16............
靴音がすぐ近くで止まった。目だけを動かしてみれば、そこに陽炎のように揺れ動くアーチャーがいた。
どうやら俺の目はもうまともに物を見ることができなくなっているようだ。自分自身に対する呆れが、死への恐怖を少しだけ濁してくれた。
黒い何かが俺に向けられる。おそらくはライフル銃だろう。何発も何発も弾丸を吐き出す、死を運ぶ武器だ。その銃で一体何人殺してきたのだろう。少なくとも今二人の人間を殺している。それ以前にも同じように殺してきた人間がいたことだろう。だが、きっとアーチャー自身数えたことはないだろうと思う。それはアリの行列をいちいち数えることぐらい、無駄なことだろうから。
しかし、俺の小さな体はその弾丸をもう三発も受け止めていたが、俺の命を掠め取るまでにはいかない。
なんだ、大したことはないじゃないか。そう思うと、俺の顔には自然と笑みを浮かべていた。笑いを浮かべている場合じゃないとは分かっていたが、恐怖が臨界点を超えて頭が馬鹿になったんだろう。笑いは止まらない。それどころかどんどんと大きくなって、血の混ざった唾液とともに外へと飛び出し始めた。
きっとアーチャーは不思議に思ったに違いない。いや、そもそもこれから殺す奴のことなど関心の欠片もないのかもしれない。正直俺にはアーチャーが何を考えているのかなんて分かりはしない。そして、アーチャーも俺のことを理解するなんて出来やしない。だから、迷うこともしない。
だが、俺のこの狂った笑い声で少しでも戸惑った。狙ったわけじゃない。ただ自然と、無意識のうちに彼を困惑が縛り、引き金を引く指が少し止まった。それでよかった。それがよかった。アーチャーもおそらくまだ人間らしい感性を持っていたということだ。
三つの銃声が、聞こえた。
俺の近くからではない。二発はここよりも遠くの方から、もう一発は俺の頭上からだ。
弾丸はアーチャーの肩と腕、そして横腹を貫いた。俺の視界には滲んだ赤と後ろに退く黒い陽炎が見えただけだったが、何が起きたのかは頭で理解した。
火龍の上からガブリエルが、そして遠い建物の屋上からゼレカか、それかハリーとディックがやったんだろう。
分が悪いと踏んだのか。アーチャーは素早く身を引くと、建物の中へと姿を消した。その後を弾丸が追い立てたが、彼をかすめることなく地面や外壁をえぐっただけ。アーチャーの足を止めることはできなかった。
「リュカ……!」
遠くで女の声が聞こえた。いや、もっと近くからだろうか。どっちでもいい。その声を聞くことができたときは、正直安心とした。それはアリョーシの声だ。悲鳴に近い声で俺の名を呼んでいる。心配させてしまっただろうか。申し訳なくなる反面、無事に目を覚ましてくれたことに、俺はこれまでにない満足感をおぼえた。
母さん、そう言いたかった。せっかくアリョーシが目を覚まして、そして俺を呼んでくれる。ならば息子としてはそれに応えなくちゃならない。だから、たったその三文字の言葉を口から出そうとした。だけど、出せなかった。
寝たきりの老人が窓の外を眺めた時と同じように、口はなんの意味もなく開いただけ。とてもじゃないが言葉を生み出すような器用なことはできない。頭ではちゃんと命令は出している。目もアリョーシの声がする方に向けている。しかし、肝心の言葉だけが、いつまでも喉につっかえて出てこようとしなかった。もう俺には言葉を喋る体力もないのか。自分自身呆れてしまうが、呆れる自分に認識することさえ、もう出来なくなりつつあった。
火龍が、頭の上に降り立つ。風が頭にぶつかる。着地の勢いで埃が舞い上がり、それが顔にかかる。痒くはなかった。不愉快に思うこともなかった。それは俺の皮膚がいかれてしまったというより、ただ単に俺の感覚そのものが死んでしまったのかもしれない。
遠くで、アリョーシの声がした。
目を向けようと思ったが、だめだ。それよりとてつもなく眠くて、それどころじゃない。それに、寒い。まるで雪の中に埋められたみたいに、寒気が体にのしかかってくる。
誰かが俺の頬を包んだ。誰だ、触られたことのある手だ。暖かくて、柔らかい。
ああ、そうだ。アリョーシの手だ。
懐かしい。すごく、懐かしい……。
俺の目に映るのは夜の闇よりも濃い黒。アリョーシを見ることはできないけど、分かる。皮膚の感触で、理解できる。俺のすぐ近くに、アリョーシがいてくれた。
ああ、最後くらい格好つけたところを見せたかった。こんな姿になってしまって。あなたにもらった大切なこの子を体を、こんなボロボロにしてしまって。本当に……。
たった一言。その一言をいうためだけに、俺は最後の力を振り絞る。だが、穴の空いた風船みたいに、力はどこかへと抜けていって一向に言葉が出てこない。
泣かないでくれ。頼むから、笑っていてくれ。俺のためにもみんなのためにも。どうか、どうか……。
心から願い、闇に託す。最後の意識の中でできたことは、それだけだった。