7......
一日の終わり。スケジュールを全てこなした後、アーロンは自宅へと戻って晩酌を楽しんでいた。
ブランデーをショットグラスに注ぎ呷る。食道から胃までが焼けるように熱くなる。
その熱は次第に体全体へと周り、二杯目を組むときにはポカポカと心地のいい温かさに包まれていく。
「ふう……」
アルコールとともに疲労のこもったため息が口から漏れる。若い頃は長い間活動していても何ら問題はなかったが、この歳になると疲れがなかなか抜けていかない。
おまけに膝や肩の関節がガタガタになっている。膝を曲げるのも肩を回すのも痛みを堪えなければならない。不自由極まりないが、現代の技術はそんなことをしなくても生活を送れるくらいに発展している。
年寄りには優しいが、筋肉などは衰える一方だ。
ソファに腰掛けてみれば腰がずるずると下に沈み、アーロンの体を優しく受け止めてくれる。
長い時間同じ場所に座っているからか、ソファのその部分だけはやけに沈んでしまっている。もうそろそろ買い替え時かとも思うが、愛着が湧いてしまうとどうも踏ん切りがつかない。
それにここには自分一人しか住んでいない。他に指摘をする人間もいないのも買う気を削いでいる要因かもしれない。
エデンの郊外に位置する戸建ての一軒家。元は老夫婦が暮らしていたが、二人共々終の住みかとして老人ホームへと移り住み、空き家になっていたところをアーロンが買い取った。
一階建ての平屋で広々としたキッチン付きのリビング。薪の暖炉に風呂場、寝室と一人で住むには広すぎるぐらいだ。元々は老父婦は子供達と一緒に暮らしていたらしいが、成人して家を出て今は別々に暮らしていたらしい。
二人きりでの生活も良かったはずだが、寂しさもあって家を後にしたのかもしれない。と言っても受け渡しの手続きの際に数回だけあっただけで、実際のところはよく分からない。
所詮は野次馬の勘ぐりだ。当たるはずもないし、当たったとしても別に何にもならない。
酔ったせいか余計なことに頭を使ってしまった。仕切り直そう。
グラスをテーブルの上に置くと、アーロンは使い古したノートパソコンを開く。
何世代も前のもので軽さや薄さなんて度外しの無骨で角ばった代物だ。最先端のものにも興味があるが、やはり愛着があり使い慣れたものに勝るものはない。
今はネットワークに繋げずに原稿入力をするためだけに使っている。スピーチやプレゼンテーションの原稿、講演会で使う原稿など社長職になってなお色々と書くべきものは多い。
秘書やスピーチライターに書かせてもいいのだが、自分の声に乗せて読むものだから、できることならば自分で作り上げてやりたい。そう考えて今もこうしてキーボードを叩いている。
ブランデーをグラスに注ぎ、ちびちびとやりつつキーボードに文章を打ち込んでいく。
今回のはリーコン・ロジステックの創業30周年を祝う記念パーティで読むスピーチ原稿だ。
社員はもちろんだが懇意にしている他企業の社長や数名の政治家先生を呼んで盛大に開く。衆人環視の中で退屈されるようなことはさせたくはない。
用意されたのは五分程度の時間だ。長すぎず短すぎ内容に文章を入れ替え、書き直し、整えていく。
壁に掛けられた時計を見ると、もうすぐ日をまたいでいる。時間とは早いもので気づかないうちに一時間が経っていた。
明日も早い。今日はこのくらいにしておこうと、原稿を保存してパソコンを閉じる。ふと目についたカレンダーにはおおきく丸がつけられていた。
秘書だけでなく一応自分でもスケジュールが分かるように、日程が決まればカレンダーに書き込む習慣をつけている。その丸はパーティの日付だ。後五日。それまでに原稿を仕上げないと。
しかし今は眠ることを優先する。明日も朝が早い。休養を取り、万全の体調を整えるのも大切だ。
ブランデーの瓶を戸棚に戻し、寝室へと向かった。
『・』
「社長がお休みになられました」
スコープを覗きながら男が無線機に向かって語りかける。
といっても無線機は男の脳の中に仕組まれていて、喋ったというより念じたと言った方が正しい。
「そのまま監視を続けろ。いつあいつらが来るとも限らん。視界に標的が入り次第射殺して構わん」
脳内に響く男の声。それはレイ・アーチャーのものだ。
「子供の方はいかがいたしますか?」
「そっちは生かしておけ。大事な検体であるし、大切な商品だ。いくら傷物でも構わないと顧客が言っていても、命がないのでは人形と一緒だ。くれぐれも殺すんじゃないぞ」
「了解」
通信を切り、男は再びスコープを覗く。
ゼレカとリュカが脱出した後、廃工場を撤収した彼らはアーロンの元に接触をしてくるのではと予測し、監視役にアーチャーの部下を使ってアーロンを監視していた。
もちろんアーロンの許可を受けてのものではない。全てロベルトとアーチャーの独断だ。
あれから二日が過ぎようとしているが、今の所リュカやゼレカの姿は見ていない。また使いらしき人間の姿もない。
アーロンを巻き込みたくないのなら、今のうちに殺してしまった方がいいではないか。と男は思う。そうすればこんな黒ずくめの迷彩服を着ないでも、こんな寒空の下で監視をしなくたっていい。
宅配業者にでも化けて出たところをナイフでぶすり。それだけで全て丸く収まるじゃないか。
寝室に焦点を移してみれば、ちょうどカーテンを引こうとアーロンが窓際によっている。今引き金をちょっと引くだけで、アーロンの頭に風穴が空き一瞬で殺せる。
いっそのことやってやろうか。それもいい気がしてきた。逃げた奴らが殺したことにすれば何も問題ないし、男も早くこの場を離れることができる。
唯一の心配は金のことだが、その辺はロベルトに任せれば大丈夫だろう。
男は構えを取り直し、スコープを覗きながら引き金に指をかける。
一瞬だ。人間の命なんて一瞬で消え去る。ためらいも同情も金にはならない。
狙いを定め、照準をアーロンの額に合わせる。隙だらけ。まさか自分の頭に銃口が突きつけられているとも思わないだろう。
「くれぐれも、社長を傷つけるなよ」
男が今に引き金を引こうとした時、アーチャーからの通信が入る。全く勘のいい男だ。
「……分かってますよ。言われなくても」
「ならいいんだ。引き続き監視を続けてくれ」
アーチャーのせいで白けてしまった。殺す気も失せた男はカーテンを閉めるアーロンの様子をみながら、静かに引き金から指を離す。
「おやすみ、社長さん」
男の声が聞こえたのか。アーロンの顔が男の方を向いた。
スコープ越しに目と目があう。しかしアーロンはすぐに目を切るとカーテンを閉め部屋の電気を消した。気付いた様子はない。
視覚ではアーロンの姿は見えなくなった。しかし問題はない。アーロンの家に仕掛けられた盗聴器によって耳による監視に移行する。
寝室に付けられた盗聴器からはアーロンの寝息が聞こえてくる。
どうやらすぐに寝付いたようだ。それ以外の物音はなし。今夜も静かな夜になりそうだ。
うつ伏せになったまま脇腹を掻きながら、退屈さを噛み殺し男は監視を続けた。