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「今、飛び移って」
ゼレカからの合図。いよいよ大空に飛び立つ時が来た。
屋上の縁から下を覗いてみると、これがなかなかの高さだ。森の木々なんか比べ物にならないほど、高い。
地上をいく車はおもちゃのラジコンか、ミニチュアの車と同じようにしか見えないし、人間なんてもう豆粒かアリだ。とてもじゃないがどんな格好とか、どんな髪型とか分かったものじゃない。
それに何より、ビルの下から吹き上げてくる風が思ったよりも強い。目を細めないと下なんて見えないし、足にしっかりと力を入れていないと風にあおられて倒れてしまいそうだ。
はねられる前髪を押さえつけながら一旦は後ろに下がる。正直に言おう、怖かった。アリョーシの背中から飛び立つよりも、ずっと。
「早く行って」
「分かりましたよ……」
しかし俺の想いなんて、ゼレカの知ったこっちゃないだろう。
高さと風の強さでちょっとだけ心が折れかけていた俺の背中に、ゼレカの急かす声が掛かる。
急かしたくなる気持ちも分からないでもない。ダイビングの時にいつまでも降りようとしない奴が先頭だと、急かしたくなるものだ。
いや、正確には計画を進める上で、突然怖気付く奴への苛立ちかもしれないけど。
どちらにせよ、ここにいつまでもいたらゼレカの機嫌が秒読みで悪くなっていくことは間違いがない。
上りと下りそれぞれ三車線の道路を挟んで、ホテルとこのビルは並び立っている。いくらビルの方かホテルより数階分背が高いからって、助走もなしに飛べる自信はない。
やってやれないこともないかもしれないが、そこは気持ち的な問題になる。飛ぶこと自体同じならば、充分に距離をとった状態からスタートしてもいいだろう。
ホテル側の縁とは反対側の縁に向かい、数回ジャップする。足首からふとももまで下半身全体に刺激を加えてアップをする。そしてにわかに温まったところで一気に加速。トップスピードに乗ったまま縁を蹴って空へと飛び立つ。
走り幅跳びの要領で飛んだが当然距離は足りない。すぐさま両手を広げて、モヤを背後へと噴射する。
夜空をなぞるように緩やかな曲線を描きながら、俺は空中をかける。
冷たい冬の空気が正面からと足元から吹き付けてくる。これは森の木々にはない感覚だ。少しだけ空中姿勢が乱れるが、うまくモヤを調整して態勢を整える。
そしてホテルの屋上に足をかけて、少し前のめりになって着地をする。
勢いを殺すために前転を一回を加えたけど、どうにか着地できたことにひとまずは胸をなでおろした。
「お見事」
ガブリエルが拍手とともに俺を出迎えてくれた。
「どうも」
素っ気なく返事をしつつ体についたほこりを払って立ち上がる。
別に彼女に褒められるために飛んだわけじゃない。それはガブリエルも分かっている。すぐに拍手をやめてポケットに手を入れる。
「ほら、これ持ってろ」
そう言うとガブリエルは一丁の拳銃を取り出した。
確か〈Px4ストーム〉とかいう名前の拳銃だったと思う。自警団で支給されている武器で、以前ひったくりにアマンダが向けた銃と同じものだ。俺も銃の練習をする時に使わせてもらった。
ガブリエルは黒塗りの銃身を握り、グリップを俺に向ける。
「……ありがとうございます」
拳銃を受け取り、腰ベルトに差し込む。たった1㎏ちょっとの鉄の塊だが、それでもずしりと重みを感じる。
あくまで護身用だ。危険になった時の最終手段だ。使う必要がなければそれにこしたことはない。大丈夫、大丈夫。
波たつ心を鎮めて、拳銃をポンポンと叩く。それで何が変わることもないけど、体にのしかかった重さは、少しだけ軽くなった。
「部屋に隠れるんでしたっけ」
「ああ。ついてきな」
ガブリエルは踵を返してホテル内へ向かって歩く。俺もその後を追ってホテルに入った。
階段を降りてエレベーターに乗り込む。二つの階を過ぎたところでエレベータが止まり俺たちは降りた。
右手の廊下を進みガブリエルの足が138のドアの前に止まる。どうやらそこのようだ。
ドアにつけられた機械にカードを読み込ませればピピッと電子音がなり、赤いランプが青に変わる。
