11..
風呂上がり。ガブリエルに用意されたジャージを着込み居間に戻ると、彼女はベッドの上に横になってタブレットを眺めていた。だけど俺がきたことに気がつくと、タブレットをテーブルの上に放り投げて立ち上がった。
「ついてきな」
そう言ってガブリエルは俺の襟首をつかんで廊下を引きずっていく。そんなことしなくても歩けるっていうのに、どうやらこの女性は人を引きずることにちょっとばかし楽しんでいるようだ。
特殊な快楽が存在するんだなと、かかとをフローリングに擦らせながら思う。しかし部屋に着いた途端、俺の体は宙に浮いて乱暴にも部屋の床に尻餅をつかせられた。
「今日はそのベッドで寝な」
尻をさすりながらガブリエルを見ると、彼女の指がベッドをさす。
皺の寄ったシーツ。めくれた毛布。それに枕も頭の形に沈んでいる。明らかに今朝方使いましたと言わんばかりの有様だ。
「ここ、ですか」
「何だ。何か文句あるのか?」
「あ、いや。そういうわけじゃ。ガブリエルさんはどこで寝るんです」
「あたしか? あたしはあっちのソファで寝るさ」
「それだったら、俺がそっちで寝ますよ。なんだか、悪いし」
「ガキが大人に気を使うんじゃねぇよ。大人しくそこで寝ろ。いいな」
ギロリと睨みながらそう言うと、ガブリエルは俺に背中を向けてドアを閉じた。
電気一つない暗い部屋。明かりといえば窓から差し込んでくる月明かりぐらいのものだ。薄暗く、見通しは悪い。それでもさっき廊下から入ってきた明かりで大体の位置は分かっている。あとはその残像を追ってベッドへ這い上がるだけだ。
ベッドの足を掴み、ぐんと立ち上がってベッドに腰掛ける。スプリングの効いたベッドに尻が乗り自然と体が横になる。
ついさっきまで申し訳なさに苛まれていたのに、柔らかなベッドに寝転がってみれば、そんなことがどうでもよくなってしまう。
ベッドの魔力は強力で疲れている俺を簡単に夢の淵まで踏み込ませてしまう。
地面とは違う、包み込んでくれるような感触。その感触に、俺は気づけば深い眠りの中に落ちていた。
翌朝、ガブリエルがかけていた目覚ましの音に俺は目を覚ます。
時計を見れば、午前6時きっかり。外はうっすらと明るくなっている程度で、朝にしてもまだ早かった。
俺の意識はまだ半分夢の中。再び枕に頭が吸い込まれて行く。
二度目の夢の中へと誘われる間際、遠くからどすどすと足音が聞こえてきた。
そして、寝室の扉の前で足音が止まった。
何か嫌な予感がしたけど、構わず寝てしまおうと毛布を頭からかぶる。
でも、次に聞こえて来たのは、扉を乱暴に開く音だった
「起きろ、リュカ坊。朝だぞ」
昨日から聞いている、ガブリエルの声だ。
ドスドスと足音を立てて、彼女が俺に近寄ってくる。
やめろ、起こさないでくれ。俺はそう思って、反射的にふとんをめくられまいとひっつかむ。
俺が密かな抵抗をしているとは知らずに、ガブリエルの手が毛布を掴む。
俺はぐいと布団を体の内側に巻き込んで、押さえつける。これで簡単にはとられないだろう。
……そう考えていた時が、俺にもありました。
ガブリエルは「フンッ!」と気合を鼻息に乗せて吐き出すと、毛布をいとも簡単に持ち上げてみせた。
腹の下で抑えていたはずの毛布が、するりと抜ける。
そして、俺の体は糸コマみたいに宙で2回ほど回転してみせた。
ベッドの上にうつ伏せに着地する。「うぐっ!?」とくぐもった吐息を吐きながら、俺はガブリエルを見た。
「おはよう。よく寝たか」
毛布をたたみながら、ガブリエルはなんてことはなさそうに言った。
「……おはよう、ございます」
俺はなんとか体をおこして、ベッドから立ち上がる。
「起きたついでに窓をあけて空気を入れ替えろ。朝の空気を吸えば、もう少しシャキッとするだろ」
「はーい」
あくびと同時に俺は返事を返す。
