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建物付近に人影がないことを確認すると、ゼレカと俺は路地に降りた。
ここがエデンのどのあたりにあるのかなんて俺には分からない。右も左も、前も後も、目印になるものはあるものの、だからと言って場所が分かるわけじゃない。
ゼレカは物陰から通りに顔を出してキョロキョロと辺りを探っている。アマンダが言うには彼女はエデンの地理には詳しいらしいが、ここは彼女に任せる他ない。
かなり入念に辺りを探った後、ゼレカは顔を引っ込めて顔をこっちに向けた。
「後ろ見ていて」
「は、はい」
ゼレカに言われるがまま、俺はゼレカの後方。それと自分の背後に注意を向ける。
いつあの暗がりや角から黒服の男たちが出てくるか分からない。その警戒心のおかげで余念無く視線を向けていた。
けど足元から何か引きずるような音がした時は、流石に視線をそっちに向けてしまった。
何かと思えばゼレカはしゃがんでマンホールを動かしているところだった。
なんだ、そんなことか。とちょっと俺は思ったけどよくよく考えればマンホールなんてものは道具がなければ到底人が動かせる代物じゃない。
たとえ抱え持てるくらいの大きさでも、子供一人くらいの重さがある分厚い鉄の塊なんだから。自力で持ち上げようとすれば、まず腰がやられてしまう。
そんな重い物体を、いとも簡単にゼレカは持ち上げて横にずらしている。
「……どうしたの?」
唖然としている俺を見て、ゼレカは不思議そうに首を傾げた。
「いえ、なんでもないです」
はっと我に帰り俺は顔に作り笑いを浮かべた。
思い返せばゼレカの体は人間のそれじゃない。表面は人肌のような素材でコーティングされてはいるが、中は機械の体。義体だ。
結構な高さから飛び降りて無傷だったことも、そしてマンホールをことも投げに持ち上げてみせたのも、全てその義体による恩恵だろう。
そう考えれば目の前で起きた凄まじい現象にも納得がいくと言うものだ。
ゼレカは「あ、そう」と言ったきり何も言うことはなかった。
「入って」
「この中にですか?」
「そう」
マンホールの穴をのぞいてみると、そこには闇がどこまでも続いていた。ごうごうとなる風の音がなんとなくバケモノの唸り声に聞こえて気味が悪い。
「早く」
「わかりましたよ」
ゼレカに急かされ、俺は下へと続く鉄ハシゴに足をかける。一つ二つと降りたところで両手でハシゴを掴む。
冷たい。サビのせいでザラザラしているし、手のひらを見ればその錆がついて黄土色になっている。
汚い。本当に汚い。でも降りない理由にはならない。
もう一度ハシゴを掴んでゆっくりと下に降りる。闇の中で体が見えなくなっても構わう降り続ける。
ゼレカも俺に続いてハシゴに足をかけ、マンホールの蓋をゆっくりと閉じていく。わずかに照らしていた光が今度こそなくなり、細い穴の中は完璧な闇に支配された。
カン、カン、カン。
ハシゴを降りる音。狭い空間に反響して、幾つもの足音のように聞こえる。
俺とゼレカだけだ。分かっていても薄ら寒さがひたひたと背筋を伝う。
早く降りてしまいたい。気ばかりがせってしまうが、そのせいでハシゴを踏み外しては元も子もない。
ゆっくりでいい。焦るな。自分に言い聞かせんがら、闇の中へと降りていく。
俺の足がようやくハシゴではない物をふみ、目が明かりを捉えたのはほぼ同時だった。
固い何かは石を積み重ねてできた通路。明かりは壁にかけられた豆電球の明かりだった。
地下の下水道。それは視界と嗅覚で分かった。
通路の脇を濁った水が流れ、そこからひどい悪臭が漂っている。あまり吸いすぎると鼻が曲がりそうだ。
ゼレカは俺の脇を抜けてトコトコと通路を歩いていく。
その後ろについてしばらく歩いていくと、扉が目の前に現れた。湿気のせいで表面に錆が浮き、それにノブにも黒い錆がこびりついている。ゼレカは気にする様子もなくノブを掴み押し開く。
キィ……、とかん高い音が下水道に鳴り響く。
扉の先は広々とした空間が広がっていた。天井からは蛍光灯がぶら下がっていて、むき出しになった配線が蛇みたいに壁を伝っている。
