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「今日は、すまなかったね。本当は君まで巻き込むつもりはなかったのだが、本当に迷惑をかけた」
アーロンは車に乗り込んだ途端に、その言葉をつぶやいた。
心優しい彼のことだ。きっと自分のせいで私があの場にいたのだと思っているのだろう。
あたしの気持ちも知らないで、変に見栄も張らないで。自分が悪いものだと当然のように思っている。
だから謝罪の言葉を簡単に並べてしまえるのだ。
「いいえ、そんなことは……」
秘書として当然のこと。そう言葉を続けようと思ったけれど、なぜか言葉につまってそれが出てこなかった。
なぜ? なぜそう言わなかったのだろう。言葉にすればこんな簡単なものもない。秘書になってから何度も何度も繰り返して、すっかり口癖のようになっていた言葉なのに。
なぜ、言うのをためらったのだろう。秘書以上の何かを求めているのか。
まさか、突拍子もなさすぎる。一体何を求めるというのか。
「ありがとう。正直、君がいてくれて少しは安心したところがあったんだよ」
アーロンは朗らかに笑っている。歳に見合わない、まるで子供のようだ。歳ばかり重ねてしまった純粋無垢な大きな子供に。
「何をおっしゃいますやら、私がいなくてもあなただけであの方達とお会いになるはずだったのでしょう」
「まあ、な。だが、知っている顔がそばにいてくれると心強いものさ」
「そうですか」
街灯が夜道を照らし、車の脇を抜けていく。
通り過ぎる間際に明かりが車内に落ちて、私やアーロンの顔を闇に浮かべさせる。
「……あの子は、あなたの息子さんではありませんか」
「どうして、そう思うのかね」
「いえ、別に。意味はありません、ただ、そうなのではと思ったまでで」
自警団と親しげにしている子供。それだけでも下手な勘繰りをしてしまうし、事前にアーロンとドラゴンの女性との間に授かった子供について聞かされていれば、断定するのも不思議なことじゃない。
現にアーロンはわざわざあたしに理由を訪ねて間を伸ばしているだけで、否定してはいなかった。
「……ああ、そうだ」
アーロンは窓を向いて夜の闇に目を向けながら、ポツリと呟く。
窓に映る彼の顔には笑みは溢れていない。疲れ切った老人のような、年相応の衰えた顔が映っている。
「そう、ですか」
驚きはしなかった。だって大方の予想はついていたのだから。
「あの子は確かに私の……アリョーシの子供だ。今の今まで二人のことを忘れたことはない。そう、ただの一度も。だが、まさかこんな形で再び出会うとは夢にも思っていなかったよ」
窓に映る自分の顔にアーロンは言葉を投げる。独白のように聞こえていたけれど、その声の先には確かにあたしがいた。
「子供の願いを叶えてやるのが親の勤め。私にできることならば、なんだってするつもりだ。それも少々過保護が過ぎるとは思うが、長年会うことができなかった反動だろう」
「子供は誰にとっても可愛いものですよ」
「そう、だな。そうなのだろう。だが、正直に言えばまだ親という感覚がないのだよ。あの子を、自分の子供と理解できていない私もいるのだ」
流れていく景色を眺めながら、アーロンの口から力のない言葉も闇に浮かんでは消えていく。
「子を産み、育み、巣立っていく後ろ姿を眺めるまでずっと守っていく。その親の義務というべき役割を私は出来損なってしまった。それが私が親という生き物になれない一番の原因なのだ。目の前に現れた私の子を、まだ他人としてみてしまうのは、私が親というモノになりきっていない大きな証拠なのだろう。全くどうしようもないよ。ドラゴンの存亡を嘆くくせに自らの子と妻をないがしろにしていたのだからな」
「そんなことは……」
アーロンを励ます言葉をかけてあげたかったが、あたしの頭ではうまくその言葉を見つけられなかった、子供一人育てことのない女の励ましが、果たして効き目があるのか。
その思いが冷水ように染み渡って、火照った頭の中を急激に冷やしていく。
励ましてやりたい。けれど励ますような真似が話してあたしなどがしていいのか。半々する思いに引っ張られて、口に出すべき言葉を見失う。モゴモゴと口を動かす私を見てか、わずかに頬を歪めた。
「親は何を持って親になり得るのか。何を持って親と名乗ることが許されるのか。全く答えの出ない問いかけが、頭の中を行ったり来たりと忙しく走り回っている」
「……難しい問いですね」
「ああ。非常に難しい。考えれば考えるだけ沼に沈んでいくようだ。全く答えが見当たらない。親としてあるべき姿とは一体なんなのか。前例はいくらでもあるが、いずれも答えとは違う。理想の親。多種多様に存在する親というものは、全くどうやって親たり得ているのだろうな」
「さあ……あたしには分かりかねますね」
「私もだよ」
ふっと緩んだ頬。口角が緩やかに上がり、口元に笑みがこぼれた。
アーロンがいつも浮かべている微笑。でも、いつもよりも数段穏やかさがにじみ出ていて、それは子供を見つめる父親のような、暖かさのある微笑みだった。
あたしの前で、そんな表情を見せたことはなかった。
ちらりと横目でアーロンの顔を見て、あたしはそう思った。
そしてなぜか、心の隅がチクリと痛くなった。
まるで子供と母親を闇の中に見つけたような、穏やかな顔をするアーロンがひどく憎たらしい。
そして、そんな思いを抱く狭量な自分の心が、ひどく醜い何かに思えてたまらなくなった。
「答えの分からないものを考えたところで、仕方がないか。今は喫緊の問題に目を向けなければなるまいな」
「ええ。その通りです」
ロベルトがアーロンを連れて行くまで、残された時間はあと一日と数時間。
長いようで短いこの時間で用意できることなんてあるのだろうか。
不安は一向に尽きないが、不安にとらわれていても仕方がない。あるものないもの全部つぎ込んで、守れる用意はしておかないとならない。
帰った後でもやるべきことはある。いや、いつもよりさらに多くなった。万全とはいかないかもしれないが、ないよりはマシだと言う方法をいくつも作っておかなければ。
その時だ。ポケットに入っているスマホが震えた。
運転中だったから無視を決め込もうとしたけれど、一向に止む気配がない。ぶるぶるとポケットを揺らして横腹に振動が伝わる。
「電話、なっているぞ」
「ええ。ですが、今は運転中ですので」
「こんな夜更けに君にかけてきたんだ。何か不足のトラブルでもあったのかもしれん。自動運転に切り替えて、出なさい」
「そうですか……では、お言葉に甘えさせていただきます」
手動から自動へと切り替えてハンドルから手を離す。
ハンドルはあたしの手から離れても小刻みに動いて、車体のバランスを整えてくれる。
今時の車には自動運転のシステムは搭載されているものだが、ここ最近は滅多に使ったことはなかった。
自分で運転する機会がなかったからというのもあるが、幽霊がハンドルを握っているようで、ひどく不気味に思えてならなかった。
時代に取り残されるような感じがしてならないが、どうしてもこの何とも言えない感覚が邪魔をして、せっかくの便利な機能を滅多に使わないようしていた。
だが、今回ばかりは仕方がないだろう。文明の利器に頼って如何しようも無い感覚に目をつぶろう。そして執念深くなり続けるスマホを手にとった。
「はい、あたしです」