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その日はベッドの上で一日を過ごした。空高くにあった太陽が山陰に隠れて見えなくなるまで。赤く色づいた夕日の光が夜の闇に飲まれ、消えて無くなるまで。俺は窓の外を眺めていた。
個室だったから誰に声をかけられることもなく、邪魔な音もない。俺だけが使うことのできる、俺だけの空間。しかし満足感も安心も何もなかった。あるのは孤独感と拭うことのできない不安感だけだ。とてもじゃないが居心地の良さなど感じることはできない。
空には月が輝き、星々が瞬く。しかし山向こうの明かりによって星の数は思ったほどよくは見えない。車椅子で生活をしていた頃には気にもしなかったが、アリョーシと自然の中で生活したお陰でこんな些細なことでも気づいてしまう。
アリョーシ。そうアリョーシだ。あのドラゴンは今頃どうしているだろうか。俺が、リュカが死んで悲しんでいるだろうか。人間に対するさらなる怒りを燃やしているだろうか。それとも絶望に打ちのめされて、心を壊していやしないだろうか。
子供を目の前で殺されたのだから、その可能性はゼロとは言えないはずだ。目の前で子を殺されることほど、辛いものはない。それは俺も親だから言えることであって、ドラゴンであろうとそれは同じだろうと思う。
アリョーシだけではない。アーロンも、ガブリエルも、アマンダも、ゼレカも、トムもディックもハリーも。あちら側にいる人のことばかりが心配になる。こっちにいるであろう母や妻や娘や友人は、俺の頭に誰一人浮かんでは来ないくせに。おかしな話だ。月日で言えばあちら側にいる人々よりも、現代に、日本にいる人々の方が関係は深いはずなのに。
俺の居場所はここであって、あちらではない。そう思い込めば思い込むほど、あちら側にいる人たちの顔がはっきりと浮かび上がってくる。
俺がいるべき居場所とは、果たしてどこなのだろうか。少なくともこんな消毒液くさい病院の一室であるはずがない。しかし、ここを出て自宅に帰ったとして果たしてそこを自分の居場所と思えるだろうか。自らが死のうとして、死に損なったあの場所を。俺の居場所と考えることができるのだろうか。
月が俺を見下ろしている。この思うように動けない俺を憐れむように、優しい月明かりで照らしている。
このままもう一度死んでしまえたら、もう一度意識を失うことができるのなら。俺はまたあっちの世界へ行けるだろうか。また俺はアリョーシと共に過ごすことができるだろうか。なんの根拠もない妄想だった。だが、俺はその時そうして欲しいと思っていた。もしもこの世に神様がいるのであれば、この不自由さに苦しむ俺をあちら側に運んで行って欲しかった。
そうすればまた俺はリュカになれる。この不自由な体から解放され、自由に羽ばたける翼を手に入れられる。それがたとえ他人の力を横取りするような形だろうと、俺は構いやしないと思っていた。
部屋のドアが開く音が聞こえた。たぶん看護師が見回りに来たのだろう。病院では少なくとも何人かの看護師が夜間の見回りにくることはあるし、実際以前病院に厄介になっていた時もその場に遭遇したことがある。
ドアが閉まり足音が俺の方へ近づいてくる。
首を動かして、顔をその靴音の方へと向けた。
そこには女性が一人立っていた。黒いTシャツの上から青い薄手のシャツを羽織っている。色が薄くなったジーパン、それに黒のスニーカーを履いている。
そこにいたのは、俺の妻だった。
「目が覚めたって聞いてさ。来ちゃった」
妻は言った。肩にかけたカバンの紐を握りしめて、目には涙を浮かべている。俺は、何も言えなかった。言える状態ではなかったとも原因だが、たとえ口が聞けたとしても、多分俺は何も言い出せなかっただろうと思う。
「……馬鹿よ。あなたは」
顔のすぐ横にバックを置くと、妻は俺を見下ろしながら静かに言った。
そうだ、俺は馬鹿だ。俺は思った。
「何よ、あの遺書。あなたがあんなことをして、私やあの子が本当に幸せになれると思ったの? 前に進めると思ったの?」
ああ、そう思っていた。俺が死ぬことで俺という重りから解放されて、二人は自由に羽ばたいていってくれると。少なくともあの時は本気で思っていた。
「あなたの死を背負って幸せに生きられるほど、私もあの子も強くないの。あなたを忘れて生きていくなんて、私たちにはできっこないのよ」
諭すように、妻は俺に言い聞かせるように言った。俺はただ妻の言葉を聞く他なかった。
「……でもね、正直なところ。私はあなたが死んでしまったと思った時、ほんの一瞬だけ安心できたの。ああ、これでようやく終わるんだって。終わってしまったんだって。ほんのちょっとだけ、あなたの言う通り救われたわ」
絞り出すように吐き出した彼女の言葉を責めるつもりはなかった。それこそ俺が願っていたことだし、俺が彼女の負担になっていたことは明確に分かっていたから。ただ、そのことを妻の口から直接聞いてしまった、いや聞かせる状況を作ってしまった自分に腹が立った。
「そんな自分に腹がたつの」
まるで俺の心の中をのぞいたみたいに、妻は俺と同じ思いを口にした。
「あなたを知らず知らずのうちに追い込んでいた私にも。あなたの自殺にかこつけて安心してしまう私の性根にも」
妻は丸椅子をベッド脇に持ってくると、俺と視線を合わせるように腰を下ろした。そして未だ言うことの利かない俺の右手を、優しく両手で包み込んでくれる。
「もう、馬鹿な真似はしないで。私たちのためを思ってくれるのなら、もう二度と自殺なんて考えないでちょうだい。お願いだから」
妻の声は震えていた。彼女の潤んだ瞳は決壊し涙がとめどなく流れていく。俺はかける言葉も見つからず、妻のその様子を眺めていた。
妻と娘を思って自ら死を選んだ。そのはずだった。遺書をしたため毒薬を飲んで意識を失う間は、確かにそうだと思い込んでいた。だが、今になって思えば俺は妻と子を言い訳の材料にして、死への逃避を願っていたのだと思う。これ以上苦しい現実に望みを見出せず、死を選んで楽になりたかったのだと思う。もしも俺が独り身であったなら、もっと早い段階で死を選んでいたに違いない。
腕を掴む妻に、俺は微笑んだ。安心してくれ。もうやらない。言葉にできない言葉を表情とともに妻に送った。妻が理解できたかはこの際どちらでも良かったが、彼女は俺の顔を見ると優しく笑いかけてくれた。この時だ。はっきりと自分の居場所は妻と子のいる場所だと思えたのは。
俺はこちらで生きなくてはならない。妻と娘に悲しい思いをさせないように、また妻と娘が新たに幸せを見つけられるまでは。
俺のそんな決意を嘲笑うように、意識の混濁は突然俺を襲った。
妻の笑顔が水に解けるように歪み崩れる。異変に気がついたのだろう。妻はしきりに俺のことを呼んでいたが、反応を返してやることができない。大丈夫だの一言でも言ってやれれば良かったのだろうが、そんな余裕もなかった。
テレビの電源コードを引っこ抜くみたいに、俺の視界は乱暴に黒に染まってしまった。