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ホテルから一時間ほど走った所。ゼレカの運転する車はエデン郊外にある古いアパートの前で止まった。
アパートとは言うが、厳密に言えばだったものといったほうが正しい。
外壁を作っていた煉瓦はところどころが崩れており、煉瓦をつなげていたモルタルと一緒に道端に散乱している。
窓ガラスは割れ玄関の扉も打ち破られたようにひしゃげて傾いていた。
廃墟。という名前がこれ以上ぴったりとくる建物もない。
人気のない通りに合間ってその建物はひどく寂れて見える。
道端に転がる煉瓦を避けながら、廃墟の扉にそっと手を掛ける。
留め金までもバカになっているようで、少し押しただけでドアが留め金から解放されて、前のめりに倒れていく。
バタン、と物音を立て倒れたせいで、ネズミやゴキブリたちが驚いてあちこちに逃げ惑っていく。
埃が舞い上がりそれが居場所を求めて玄関の方へと流れてくる。
まともに食らった俺は鼻がむず痒くなってむせかえった。
「大丈夫?」
アマンダの声が聞こえてきた。
肩越しに見ると頬を歪めていた。バカにしている様子はなく、転んで泣きわめく子供に向けるような、仕方のない苦笑を浮かべている。
「ええ。大丈夫です」
涙目になりながらアマンダに言ってやった。
これでも精一杯の強がりだったんだが、ゲホゲホと噎せこみながらではあまり意味がない。
アマンダは苦笑を浮かべながら俺の肩を叩いて廃墟に足を踏み入れる。
続いてガブリエルが頭をなぜて行き、ゼレカは「早く行って」と言葉で急かしてくる。
恨めしげにゼレカを睨んでやるが対してひるんだ様子はない。
それどころか眉根をひそめて邪魔だと言わんばかりに睨み返してきた。
睨まれる覚えはこれっぽちもなかったが、何となく居心地が悪くなって、ゼレカから逃げるように廃墟に入った。
廊下は長くそして暗い。
天井にあるはずの照明器具は取り払われていて、取り付ける金具だけが寂しげにつけられている。
廊下を挟む壁にはきっと色鮮やかな花の壁紙が貼られていたのだろうけど、長年の劣化によって剥げてしまい、その下に隠されたコンクリや鉄筋までもあらわになっている。
壁紙の残骸は雪のように廊下に降り積もり、歩を進めるたびに足の下で音を立てて崩れていく。
アマンダを先頭にガブリエル、俺、ゼレカの順で一列になって進んでいく。
自警団の面々は拳銃を手に握り、油断なく警戒を払っていく。
部屋の一つ一つをしらみつぶしに見て行き、人影や危険がないかを確かめながら探索する。
一階には全部で三部屋ほどの部屋が設けられていたが、どれも人が住んでいた痕跡はない。
唯一の住人である猫が、俺たちに驚いて穴の空いた壁から逃げ出していった。
一階を終えれば今度は二階へ。階段に一歩足を踏み込んだだけで軋み、悲痛な悲鳴が鼓膜を揺さぶってくる。
抜け落ちるんじゃないかと不安を覚えながら 慎重に登っていく。
二階には二部屋しかなく、一階に比べて少し広々としている。
廊下は一階よりも埃はなかったが、ところどころ床が抜けていて危険度は比べようもない。
部屋の一つは完全に抜け落ちた方向にあるため確かめることができなかったから、残り一部屋を確認することとなった。
ドアを挟み込むように二手に分かれ、ガブリエルがノブを掴む。そしてゆっくりと開けて姿勢を低くしつつ、中へと入っていく。
その部屋は、他の部屋とは少し違っていた。その違和感に気がついたのは、部屋の中に入ってからのことだった。
壁紙は所々剥げているのは、外の壁も部屋の壁も同じなのだが、破片が落ちているはずの床は綺麗に掃き清められ、埃一つ見当たらない。
またソファに衣装ダンス、本棚など一通りの家具が部屋の中に備えられており、暖炉には使ったと思われる薪木の灰が残っている。
人が、いる。
ありありと感じる人の気配に警戒心が掻き立てられる。
「アマンダ」
先に部屋に入ったガブリエルがアマンダを呼ぶ。
アマンダは一つ頷いてみせると、部屋に入り他の空間を見て回った。
洗面所、トイレ、キッチン、さらにはベランダまで。
ありとあらゆる物影を調べつくし、ようやく安全が確保されたのは十分ほど経ってからだった。
ここに住んでいた住人は結局のところ見つからなかった。
きっとホームレスの誰かがここに住み着いていて、どこかへと引っ越したのだろう。と今思いつく限りの答えをこしらえて、一応は納得した。
寒さを紛らわせるために、暖炉に火を灯す。
仄かに明るくなった部屋をぐるりと見回すと、ガブリエルは俺をソファに座らせて窓辺によって外を見る。
外には先ほど止めたばかりの車があるだけで、人影も車の姿も何一つ見えない。
月明かりによって浮かび上がる光景はひどく殺風景なものだ。
だがガブリエルやアマンダの手から銃が下されることはない。
いつでも引き金を引けるように指をかけて、見ない敵へ向けて注意を払っている。
「カメラは、仕掛けられていないみたい」
壁や天井の壁を剥がしたり、棚の中を探ったりしながら、ゼレカは言う。
「一応まだ調べてちょうだい。カメラだけじゃなく盗聴器も仕掛けられているかもしれないから」
