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タバコの先がチリチリと燃え、ユミルが息を吸い込むたびにタバコの灰が伸びる。
何度目かもわからない紫煙を口から吐き出し、緊張の和らいだ表情を見せる。
実に旨そうに吸うものだ。子供の形をしていなかったら、是非とも一本点けてもらいたいものだ。
「……さっきの質問だけど」
ユミルの口がポツリと呟く。紫煙が言葉を乗せて漂う。
「ええ」
「ここにいるのは、ほとんどあたしのわがままのせいよ」
「わがまま?」
「そう、わがまま。社長の秘書としての意地と私個人のどうしようもないわがままのせい。ほんと、自分でもなんでこんなことに首を突っ込んだのか、今もよく分かっていないの」
胸が大きく膨らみ、ゆっくりと萎んでいく。深い呼吸に灯った赤がタバコを焦がしていく。そしてユミルの口が再び開いた時、濃厚な紫煙が小さな口から這い出てきた。
「社長は自分の意思で、危険が転がる場所に足を踏み入れた。それは社長としてのメンツ、それに部下の不始末に対する責任。色々な思いが巡り巡って社長の足を動かさせたのだと思う」
長く脆くなった灰が口元から溢れ、ひらひらと舞いながら廊下に落ちていく。
「だけど、それだけじゃないって気付いてしまったのよ。あの人の目には会社だけじゃなくて、ずっと以前からあった古い記憶がべったりこびりついている。若かった頃に愛した女と、その息子がくっきりと浮かんでいるのよ。家族を放っておけない、たとえ何年も会っていないような女だとしても放っておくわけにはいかなかったのね。本当に勇敢で……馬鹿な男。忘れてしまっていたら、もっと楽な生き方ができたでしょうに」
タバコをそっと口から離し、吸い口をそっと指で弾く。灰が溢れ、隠されていた火種がぽっとタバコの先端に灯った。
「会社の為なのか。昔の女の窮地を救う為なのか。正直なところは社長だけが知っているし、あたしには分からない。きっとあたしが聞いたところで、社長は答えようとはしない。ばつが悪そうに微笑んではぐらかすに決まってる。いっつもそう。ひどい人だと思わない? こっちは部下として心配してあげているっていうのにさ。何年あんたの秘書として働いてきたと思っているのかしらね。あの人は」
「は、はあ……」
溜まりに溜まった鬱憤が怒りとなってユミルを焚きつけている。声を荒げる様子はないが、俺を見る彼女の視線はさっきよりも鋭さを増している。見られているだけでも背筋に冷たい汗が伝っていくのが分かった。
怒りの矛先が俺に向いてはいないことは分かっていても、何か癪に触るようなことを言って俺のためにならないと、はぐらかすような言葉を返す。触らぬ神に祟りなしだ。
「……君に愚痴っても仕方なかったわね、ごめん」
口から思いのこもった言葉を吐き出したことで、いくらか気分も晴れたらしい。鋭かった視線がふっと和らいで、少し申し訳なさそうに俺の頭を撫でた。
「……でも、あの人があたしを見ていなくたって、別にいい。気にかけてくれなくたっていい。ただ、あの人があたしの知らないところで危険な目にあうのだけは、我慢ならないの。もしそれで死んでしまったら、きっとあの人を殺した人を許さないし、きっとあの人のことも自分のことも恨み続ける、そんなのは嫌よ。絶対に嫌。だからあたしがあの人を守るって決めたの。これは秘書としてじゃなくて、あたし個人のわがままね。どうしようもなく子供みたいで、バカなわがままよ」
俺に語りかけているようで、語りかけていない。
聞かせているようで、聞かせるつもりはない。
まるで自分自身に言い聞かせるようなユミルの独白に、俺はなんと言って返した方がいいのか、正直なところ分からなかった。
アーロンとて話に聞けば五十の大台に入っているというが、男の俺がいうのもアレだが、端正な顔つきなことには間違いない。
