやって来ていた。選手控え室を離れる前に、カオスが行くと言っていた場所だ。しかし、そこにカオスは居なかった。それどころか、アビス騒動によってこの近辺では人の気配すらない程静まり返っていた。
「やはり、居ないか」
カオスがシャワーを浴びると言ってから随分と時間が経っている。それ故に、カオスが既にシャワーを浴び終わっているというのは当然とは思っていた。
ただ、それでも一応来てみた。もしかしたらの可能性を拭い去れなかったからだ。だが、そのもしかしたらはなかった。
「まあ、あれから随分と経ってしまっているからね~」
「じゃあ、何処なんでしょう?」
「色々と手当たり次第に当たってみましょ~」
ルナとマリアはシャワールームから出た。カオス探索のスタートであった。
「フフフフフフフフ……」
その頃、市内にある病院内で、アレックスは笑っていた。ニヤニヤと不気味に笑っていた。
そして、その含み笑いはすぐに大爆笑へと変わる。
「ハーッハッハッハッハッハッハッハッハ!」
アレックスは周囲から聞いたり、テレビ等で観たりして知っていた。魔王アビスを。その上で、アレックスは大笑いしていた。
「魔王復活だか、何だか知らねぇが!」
胸を張って独り言を言う。
「カオス、あ~んどルナよ! 俺を忘れるなよ?」
アレックスは手足をタコのように動かす。本人の中だけでは、かっこいいポーズをとっているつもりだ。
アレックスは手足をタコのように動かす。本人の中だけでは、かっこいいポーズをとっているつもりだ。
アレックスは手足をタコのように動かす。本人の中だけでは……(以下略)。
一通りぽーずらしきものをとったアレックスは、今あると思われる状況の中でのカオスとルナを交えた自分達3人の図を思い浮かべる。
いかに、魔王と言えど、俺達3人ならば……
「俺達3人なら……」
その想像は、次第に声となって口から出始めるようになる。
「俺達3人なら!」
その声は、次第に大きなものとなっていく。
「俺達3人ならぁぁぁっ!」
最終的には腹から声を出す。
そして、その末に気の抜けたような結論を出す。
「逃げるくらいは出来るだろ」
倒すとは言わない。さすがに、そこまで自惚れられる程アレックスも馬鹿ではない。だから、アビスと対峙したとしても、出来るのはせいぜい策を巡らせて、カオスの瞬間移動魔法でもって逃げるしかないと分かっていた。
「アレックス・バーントさん」
その時だった。アレックスは背後から声をかけられたのは。アレックスは振り返り、その声の主の方を向いた。すると、そこには1人の女性看護士が立っていた。
その看護士にアレックスは見覚えがあった。病室に来たことがあるのだ。彼女の名は……
「アナタはナースのリンダ・マックドゥエルさん」
「ええ、リニア・ロバーツさんから貴方に伝言よ」
リンダは無駄話しない。アレックスに自分がアレックスを呼び止めた理由を、その用件を早速切り出してきた。
だが、アレックスは悪い気はしていない。それに耳を傾ける。
「リニア先生から?」
「そう。何でも、ここを待ち合わせ場所にするから、お前は動くなって伝言よ」
「りょ、了解」
「ま、待つならそこの待合室を使えばいいわ」
そのように言って、リンダはアレックスを待合室に案内する。待合室。そう、患者が診察や会計を待ったりしている時に使用している場所である。病院の出入り口からすぐの所にあるそれにアレックスは案内されたが、そこは非常に閑散としていて、人の気配すらも感じられない程であった。
「人、居ませんね」
魔王騒動で逃げ回っているとは言え、病院内に人が全く居ないというのは、アレックスには少々不気味に思えた。だが、そんなアレックスにリンダはさらっと言う。
「寂しがらなくても、すぐに人でいっぱいになるから安心なさい」
そうか。すぐにこの待合室が患者でいっぱいになるのか。それじゃ、この不気味な静寂が破られて安心だな。うん。ほっとした。
とは勿論ならなくて……
「ぬおっ! 今、今っ、何気にすっごい不吉なことをっ! さらさらっと!」
「だって今、魔王が出て来たとかどうとかで、街中大騒ぎでしょう?」
「ええ。そうみたいですね」
「だったら、それに巻き込まれて怪我する人なんかが出てくるんじゃないかと考えるのは、ごく自然と思うけど?」
我先にと逃げようとするその中で、人の波の中でもみくちゃにされて怪我をしたり、混乱の中で暴動が起こったりするかもしれない。それに巻き込まれての負傷もあるかもしれないし、最悪死に至る可能性もゼロではない。
確かに、客観的に考えれば普通である。アレックスは、そこに至った。
「じゃ、私はそんなに暇じゃないから」
リンダはそう言って去ろうとする。そんなリンダを、アレックスはちょっと引き止める。
「あ、最後に一つだけ」
「何よ?」
引き止められたリンダの顔には、不機嫌さがありありと現れていた。そんなリンダに、アレックス
は気になっていたことを訊ねる。
「アナタ達は逃げないのですか?」
そう。リンダだけでなく、この病院内に居る人達は、街の中のあの騒動を知った上で、逃げようとする気配が全くなかった。魔王とかそういうのを全く気にしないかのような、普段通りの業務を行っていた。もっとも、患者は居なかったが。
そして、それがアレックスにはちょっとした違和感で、訊きたかったのだ。だが、それはリンダからすれば違和感でも何でもない。当たり前の言うまでもないことだった。だから、言う。
「愚問ね」
「愚問?」
「そ。ナースやドクターが、病院から逃げてどうするのよ? 体を悪くして、病院に行ったらもぬけの殻? 冗談にしてもタチが悪いわね」
「う」
確かに。
アレックスはそう思った。確かに、営んでいる病院に誰も居ないというのは、とても良くないというのは分かる。それを考慮すれば、不思議でも何でもなかった。
そして、さっきの自分の質問は、そんな使命に燃える彼女に対して失礼だったのだと。
だから、アレックスは自分の無礼を謝ろうと思った。だが、そんなアレックスにリンダは続けて言う。
「それに、もう魔王は首都から去ったと聞いた。それなのに、何を今更逃げようとするのかしら? 馬鹿じゃないの?」
「…………」
後者が本音だな。
アレックスは直感的にそう感じた。勿論、それを言葉にするような度胸はなかったが。