タンス、ベッドにソファ。それにレンジやらコンロやら。一通りの家財道具や家電製品が揃っている。
それに何よりモーターの震えるやかましい音がBGMとして部屋を満たしていた。
「ここは……」
「私の家」
「えっ、ここが……家ですか?」
ゼレカはこくりと頷くと、慣れた足で空間の中に入っていく。
家。というよりネズミの巣だ。
正直な第一印象はそれだった。むき出しの赤レンガは下水道のものと一緒だし、とても綺麗とは言い難い。
下水から離れているから匂いは多少はマシだけど、それでも消えた訳ではない。
「なんで、こんなところに住んでいるんです?」
「好きだから」
「はい?」
「暗いところが、好きだから。いけない?」
ソファに座ったゼレカは俺の方を見ながら首をかしげる。その態度は何を当然のことをと言いたげだ。
「いえ、別に。そういうわけでは……」
ただ彼女の当然を理解できるかどうかは別の話だ。ゼレカには悪いが俺には全く理解ができない。
ここに住むくらいなら、森の中の洞窟に住んだ方がよっぽどマシだ。多分、この深い溝はこれから先も埋まることはないだろう。
「ここに掛けて。コーヒー入れる」
思い出したかのように手を叩いてゼレカは立ち上がる。
戸棚からカップを二つ取り出して電気ポッドの前に立つ。インスタントの粉を入れてポッドの湯を注ぐ。
再びソファのところへ戻ってきたときには、湯気のたった二つのカップを持っていた。
対面のソファに座った俺に一つ、そして自分の分に一つ。
カップの中には黒く濁ったコーヒーが波を浮かべている。ここに水道が通っていることには驚かされるが、場所が場所だけに本当に飲み水なのか疑いたくなる。
でも一口口に含めばそんな疑いも綺麗になくなった。
どこで入れてもこの変わることのないコーヒーの味わいに、ほっとひと心地つく。
ゼレカはといえば、コーヒーを飲みながらテーブルに置かれたパソコンを睨んでいた。
ノートではなくデスクトップ型のパソコンだ。テーブルのほとんどはパソコンが占めていて、二つの大きな画面がゼレカの顔を照らしている。
何を見ているのかと気にならないわけがなかった。
俺はソファから立ち上がって画面の見える位置に移動する。
画面には白黒の映像がいくつも写っていて、端っこには時間を示す電子文字が浮かんでいる。
「監視カメラ……ですか」
「そう」
短い回答だったけどそれだけで十分だった。
映像は下水道の通路を中心に角度を変えて設置してある。
同じような場所ばかりだけど多分同じ通路ではないんだろう。
水の流れも照明の具合も通路一つでだいぶ違う。それにカメラは通路だけでなくこの部屋の入り口や、ここに入るまでのマンホール近辺のその様子も映し出している。
ゼレカは時間を巻き戻して過去数時間分の映像をモニターに呼び出す。
それを一つ一つチェックするのではなく、同時再生によって確認している。これが街中とかだったら苦労もあっただろうけど、カメラに映るのは単調な映像ばかり。
動きがあったとしてもネズミが横切ったり、レンズにゴキブリが這い回ったりとかだ。大きな生き物が通ったり、カメラに映ったりすることはない。
全てを確認し終えると、時間を戻して画面から目を切る。異常はない。それが分かっただけでも良かったんだろう。
とその時。部屋に軽快なメロディが聞こえてきた。
俺にとっては懐かしい電話機の呼び出し音だ。モーターの音にかき消されないそのメロディは俺の背後から聞こえてくる。振り向いてみると電話が壁に掛けられている。
「出る」
ゼレカは俺の肩を叩いて電話の方に向かう。メロディが終わりもう一度繰り返そうかというタイミングで受話器を外した。
「誰……ああ、あなたか。ええ、こっちは無事」
どうやら電話の相手はゼレカの知っている人物らしい。俺と話すよりもずっと親しげに電話の向こうに話しかけている。
「え……今から? 別にこっちは大丈夫だけど……分かった。待っているわ」
ゼレカは受話器をそっと戻して顔を俺に向けてくる。
「ガブリエルがこっちに来るって」
相変わらず無表情のまま、しかしどこかホッとしたようにゼレカが言った。