2.......
午後五時十二分。一日の業務を終えていよいよ最後の大仕事が迫る。
移動する車の中でもアーロンは原稿の暗記を続けていた。
昨日、一昨日と自宅で大半を覚えていたが、それでも会場に着くまでには完璧にしておかなければならない。余念無く、余裕を作らず頭に叩き込んでいく。
「もうすぐ到着しますよ。そろそろ原稿をしまってはどうですか?」
「待ってくれ。もう少しなんだ」
まるで子供のようにダダをこね、アーロンはなかなか原稿を手放さない。
ユミルはしょうがないと肩をすくめながら、この大きな大人を暖かく見守っていた。
車がホテルの正面へとつけて、ボーイが車の扉を開ける。
「ありがとう」
軽い会釈を送りながら、アーロンはユミルを引き連れて車を降りる。
その時にはポケットに原稿を折り畳んでしまっている。
自動扉を抜けていくと広々としたエントランスが出迎えてくれる。
小さな鏡を組み合わせた煌びやかな天井。そこから吊り下げられた豪奢なシャンデリアの光が反射して、フロアを明るく照らしている。
足元には手工職人たちが丹精込めて作り上げた大きな絨毯が敷かれ、フロントまでの道筋にそってまっすぐに伸びている。
フロントは楕円状の階段に挟まれるようなところにあって、そこには今時珍しい人間が受付を担当している。
『人間をもてなすのは人間によってなされるべきである。人間の暖かさこそが何よりの癒しであれ』
とはこのホテルの創業者アレッサンドロ・ブロベッティの言葉だが、今なおこのホテルはその格言通りの接客を貫いていた。
「お待ちしておりました。ロドリゲス様」
今にフロントに向かおうとしたところ、横から男の声がアーロンを呼び止める。そちらに顔を向けると、男が一人彼の元へ歩み寄っていた。
「これは、支配人」
アーロンが手を差し出すと支配人はその手を取り固い握手を交わす。
短く切りそろえた茶色の髪に、ひげひとつない綺麗な肌。ピシッとした灰色のスーツを着こなして、利発そうな黒い瞳でアーロンとユミルを見る。
「お部屋は最上階のスイートをすでにご用意させていただきました」
「スイートなどと、そんな大げさな。適当な空き部屋を用意してくれればそれでよかったんだが」
「ええ。ですから空いていたスイートをご用意させていただいたのです。ただ寝るだけだとしても、お客様に満足いく眠りについていただけるよう環境を整えるのも、我々の仕事ですから。では、こちらへどうぞ。案内をさせていただきますので」
支配人の手の先にはエレベーターがあった。あれに乗ってくれというらしい。
「手荷物がございましたら運ばせていただきますので。存分にお申し付け下さい」
「いやこれだけだ」
アーロンはそういうと自分の胸を手のひらで軽く叩いてみせる。
「そうでしたか。では」
支配人はニコリと微笑むと二人を連れてエレベータへと進む。
世界一退屈な乗り物。箱の中に押し込められて最上階に登ると、廊下を左に曲がる。
二部屋ほど部屋を通り過ぎ、突き当たりに扉にたどり着く。
支配人が扉を開ける。扉ぐらい自分で開けられるのだが、と支配人のもてなす気配りに感心しながらもアーロンの顔に苦笑が浮かぶ。
部屋に入り廊下を進んでいくと広々とした居間に出た。
暖色系の照明が優しく部屋を照らしている。黒革張りのソファが四つテーブルを囲むようにコの形に並んで置いてある。それにそれぞれの四隅には背の高い小さな丸テーブルが置かれている。
それに何より目に着くのが、右手の壁にある石組みの暖炉だ。暖炉にはすでに炎がつけられていて、そのせいか部屋に入った時から心地のいい温もりが部屋全体を包んでいる。
ソファは暖炉に正面を向いているのはその温かさを感じてもらうための配慮だろう。
左手には大きなダブルベッドが部屋の左手に。シングルベッドが二つ並んだ寝室が一部屋。またベランダからはエデンの夜景を一望できたりとスイートの名前に恥ないシンプルだが豪華な内装になっている。
「何かご用があれば、そちらの内線よりお申し付けください。ではごゆっくり」
支配人はそういうと扉の前で一礼をして、扉を閉める。