そして、ガブリエルに言われた通り、カーテンを開けて窓を引き開く。
部屋の生ぬるい空気が外へと流れ、入ってくるのは朝方の冷えた空気だ。
鼻に抜ける冷たい空気と、肌を刺すような風が俺の意識ははっきりさせてくれる。
気持ちのいい晴れやかな朝だ。
こんな時間に外に出るのなんて、もう何十年ぶりだろう。
アリョーシのところで暮らしてた時も、ちゃんと日が昇ってから活動してたから、こんな早くに起きたことがない。
「……夏休み以来か」
ラジオ体操で近所の友達と一緒に寺の駐車場に出かけて行ったっけ。
心地の良い風に運ばれて、昔の記憶が呼び起こされる。
もう遠い昔のこと。すっかり忘れてしまっていたけれど、ふとしたことで思い出すのだから、脳みそというのはよくできているものだ。
妙なことを考えていると、気づけば少し肌寒くなってきた。
そろそろと部屋に戻るか。そう思った時にはすでに俺の足は部屋に向いている。
中へ戻ると、ガブリエルの姿はない。畳んだ毛布がいつのまにかベッドに置かれていた。
「朝食にしようか」
廊下からガブリエルの声が聞こえて来た。
扉から顔を出せば、リビングにガブリエルが立っていた。
すでにコートを着ていて外に出られる準備は万端だ。
「どこか行くんですか」
「ああ、大家の店にな」
「大家さんの店ですか?」
「一階にある店だ。ここに入る時に見ただろ」
そう言われれば、昨日の夜に店みたいなものは見た。
その時は一階に店らしきものがあるなとは思っただけだったけど、まさか 経営者がここのオーナーさんだったとはさすがに思わなかった。
「あそこ、大家さんの店だったんですか」
「ああ。近所じゃ旨いって評判さ。ただの道楽で始めたらしいんだが、今じゃ家賃収入より捗ってるようだ」
「へぇ……」
「分かったら、さっさと来な。置いてくよ」
ガブリエルはそういうと、キッチンの横を通って玄関へと向かって行く。
「あ、待ってくださいよ」
置いていかれてはたまらない。俺は急いでガブリエルを追った。
玄関の前に来ると、ガブリエルが靴箱からサンダルを一足出してきた。
「これ履いてきな」
なんの変哲も無い、ビーチサンダルだ。鼻緒もサンダル底も青で統一されている。
「ありがとございます」
昨日寝巻きにと用意された黒のジャージと合わせれば、いよいよ休日のおっさんみたいな格好になってきた。
ちなみにだがジャージは勿論ガブリエルのものでは無い。ガブリエルの昔の彼氏の忘れ形見らしい。もちろんその男性は死んではいないが、ジャージを取りにわざわざガブリエルの元を訪れることはしないのだろう。ガブリエルも特に気にした様子もない。
流石にブカブカだったためジャージの袖と裾を何度も巻いて、まるで掃除をするかのような格好になっている。
ダボダボした感じはいなめないが、今はこの服しかないためしょうがない。
それに、せっかく貸してくれたものにわざわざ文句をつけようとは思わない。
サンダルをつっかけ、外に出る。ガブリエルは俺が出たところを見計らって、鍵をかける。
「さぁ、行くか」
ガブリエルはそういうと、俺の横を通って階段を降りて行く。
俺もガブリエルの後を追って一階へと向かう。
一階へ降りれば、そのままアパートを出る。
車の往来は少なく、静かな朝がアパート周辺の家々を迎えている。
風にのって朝食の香りが漂う。通りには出勤へ向かうサラリーマンらしき人や、犬と散歩に出かける女性。
ガーデニングに水をかけるおばちゃんなど、それぞれの朝の風景が広がっている。
大家さんの店と言われる、アパート横にある店。
朝だというのに、店内にお客さんの姿があった。外から見ただけでも、五、六人はいるだろうか。
店の入り口には白チョークで文字が書かれた看板がぶら下がっていた。
よく見る『OPEN』的な意味だとは思うが、相変わらず読めないままだ。
ガブリエルは看板なんか目もくれず、店の扉を開けた。