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消毒液、花、洗濯されたシーツの匂い。
朦朧とする意識の中で匂いが鼻をくすぐる。柔らかな風が頬を撫でて、俺に起きろと急かしてくる。でも、俺はもう少しこの心地の良い時間を味わっていたかった。冬の朝、温もった布団から起き上がるのを拒むように。体にかけられた毛布を巻き込むようにしがみつく。
毛布……? まさか、そんなものがあるはずがない。俺は屋上にいて、アーチャーに撃たれたはずだ。毛布なんてそもそもあるような場所じゃない。あそこはコンクリむき出しの屋外で、毛布なんて代物があるはずもないのだから。
困惑が一瞬にして俺を覚醒へと導いた。そして俺は少なからず動揺した。
そこは、見慣れない一室だった。
白一色に統一された無機質な部屋。いや、清潔感あふれる一室といったほうが言葉はいいだろう。消毒液の匂いが部屋全体から漂っている。茶色いサイドテーブルがベッド脇にあり、その上にはプラスチックの花瓶にカーネーションが挿してある。洗って干したばかりなのか、ベッドカバーや毛布にはシミひとつない。右手にははめ殺しのサッシ窓があって、そこから暖かな陽光が射し混んでいた。
いつここに来たのかも。どうやってここまで来れたのかも検討がつかない。突然すぎることに直面すると、人間の頭はどうやらショートするらしい。これといって何も思いつかない。まるであの時と同じだ。俺がアリョーシの子供として、リュカとして生まれたあの時と。
呆然と天井を凝視していると、引き戸が開かれる音がした。目を向ければ、そこには看護師らしき女性がいた。彼女の前には注射針や替えの点滴が乗せられたワゴンがあって、彼女はそれを押して入ってくる。
「〇〇さん、目が覚めたんですね」
看護師は言った。幽霊でも見たみたいに、目を見開きながら。
ずいぶん懐かしい名前だった。それが俺の本当の名前であることが、一瞬分からないくらいに。懐かしい反面違和感を覚えた。まるで俺とは違う誰かと間違われているみたいな、そんな違和感。馬鹿馬鹿しい話だとは思う。自分の名前を自分で分からなくなるなんて、そんな話があるものか。だが、その馬鹿馬鹿しい現象が俺を襲っているのは、間違いようがなかった。
「待っていてください。今、先生を呼んできますから」
ワゴンをその場において、看護師が慌てて部屋を出て行ってしまう。ここはどこなのか。なぜ俺はここにいるのか。それを聞こうと思ったのだが、叶わなかった。途方にくれた俺は、窓の外を眺めることにした。
どうやらここは小高い丘の上に建てられているらしい。窓の外からは青々とした水田を見下ろせる。そこから少し上に目を向けると、深緑に染まる山々を望める。その景色にはどこか見覚えがあった。記憶を手繰り寄せると、思い出した。幼少期、まだ祖父母が健在だったころに訪れたことのある場所だ。確か、そう、確かに病院だ。祖父が心不全に倒れ、見舞いに来た時この風景を見た。
そうか。俺は帰ってきたのか。ということは、俺は死ねなかったのか。
安堵とも疲労とも、またそのどちらともつかないような感情が、胸の内に湧いてくる。そしてこの現実を理解しようとしているうちに、強い疎外感に苛まれた。ここにいるべきではない。自分はここにいるべきではない。俺のうちにいる俺自身が、そう訴えかけてくる。
でもどうしてそう思うのだろうか。俺が生きていたのは本来こちら側だと言うのに。俺が生まれたのはこっちであって、あっちではないのに。
現実であるはずなのに現実には思えない。夢ではないはずなのに夢のようなひどい不安定に陥り始める。それは、恐ろしい感覚だった。とても一人では堪え難いほどに。動かない手足も、窓から差し込む日差しも腕についた点滴チューブも。全て消えてしまえばいいと、思うほどに。
ドアが開いたそこから白衣を着た男と、先ほどの看護師がやってきた。恐らくは俺を担当している主治医の先生だろう。彼は俺に話しかけながら、俺の診察を始めた。目に光を当てたり、脈拍を測ったり。そんなことをし始める。
「よかったですね。正直、ダメかと思ってました」
柔らかく微笑みながら、医師は言った。ダメかととは、俺は死ぬものだと思っていたらしい。きっと医師の冗談だろうとは思うが、多くの死が転がっているこの場所で、その冗談は少しキツすぎた。
俺はその医師に向かって言葉を出そうとした。なんてことない、ここはどこだの。今日はいつだのといった当たり障りのないことだ。それで少しは俺の心に浮かんだ動揺を薄めようとした。しかし、そうはならなかった。俺の口が思うように動かなかったからだ。
「ここに後遺症があるんです」
医師は自分の頭を指差しながら、言った。
「あなたを近所の方が発見して救急車が到着した時には、あなたは意識不明の重体でした。胃洗浄等の施術によって無事に命は取り留めたものの、脳の方に障害が残ってしまったのです。ご家族の方にも説明はさせてもらいました。治る見込みは……今のところは不明です。残念なことですが」
眉が下がり、申し訳なさそうに医師は言う。あたかも自分の責任のように思っているみたいに。とんだ勘違いだと俺は思う。そうなったのも、こうなったのも、全て俺が選んだことの結果としてあるものだ。それを赤の他人であるこの医師が、さも自分が悪いような態度を取るのは、いささかおかしな話だった。
しかし、それを伝えることは俺にはできなかった。俺の体はいつだって、俺の思った通りには動いてはくれないのだ。