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下の階が何やら騒がしい。
もう夜だと言うのに何をそんなに騒いでいるのだろうか。
こっちは仕事の疲れもあって眠ろうとしているのに、やかましい音のせいですっかり目が覚めてしまった。
うんと背伸びをしてベッドから起き上がると、やおらにドアの覗き穴から廊下をみる。
普通の廊下。俺が部屋に来た時となんら変わった様子のない廊下があった。
どうやら騒ぎはまだここにまで登ってきてはいないようだ。けれど、足元から聞こえてくる騒ぎはまだ続いている。
重い体を引きずってわざわざいく必要もないだろう。フロントに電話を入れて注意に向かわせれば良い。
幸い内線用の電話も部屋には完備されているし、番号も二桁だけなので寝ぼけた頭でも入力しやすい。
電話をかけたら、一杯引っ掛けてもう一度夢の中へと舞いもどろう。
せっかく高い部屋を借りているんだ。馬鹿どもに付き合って眠りを妨げられてたまるものか。
受話器を手にとって番号を入れる。二、三回コールをすればすぐに出るはずだったのだが、中々出ない。
おいおい、どうなっているんだ。まさかフロントにいないと言うこともないだろう。
なかなか繋がらない電話に業を煮やしていると、突然
ドンッ。
ドアに何か固い物がぶち当たった。
思わず体がびくりと跳ね上がり、受話器を握る手に力が込もる。
何だ、酔っ払いがドアにぶつかりでもしたのか。
受話器を元に戻して、恐る恐る覗き穴から廊下を見る。
見えたのは、何かの頭だった。
頭部の皮脂がどアップで目に飛び込んできて、すぐに離れていき、赤髪の女性へと挑みかかっていく。
何だ喧嘩か。こんな高いビルまで来て、ずいぶん暇な連中もいたものだ。
男女のいざこざか。
それとも金銭トラブルか。
色々考えられるが、俺には関係のない話だ。どっちかが倒れるまでやってほどほどに怪我をすれば良い。
助けに行って怪我をする方がバカなだけ。
驚くだけ損をした。せめてホテルの外でやってくれれば良かったが、盛り上がっているところに水をさすのも嫌だし、それに巻き込まれて無駄な敵意を向けられてもかなわない。
フロントに電話が繋がらないのは残念だが、あとあと、ホテル側に連絡して事情を話せばいいだろう。それまでの間酒を飲んでベッドに横になっていよう。
欠伸を一つついてドアに背を向ける。
その矢先、ドアの外から再び物音が響いてきた。音でびっくりするのも嫌になるが、今度の音は反応せざるを得ない
破裂音のような音が二発。いや三発。外から聞こえてきた。
普通の喧嘩でそんな音が鳴るはずもない。
恐る恐る、忍び足でドアに近寄ってドアを覗く。
二人の男が並び立って、銃を構えていた。
二つの銃口の先にはさっきの赤髪の女性が立っている。
あっ、と言う間に男たちは女性に向けて引き金を引いた。
弾丸が銃口から吐き出され、二つの閃光が一瞬浮かび上がる。
目にも留まらぬ速さで弾丸は女性へと放たれるが、しかし弾丸は女性には当たらずに、彼女の背後にあった壁を穿つだけだ。
女性は態勢を低く保ち二人の男へと迫る。その間にも男たちは引き金を弾き続け、執拗に女性を殺そうとする。
もはやそれは喧嘩じゃない。殺し合いだ。
小さな悲鳴が遠くから聞こえてきたが、運悪く出くわしてしまったんだろう。
助けに行ってやりたいが、俺だって命は惜しい。
下手に部屋を出て男たちの銃口がこっちを向いたらたまったものじゃない。
無事を祈ってやりはするが、恨まれる覚えはない。
女性は肩や腕に弾丸による傷をいくつも作っていくが、ひるむ様子は一向にない。
走る。
走る。
ただ一つの目標に向かって。
二つの銃口が女性の額に向いた時、女性の腕がしなり男たちの手首を弾く。
男たちは引き金を引くが、弾丸はあられもない方向へと吐き出され、壁と天井のランプを貫いた。
何とか難を逃れたらしい。だが男たちの手首を見た時、俺はあっけにとられた。
たった一発。それも女性の力で殴られただけだと言うのに、殴られた手首はあらぬ方向へと曲がり、赤黒く腫れ上がっている。
コンクリでできた何かで思い切り殴りつけられたような、そんな傷跡だ。
見ているだけでこっちの手首まで疼いてきそうだ。
女性はそのまま片方の男の顎をかちあげる。ぐらりと白目を向いて膝をついて倒れていく男を尻目に、女性はもう片方の男へと挑む。
残った男は痛みに耐えながらも女性に殴りかかる。
男の拳は大振りで避けるのは簡単そうに見えた。しかし、女性は避ける様子はない。
危ない。とっさに声が出そうになったが、女性がついに動く。
男の手を受け止めつつ、その衝撃を利用して体をのけぞらせ足を振り上げる。
そして男の首筋に足をかけて体重をかけて引き倒しにかかる。
女性といえど中身は数十キロある肉の塊だ。肩腕一本で支えられるはずもなく、男の体は床へと引き寄せられ一回転して仰向けに倒された。
女性は男の首に膝を足当て、もう片方は男の胸板の上に乗せる。
殴りかかってきた腕を両足で挟み込む。
その腕を自分の体へと引き寄せ小指側に捻りながら、一気に極める。
ボゴッ。と人体から決して聞こえてはいけない音がドア越しに聞こえてきた。
その直後、男の悲鳴が廊下に響き渡った。
赤子がなき湧くように、足をジタバタと暴れさせ顔は涙と鼻水で濡れている。
肘から先の前腕が本来曲がるはずのない方向へ曲げられ、骨の先が肘の内側から皮膚を押して凹凸を作り出している。見ているだけでも痛い。あれは腫れるどころの騒ぎじゃない。
女性が男の腕を解放すると、男は我が子をだき包むように自分の腕を抱きしめた。
けれどもう一方の手首もひん曲がっているため、力を加えてさらに悶え苦しんでいる。
女性は男二人を廊下の片隅に寄せて両手足を何かで縛っている。
そして息を左手側の廊下を進んでいく。覗き穴の角度からでは見えないが、どうやらそこに誰かがいるようだ。
ドアに耳をつけてみると、何やら小さな声が遠くから聞こえてくる。
なおもじっとのぞき穴をのぞいていると、またあの女性が通りかかった。
そして何を思ったのか、俺の部屋の前で立ち止まると、顔をこっちに向けてきた。
綺麗な顔だった。
可愛いを売りにしているモデルとかそう言う綺麗さとかではなく、もっと無骨でアクション映画に出てきそうな女優、といった綺麗さだ。
一瞬息を飲んだが、俺は彼女の視線から逃れるように覗き穴から離れた。
俺がずっと見続けていたのに気がついていたのか。まさか、そんなことあるはずがない。
だが、どう言う訳か、ドア越しにその女性が俺のことを見透かしているような気がしてならない。
俺はしばらくの間、ドアに視線を向けていた。別に悪いことはしていないし、彼女に何かをした覚えもない。
けれどなぜか彼女のあの目が頭の中にまで入り込んできて、どこにあるともしれない視線に怯えてしまう。
自警団に連絡するのが一番だ。それ以外に俺にできることはない。
しかし俺は立ち尽くしたまま、動くことも忘れてドアをじっと見つめていた。