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午後七時十一分。
ガブリエルと部長のレイモンドを乗せて、アマンダの車はホテルへと向かっていた。
パーティはすでに始まっているが、挨拶回りだけと言うこともあってレイモンドは特に焦った様子はない。いつものように腕を組んで、不機嫌そうに眉を寄せている。
「少しは楽しそうな顔をしたらどうですか。せっかくのパーティなんですから」
アマンダが茶化すようにレイモンドに言う。
「ただ挨拶をするだけだ。挨拶に楽しいもクソもないだろう」
「その挨拶が信用問題になることだってあるんですから。そんなむくれ面で挨拶されたら、先方も気を悪くするってものです。ほら、スマイルスマイル」
「私の顔だけで信用を無くすような相手と関係を結んだ覚えはない」
ムッとした顔がさらに険しくなり、それに応じてレイモンドの機嫌も悪くなっていく。
険悪な雰囲気が車内に広がっていくが、レイモンドの態度に慣れきってしまった二人にとっては大したことではなかった。
「そんな機嫌を悪くしないでくださいよ。アマンダだって冗談半分で言っているんですから」
「機嫌を悪くしたわけではないさ。ただ俺でなくとも他の連中が行けば済むものを、わざわざ俺が出向かなくてはならなくなったのが納得いかないだけだ」
仕方なしにガブリエルは機嫌を直してもらおうと言葉をかけたが、効果はなかった。
レイモンドはいよいよ腕組みはきつくして、苛立ちから深いため息をこぼした。
「そう気を落とすこともないでしょう。おかげで計画が進められるんですから、こっちとしては大助かりです。ほかの人ではこうもすんなりことを運べなかったでしょうし、部長には感謝していますよ」
「それは俺が利用しやすいから言っているだけか?」
「とんでもない。心の広い部長だからこそですよ。よっ、さすが部長」
露骨なよいしょはただ小馬鹿にしているようにしか聞こえない。
それだからかアマンダもふざけた調子は崩さず、レイモンドも半分聞き流していた。
「ともかくお前らは計画にだけ注力していればいい。俺のことは考えるな」
「はーい」
アマンダの気の無い返事を最後に、車内に沈黙がやってきた。
それから数分もしないうちにホテルの前にきた。玄関のところに止めると、授業員がドアを開ける。
ガブリエル、レイモンドの順で二人が降りたところを見ると、アマンダはエンジンを切り、キーをつけたまま車を降りる。
「駐車、頼むわね」
アマンダの頼みにスタッフは快く頷いた。
三人は玄関ロビーにくると、アマンダが先にフロントへと向かう。
「レベッカ・クロウよ。部屋の予約をしたんだけど、確認してもらえるかしら」
「レベッカ・クロウ様ですね。少々お待ちください」
フロントの男は手元にあるタブレットを操作し、アマンダの言う名前を入力していく。
「お待ちしておりました、クロウ様。こちらが部屋のキーになります。お受け取りください」
どうやら該当する名前があったらしい。男はにこやかに営業スマイルを浮かべると、従業員側の戸棚を開けて、そこから一枚のカードキーを取り出してきた。
金色の表面にはホテルの名前と部屋の番号、それに代々使われてきたバラの紋章があしらわれている。裏を見てみればバーコードがカードの上部に刻まれている。
「お荷物はこちらからお部屋に運ばせていただくこともできますが、いかがいたしますか」
「いえ、大丈夫よ。ありがとう」
「そうですか。ではごゆっくり」
男はそういうと、アマンダに向かって深々と頭を下げた。
ただカードの受け渡しだけにそんな恭しくしてもしょうがないだろうに。
心の中でつぶやいてみるが、人が頭を下げるのをみて気をよくする連中もいるから、それも気分良くとまってもらうための配慮だろう。
アマンダとて悪い気はしない。
「レベッカ・クロウ?」
フロントでのやり取りを聞いていたのだろう。戻ってきたアマンダにガブリエルのいぶかしむ視線が刺さる。
「偽名よ、偽名。一応予約の名前だけでも変えておこうと思ってね。だからここではレベッカって呼んでちょうだい」