するとドアを閉じていた留め金が外れて、ノブを回せば簡単に開いた。
中に入って見れば普通のホテルの一室だ。大きめのシングルベッドに冷蔵庫、それに窓近くにはテーブルとソファが置いてある。
乳白色の壁には港のような絵画が飾られているが、特に鑑賞気分にはならないためあまり目に止まらない。
ガブリエルは俺を外に立たせたまま部屋に入って物色を始めた。
物取り、ではない。鏡の上やコンセントの中。あとは壁の隅々にまで気を配って何かを探している。
一通り確かめたところで、ガブリエルはカーテンを閉めて俺を中に入れた。
「アマンダ、こっちは予定通りリュカ坊を部屋に入れた。盗聴器やカメラは仕掛けられていない」
ガブリエルの耳についているイヤホンには見覚えがある。
通信でアマンダにメッセージを送っているようだ。もちろんその内容は俺の耳につけられたイヤホンでも聞く事ができる。
「そう。それじゃリュカくんはその部屋で待機していてちょうだい。私は先に会場に戻っているから、ガブリエルはこっちにきて頂戴。部長は多分帰っているから気にしなくてもいいけど、もしあの人が誰かに絡まれていても素知らぬふりをしていれば大丈夫だと思うから」
「了解」
その言葉を最後に通信を終えると、ガブリエルは俺に近づいてきて肩にそっと手を置いた。
「何があっても私やアマンダが戻ってくるまでは扉を開けるな。絶対だ。約束できるか」
「……ええ。大丈夫です」
「そうか。ならいい」
ガブリエルが出て行った後、ドアを閉める。念の為外には就寝中のプレートをノブに引っ掛けておいた。内鍵にチェーンをつけてと念入りに閉めて、戸締りを完璧にこなす。
部屋の時計を見れば、午後七時五十七分。もうすぐ八時になろうと言う時間だ。
パーティのスケジュール通りに行けば、そろそろ宴も折り返す時間。
アーロンの出番が始まったか終わったか微妙だが、スピーチを終えたところでガブリエルとアマンダがアーロンを連れ出し、そして俺は父親と対面して事情を説明する。
うまくすれば誰も傷つかずに、そしてアリョーシを助け出せる道筋が見えてくる。
いや、うまくいけばじゃない。必ず成功させるんだ。
グッと拳を握りしめて覚悟を決める。もう迷いはない。やるべきことをやるだけだ。
そして、あの二人には言わなければならない。
俺があなた達二人の子供の体を使っていることを、それを今まで隠していたことを、伝えなければならない。
ガブリエルやアマンダ、ゼレカには伝えてはいない。これからもこちらから伝えるつもりはない。
ここまで世話になっておいて言うことではないかもしれないが、あの三人は俺たち家族にとって部外者で、赤の他人だ。
本来なら俺もアーロンやアリョーシ、それにリュカの家族と全く関係のない人間だが。
もちろんあの三人には申し訳ないと思っている。
何度も危ないところを助けてもらった。
衣食住で世話にもなった。
言葉も、そしてアリョーシを助ける手助けもしてもらった。
足を向けて寝ることはできないし、なんなら一生頭をあげることができないくらい、恩を受けさせてもらった。
だけど、俺の正体を明かす相手は彼女たちではない。恩人ではあるが、俺の正体を知ってもらいたい人たちではないのだ。
俺が打ち明けたいのは、アーロンとアリョーシの二人。リュカの父親と母親でなければならない。
例え、アーロンに白い目を向けられても、アリョーシに牙を向けられてもいい。彼らの怒りや憎しみは全て俺がかぶろう。
きっと、聞いた瞬間は意味のわからなさで戸惑うことだろうと思う。そんなすぐに信じてもらえるとは俺も思っていない。それに話したところで信じてもらえるかどうかも分からない。でも、話さないわけにはいかない。
不可抗力とはいえ、自分の手を汚していないとはいえ、本来いるべきはずのリュカという少年を殺してしまったことは事実なのだから。
なんの変哲も無い天井を眺めながら、俺はそんなことを思う。バカバカしくも大切な決意。それを胸の内に抱えて時がくるのを待った。
静寂に包まれた部屋。時計の針が時を刻み、遠くから聞こえる車の走行音が近寄っては消えて行く。
だから突然訪れたノックの音は、部屋にやけに大きく響いていた。