白くなった髪も口髭も、年季の入った顔の皺も。老いさらばえたとしても端正さを崩してしまうものではない。それらはむしろいいアクセントとなってアーロンをより魅力的に演出している。
男の俺がそう思うのだから、秘書として、異性として長く連れ添っているであろうユミルの目にはより一層のフィルターがかかって見えることだろう。
いや、もしかすればすでにそういう関係になっていたかも……。
ゲスな勘繰りをしてしまったが、すぐに頭を振って霧散させる。
アリョーシと別れてからアーロンもまた別の人生を歩んでいったのだ。どんな女性と付き合い、また関係を結んだとしてもそれは個人に許された自由だ。興味本位で暴き立てるようなことじゃない。
例え彼の根っこにアリョーシと俺という存在があったにせよ、ドラゴンとの恋に未練があったにせよ、人との出会いを通して人の心も思考も変わっていく。
変わらないことを美徳とする奴も中にはいるが、どんな時でも変わることのない人間なんていやしない。ただの理想論で変わることを怖がる奴らの戯言だ。耳を傾けるだけ時間の無駄だ。
理想のために。
理念のために。
権力のために。
金のために。
女のために。
人が変わる理由なんて欲望の数だけ存在する。例え他人には分からないような小さな理由だとしても、人間は絶えず変化していくことができる。
そして、その都度その都度見えない糸に手繰り寄せられたかのように、人との縁が生まれる。
俺の死という変化によって、アリョーシという女性との縁が出来たように。
アーロンも別れという変化の先に、ユミルという女性との縁が紡がれていた。
ただ、それだけの話だ。
話は終わりだと言わんばかりに、ユミルはタバコを廊下に落としヒールの底で踏み消す。
悲痛に紙の中から扉したタバコの葉が、廊下の穴から下へとこぼれ落ちた。
「……子供にはつまらない話だったわね」
肩をすくませてユミルは力なく俺に微笑んだ。
「いえ……そんなことは」
「無理しなくてもいいわ。でも、きっと君も大きくなったら、分かる時が来る。どうしようもない感情に流されて、馬鹿をみるって分かっていても、突き進んじゃうときがね」
そっと頭に置かれたユミルの手。その手は優しく髪を撫でてくれる。
出来の悪い子供にそうするように、歳の離れた弟や妹にそうするように。笑い皺を浮かべたユミルの顔は、さっきよりもずっと儚げに見えた。
「終わったぞ」
ゼレカの無神経な声が聞こえたのはその時だった。
顔をそっちに向ると、ドアが少し開いてその隙間からゼレカのジト目がこちらを見つめていた。
「……脅かさないでくださいよ。心臓に悪い」
「ごめんごめん」
心にもない謝罪の言葉を吐き出せば、ゼレカはゆっくりドアを開けた。部屋を覗いてみると、アマンダとガブリエルに対面するようにアーロンが座っている。
が、彼の背中はみすぼらしく縮こまっていて、なんとなく悲壮感を背負っているように見えた。
どうやらこってりと彼女たちに絞られたらしい。
御愁傷様と心の中で思いながら、俺は自然と苦笑を浮かべてしまう。
「あなたももう入っていい」
その言葉はユミルに向けられていた。
「ありがとう」
感謝の言葉を述べながら、ユミルは部屋の中へと入っていった。
そしてアーロンの背中にそっと手を添えて優しくさする。アーロンはユミルに顔を向けると、力なく頬を歪めていた。
アーロンはユミルのことをどう思っているのだろうか。
ただの興味でそれ以上の何かがあったわけじゃない。ただ、気になっただけだ。
献身的な秘書と思っているだけなのだろうか。それともそれ以上の思いを抱かせる女性と思っているのか。
それはアーロンの胸の内を開いてみるしかない。俺は超能力者じゃないんだ。ドラゴンの力があっても人の心を覗くことはできない。
けれど、たとえ覗いたとしてもアーロンの全てを知ることは、きっと出来ないだろう。
なんとなく、そう思った。