「時間はあとどれだけ残っている」
「あと四十分ほど。社長には来賓の方々を出迎えていただきたいので、最低でも六時少し前には会場の前にいていただきたい」
ユミルが腕時計を確認しながら言う。
「それだけあれば充分だ」
アーロンは早速ソファに腰をすえるとポケットから原稿を取り出して、最後の追い込みにかかる。
口の中で反芻し、頭の中に一字一句を入れていく。しつこいように読み込み、脳に文章を刻み込む。
ユミルはその間にスケジュールの確認とアーロン以外の登壇する面々の名前を把握していく。
スピーチをする以外にもバンド演奏や芸の披露など演目も含まれていて、時間通りに進行されるように彼女もスタッフとして関わっている。
会場にくる関係者各位のアレルギーの有無から好みの良し悪しをつぶさに把握し、シェフやウェイターと連携を取るのも彼女の仕事だった。
ホテルの場所は借りているわけだが、まがりなりにもリーコン・ロジステックス主催によるパーティだ。不備や不満が出ては自社の名前を落とすことにもつながる。
少し大げさかもしれないが、満足して帰ってもらってこそのパーティだ。もてなす心に関してはあの支配人の心意気にも少しは共感できる。
火がパチパチと薪木を飲み込んで火花を立たせる。
静かな部屋に響くその音は何より心地の良い音色だ。
しかしそれに耳を傾けるはずの宿泊客は仕事に夢中で効く耳を持たない。音よりも時間の方が彼らの注意を引ける。
「社長。そろそろ」
「ああ。行こう」
紙を再び折り曲げて背広の内ポケットに忍ばせる。そして胸を叩くように上からポンポンと叩くと膝に力を入れて立ち上がる。
腕時計をみると午後五時四十五分。パーティまではまだ一時間近く残っていたが、なにもパーティの開始ぴったりにくるわけじゃない。時間に余裕を持って会場に来る人間もいる。
三十分前に来てくれればいいと案内状には書いておいたが、それよりも早くについてしまう方々も少なからずいる。特にお年をめした会長の方々がまさそれだった。
部屋の戸締りをユミルに任せアーロンは一足先にエレベーターへと向かう。
そしてユミルがエレベーターに乗り込むのを待ってから二階へと降りていく。
広々としたエントランスを見下ろしながら、二人はフロアを右に進む。二階のフロアの床は絨毯が敷かれている。幾何学模様の刺繍が施された刺繍が照明に照らされてその鮮やかさをきわだたせている。
絨毯の上を歩いていくと両開きの白い扉が見えてくる。両脇にはタキシードを着た二人の男が両側に立っている。男たちはアーロンに気がつくと、会釈をした後ドアの取手に手をかけて扉を引き開いた。
「ありがとう」
二人の男に感謝の言葉をおくり、アーロンは中に入る。
大宴会場。エントランスよりもはるかに大きなシャンデリアが天井から吊り下げられ、壁は黒の近い茶色のシックな色合い。そこに白い柱が等間隔に並び、アクセントとして生えている。
料理の並ぶテーブルには活けられた花々が飾られ、料理彩りに華やかさを加えていた。
「見事だな」
部屋全体を見ながらアーロンは満足げに頷いてみせる。
「あとは、社長がよいスピーチをされるだけですよ」
「そうプレッシャーをかけてくれるな。緊張してしまうではないか」
「まあ、社長が緊張なさるなんて珍しいですね。面の皮が厚いのが社長の取り柄ですのに」
「お前がわたしのことをどう見ているのか、よおくわかったよ」
ジロリとユミルをにらんでやるが、彼女は面白そうに頬を歪めるだけで恐れているそぶりはない。ため息をつきつつもそんな彼女の態度に少しだけ心が軽くなる。
生意気で物怖じしない彼女の性格は時としてアーロンの心に波を立たせるが、それでもアーロンは彼女のことを気に入っている。歯に衣着せぬ物言いも清々しくて好んでいた。
「さて、あとは客人たちを迎え入れるだけだな」
「ええ。盛大なものにいたしましょう」
ユミルは少しだけ胸を張って、やる気を見せている。アーロンはその様子を微笑ましく思っていた。
このあと、思ってもいない来客を招き入れることになるとは、この時の彼らは知る由もなかった。