6.....
どれほどの時間が経ったのかもわからない。数分か。それとも数時間。それとももっとか。
時計も明かりも全て闇の中に飲み込まれ、空間の感覚もなくなっている。
俺すらもこの闇の中で姿を保つことができず暗闇の中に沈んでいるが、這い出る術はない。手足の自由を奪われ、這い出るどころかろくに立つことさえままならない。
まるで日本で生きていたころと同じだ。自分で動くこともできず、ただベットに寝そべったまま過ごしていた頃と何ら変わらない。
動かない足を恨み、こんなことをしでかした運転手を恨み。そして遣る瀬無い思いをぶつけた妻と子供を思い出す。
全く最悪だった。今思い返しても最悪な気分だ。
殴ることはしなかったが、思い通りにならない苛立ちや、リハビリのストレスで妻には言葉で当たり散らす毎日。
妻は別れるはずがない。結婚したんだからずっとそばにいるものだから。そんな結婚の鎖でずっと妻を縛っておけると思っていた。
今思えばその時の俺はバカだったんだ。鎖なんてどこにもないのに、ベッドの上であぐらをかいて介護されて。事故によって砕かれた体のせいにして。妻の献身さに甘えて。彼女がどれだけ尽くしてくれたのか。
子供を連れて出て行った後に身をもってようやく思い知った。
どれだけ後悔しても。どれだけ謝罪の言葉を並べ立てても。全てを失った時にはもう遅い。何もかも。遅かった。だから俺は最後のわがままで自ら死ぬことを選んだんだ。
相談してくればとか。命をおろそかにするんじゃないとか。他人の戯言なんてこうなってはまるで意味がない。ただの雑音だ。
それがどうだ。そうして自分で死ぬことを選んだのに、人の体に取り付いた挙句のうのうと生きようとしている。失敗を糧にして今度こそうまく生きてやると。妙な決心をして。
なんて馬鹿だったんだろう。そんな簡単に人が変わるわけもない。子供の体を使ってまで生きることがそんなによかったのか。子供の魂を犠牲にして生きるほどの価値が俺にあったのか。
暗闇に答えを求めても応えてくれるはずもない。自分の中で見つけられない答えが闇からやってくるわけもない。ただ自問自答を繰り返し、苦しむ俺を見下ろしあざ笑っているだけだ。
「……このまま、死んじまうのかな」
アリョーシに会うこともできず、彼女を救うどころか奴らに捕まるこの体たらくだ。
ここにいる限り、いやたとえここを連れ出されたとしてももう会うことはできないだろう。どこともしれない街の豪商に使われるために、俺は売られるんだから。
心が弱ってくれば自然と後ろ向きな言葉が出てくる。口をついて出た言葉は闇に飲まれ、俺の耳に染み込んでいく。
するとどうだろうか。それもいいかもしれないと思えてくる。
俺はここの人間ではない。ならこの世界に返すために俺が命を絶つべきではないかと。それが正しいことなんじゃないかと思えてくる。
この馬鹿げた考えを正してくれる人はここにいない。いるのは愚かな人間一人きりだ。
歯と歯の間に舌を入れ力を入れる。舌ににわかに痛みが走る。これを一息に噛みちぎればきっと俺は死ぬ。そうすれば誰の迷惑もかけず、今度こそ無の中に俺は消えるだろう。
だが、俺にはできなかった。死の誘惑に負けることができなかった。頭では死への恐怖なんて克服したと思っていた。だって一度は死んでいるんだから、なんてことないことだと思っていた。
でも俺の体は、たとえ違う体になっていたとしてもその恐怖を克服していなかった。
全く泣けてくる。死に逃げることもできず、アリョーシを助け出すこともできない。ダメな人間だよ。本当に。ダメすぎて救いようがない。
自分を責める言葉はいくらでも出てくるのに、ここの脱する方法なんて一つも浮かんでこない。
そもそも今の俺の頭にその余裕がないんだ。情けなさと申し訳なさで涙ぐんで、口から出てくる嗚咽を止めることもできやしない。
しんと静まり返った部屋の中で情けない俺の鳴き声が響いている。
唯一の救いはこのみすぼらしい俺や俺の声を聞く人間がこの場にいないことだろう。
ようやく俺の感情の沸点がゼロに近づいてきた時。奥にある扉がひとりでに開いた。
扉の外には誰かが立っていた。顔は見えない。外の光が背中に当たって影になっていたから。なんだ見張りの一人でもきたのか。考えても仕方ないことだ。だって俺の開放するなんてわけがないんだから。
そいつが部屋に入ると自動扉が閉まって再び闇が辺りを包み隠す。ああ、また闇がやってきた。そう思ったけど闇の支配はすぐに終わってしまう。
がしゃんの何かを下ろす音が聞こえたかと思えば、上空から光の群れが降り注いだ。
照明がついただけなのだが、闇に慣れてしまった俺にはその閃光は強すぎた。思わずまぶたをおろし光から目を守る。そしてゆっくりと開けて光に順応させる。
コツコツと固い靴音がこっちに近づいてくる。ぼやけた視界では靴音の正体を確かめることはできない。けど大方先ほど入ってきた人間だろうとあたりはつけられた。
ようやく目があたりに慣れてきた。ゆっくりとまぶたをあげて前を見る。
目と鼻の先には一人の人間が立っていた。しかし奇妙な人間だった。
顔には毒も巻かれていないのに防毒マスクをつけているし、おまけに全身黒ずくめ。
下は裾が絞られたズボンに上はいくつものポケットのついた分厚いジャケット。
ここでなくとも怪しく見える出で立ちだ。そいつはゆっくりと俺の方へ歩み寄ってくる。
俺はそいつをにらみつけながら、手足の動きを注意深く観察する。別にどうやってこいつを倒そうとか考えているわけじゃない。腕も足も動かせないからそうしているだけだ。
そいつは俺の目の前に立つとしゃがみこみ、俺と椅子を繋ぐ拘束具に触る。
なんのつもりだろうか。いまさら情を向けにわざわざ来たのか。マスク越しではこいつの考えていることなんて分かりやしない。まあマスクの下の顔を見たとしても分かりっこないんだろうけど。
俺がバカみたいなことを考えている間に、そいつはポケットから何かを取り出していた。
それは薄っぺらい上に小さい。でもよくよく見てみれば、それはスチール製の鍵のようだ。
まさかと思って見ていると、そいつは拘束具の穴に鍵を差し込んで右に回す。
するとどうだ。かちゃりと音を立てて片方の腕が自由になった。
俺の驚く顔を見もしないでもう片方の腕と足の拘束も解いてくれた。
訳なんて分かる訳ない。
気まぐれか。それとも何か別の目的があってのことだろうか。考えれば考えるほど混乱の深みにはまっていくようだ。
「逃げるわよ。早くしなさい」
俺をさらなる混乱に落とそうというのか。目の前に立つ人間が唐突に喋った。
逃げる?
どこへ?
なぜ逃がそうとする?
何もかもがわからない。それに何より俺の頭を混乱させたのは、そいつの口から出た声だ。
どこかで聞き覚えがある。それもつい最近。そして思い当たった。
それは、アマンダの声だった。
まさかと思ったけど、そいつは防毒マスクを手に取るとわずかに上に持ち上げる。
そこには確かにアマンダの顔があって、いたずらっぽく笑ってみせた。