「お前にはいったい幾つ名前があるんだ、レベッカ」
さすが飲み込みが早い。多少の疑問はあるだろうけど、あまり深く考えないでまずは飲んでくれるのがガブリエルのいいところだ。
「数えたことはないわね。とっさの嘘もあるし住所から顔から変えてあるやつもあるし、まあ教えはしないけどね」
「器用なやつだな。全く」
「何言っているのよ。あなたにもやってもらうんだから」
「は?」
アマンダの言葉の意図が分からずにいると、フロントの方から男がこちらに駆け寄ってくる。
先ほどアマンダの応対をした従業員だ。
「レベッカ様、お忘れ物ですよ」
従業員が手にしていたのは、茶色い皮で作られた手帳だ。新品の頃とは比べようもないほど手の脂や汚れに寄って黒ずみ、折れたところには皺が寄っている。
手帳の下部には丁寧な刺繍でレベッカ・クロウのイニシャルが入っている。だが、その手帳はアマンダのものではない。この日のためにわざわざ作ったのだろう。
「ああ、ありがとう」
アマンダは微笑みながら手帳を受け取る。
「丁度いいわ。この人も予約を入れていたから、よかったら確認してくれるかしら? 名前はリリー・レンであるはずだから」
「かしこまりました。ではリリー様、こちらへ」
「……ああ」
何が丁度いいだ。
手帳をわざわざ忘れるなんてことをこの女がするはずがない。その手帳もわざと忘れて男をこっちに寄越したのだろうが。
色々と言ってやりたいことは浮かんでいたが、今はただアマンダをきつく睨むだけにして、ガブリエルは男とともにフロントへと向かう。
そして必要な確認作業を終えると、キーカードを受け取ってアマンダのところへと戻ってきた。
「私の名前で部屋を取ってくれるんじゃなかったのか。何だ、リリー・レンって」
「可愛らしい名前でしょ」
「名前を変えるならそう言ってくれればいいだろうが。勝手なことをしやがって」
「言わなかったのは悪かったと思っているわよ。でもあなたの驚く顔って見ていて面白いんだもの」
「性格の悪さが出ているぞ。お前」
「いつまで待たせる気だ」
アマンダとガブリエルの会話を、レイモンドはソファに座りながら聞いていた。腕を組んで足を組んで、さらには眉根をよせてまで不機嫌さをあらわにしている。
「ああ、すみません部長。別に部長を忘れてたわけじゃないんですよ」
アマンダは顔を向けると取り繕うにレイモンドに言った。「ああ」なんて言っている時点で忘れていたのは見え見えだったが。
「……行くぞ。これ以上待たせられても困る」
レイモンドはそう言うとソファから立ち上がり、アマンダとガブリエルの脇を抜けて二階のフロアへと歩いていく。その後を二人揃ってついていく。
階段を上がって廊下を進んでいく。大宴会場の前には仮設の受付が設けられていて、ホテルスタッフが二人待機している。
「こちらのお名前をご記入ください」
スタッフの一人が言った。
テーブルの上にはタッチペンとタブレットが二つ置いてある。タブレットには名前を記入する項目が映されており、そこにはすでに何人もの名前が記入されている。
レイモンドは自分の名前を記入すると、二人を連れ立って中へと入っていく。
会場の中にはすでに多くの客人がひしめいていた。皆グラスを片手に談笑を楽しんだり、料理に舌鼓を打ったりとそれぞれに時間を過ごしている。
スーツ姿の部長はまだしも、ドレスやタキシードを着込んだ集団の中で、コートを着たガブリエルとアマンダはひどく浮いていた。
「俺は挨拶回りをしたら頃合いを見て退散する。お前らは仕事にかかれ。連絡は事を成し遂げたあと。出来なかった時は……」
「初めから何もなかった。それでいいんでしょ、部長」
「分かっているならいい。行け」
レイモンドにに背中を押され、ガブリエルとアマンダは会場を後にする。
「私の部屋のキー、あなたが持っていて。リュカ君を隠すならどっちの部屋を使ってもいいわ」
ガブリエルの手に部屋のキーを渡すと、さっさと彼女に背中を向けて非常階段を下へとおりて行く。
その背中を見送りながら、キーをポケットに突っ込む。そしてガブリエルもまた己の仕事をこなすため、エレベーターに乗り込んだ。