「了解」
アマンダの方へ顔を向けることなくゼレカは部屋の隅々を探っていく。言われるまでもないといった様子だ。
三人のいる居間から寝室らしき部屋。それに加えて先ほどアマンダが確認した所も、調べていく。
「ガブリエルさん、今何時?」
「……九時二十五分だ」
腕時計に目を落としながら、ガブリエルが答える。
まだ、日をまたぐまで時間はある。
しかし時間に余裕があったとしてもやることはない。強いて言うのなら暖炉に灯した火を絶やさずにいることぐらいだ。
暖炉のそばにあった薪木を取ると、適当に火の中に放る。
徐々に強まっていく炎は真新しい薪木を飲み込み、さらに炎を膨張させて、より明るく、より温めてくれる。
「来ますかね、あの人」
誰に問うでもなくポツリと言葉が漏れた。
あの人、とはアーロンのことを指している。
それをいちいち説明しなくてもここにいる誰も理解していることだろう。現に、アマンダはそう理解して口を開いた。
「それは分からないわね。来ないかもしれないし、来れない事態に巻き込まれているのかもしれない」
「来れない事態?」
「例えば離した瞬間に人質に取られるとか、口封じのために殺されるとか。色々。最悪なことは常に考えておいた方がいいって言うけど、そう言う悪い方向のことは考えれば考えるほど出てくるのよね。それにひきかえうまくいった場合のことは点で湧いてこないのが不思議なくらい」
冗談半分といった様子だったけど、アマンダの口から出た言葉を聞き流すことはできなかった。実際にそれぐらいの危険は当たり前に転がっていたのだから。
「もし来なかった時は、どうしますか」
「その時はその時、また別の方法を考えればいいだけの話よ。大丈夫、そのぐらいのことは得意だから。それにここにはガブリエルもゼレカもいる。脳みそが三つあれば一つくらい名案が浮かぶはずよ」
肩をすくめながら何てことないようにアマンダが言う。
頼もしい反面、つまり今のところは何も手段がないと言っているのと一緒だった。
何もない以上アーロンがくるのを待つしかない。
時間が刻々と過ぎていくが、何もしない時間は本当に過ぎるのが遅い。
たった数分の間が一時間以上に感じられてしまう。
部屋には時計がなく、時間を確かめるのはガブリエルとアマンダの身に着ける腕時計だけ。
二人は時折目を腕時計に落としながら、けれど警戒は忘れない。
九時を過ぎ、十時を回ろうかと言う時。エンジンの音が空気を揺らした。
その音は次第に大きくなって、俺たちのいる方向へと近づいているような気がする。いや、気がするんじゃない。現にこっちを目指して走ってきているように思えた。
窓辺に立ったガブリエルは注意深くその音のする方向を睨みつける。
すると、遠くからヘッドライトを輝かせて一台の車がやってきた。
黒塗りのいかにも高級そうなその車はどこかに折れる様子もなく、俺たちのいる廃墟の前に横づける。
気になって俺も窓からチラッと外を見る。
車から降りてきたのは、二人。
一人は女、ピシッとしたスーツにタイトなスカート。長い金髪を煩わしくならないように後頭部で結い上げている。利発そうな顔立ちが月明かりの中に浮かび上がっていた。
「あら? あの人……」
窓から女性を眺めていると、背後からアマンダの声が聞こえてきた。顔を向けてみれば、彼女もまた窓の外を眺めて二人の姿を見守っている。
「アマンダさん、知っているんですか」
「知っていると言うか。アーロンさんのすぐそばについて回ってた女性よ。確かユミルさんって言ったかしら、格好からして秘書か何かだと思っていたけど」
秘書。社長ともなれば秘書の一人や二人着くのなんて当たり前だとは思うが、それでもなぜその秘書までも連れてきたのかは、皆目検討がつかない。
二人はキョロキョロと左右を見渡したのち、ゆっくりとアパートの中へ入ってくる。
アーロンが来てくれた。本当に来た。約束通り、今日が終わる前に。
ひょっとしたら来ないんじゃないかと思っていたから、アーロンの姿を観れたことには俺も少しだけ胸をなでおろした。
俺だけじゃない、窓辺に立ったガブリエルも同じように少しだけ安堵しているように見えた。
けれど、安堵しきることができないのは、アーロンの傍にいた招かれざる秘書の存在があったからだ。
それはアーロンの口から聞くほかない。彼女が敵でないことを祈るばかりだが、もしもそうだとしたら。もしも、彼女がロベルトに遣わされた誰かだったとしたら、その時は……。
あまりそういうことは考えたくはない。考えるたびに鬱々とするし、嫌な感情が心に重くのしかかるから。
だけど俺がしなくとも、アマンダやガブリエルがする可能性はある。というか、アマンダなら確実に引き金を引く。
信頼ではないが、アマンダは近くで見てきた分、彼女の躊躇のなさは身にしみて分かっているつもりだ。
アマンダならやる。たとえアーロンの前であろうと、不穏分子は確実に摘む。
二人の男女の足音が廊下に響く。
彼らが連れてくるのは希望か不幸か。それすら今の俺では分からない。
ただ確実に歯車は軋みを上げながら回ったことに違いはなかった。