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冷たい風が肌を撫でる。心地の良さとは無縁の、無遠慮の冷風に俺の意識がわずかに覚醒する。うすぼんやりする視界が次第に焦点を定め、俺に景色を見せてくれる。
黒く、無機質なコンクリート。帯のように細く長いその地面はどこまでも続き、果てに目を向ければ大小様々の建物が並んでいる。
どこだ、ここは。寝ぼける頭を必死に動かして、記憶を探る。確かアーロンとアリョーシを助けに部屋に入った。そして何かを吸って、意識を失った。そうだ、そうだった。思い出した。だが、ここはあの部屋よりも広大で、ちょっと視線を上にやれば灰色の空が見下ろしている。
……空? あの部屋から見えるはずのない空が、なぜ見えているのだろう。まさか、自分が気がつかないうちに外へ連れ出されていたのだろうか。でも、一体誰が。
その正体については、早く気づくことができた。
腹に当たる何か。それは巨大な脚だ。脚といっても人間のそれではなく、ドラゴンの脚だ。凹凸ある赤い鱗に鋭い爪、脚の内側は硬い皮膚で覆われている。アリョーシの脚とは違うようだが、同じドラゴンというだけあって特徴は似通っていた。
「目が覚めたのね」
聞き覚えのある声が上から降ってきた。見上げればアマンダの顔が覗いていた。
「無事だったんですね」
「まあ、ね。ちょっと酷いなりになっちゃったけど、みんな命はあるわ」
皮膚が剥がれて、ピンク色の肉が見えている。それに服にも焦げた跡がある。直にバーナーでも当てられたような、ひどい有様だ。でも、少なくとも生きている姿を見れて安心した。
「それより、あそこ見てみなさい」
アマンダが指差す方を見れば、そこには巨大な建物があった。アリョーシとアーロンが囚われていた建物だ。銃撃だの爆発だの。俺たちが派手に暴れまわったはずだが、今は静寂に静かに佇んでいる。おおよそ敵の黒服や警備員はあらかた倒したからだろう。だが、その静寂を邪魔するかのように屋上に物音が響いていた。
屋上に一台のヘリが留まっている。騒音はそこからだ。回転翼が勢いよく回転し、今にも飛び立とうとしているる。その近くにはヘルメットをつけた操縦士。そしてもう一人。スーツを着たロベルトがいた。
「ヘリで逃げる気ね……ゼレカ。操縦士の狙撃、お願い」
久しぶりにその名前を聞いた気がする。そして次の瞬間、遠くから乾いた銃声が聞こえてきた。
ロベルトの側に寄り添っていた操縦士の頭部が傾いた。赤い血飛沫は遠くから見てもわかる。それにロベルトの動揺も、手に取るように。
狙撃だとすぐにわかったのだろう。ロベルトは腹ばいになって屋上の縁の陰に身を隠す。本人は必死にやっていることだろうが、上から見下ろしている分には、滑稽すぎて笑えてくる。あれが俺たちを散々振り回してきた人間とは、到底思えなかった。
「確保できそうね。リュカくんを下ろしてもらえませんか」
「アリョーシの息子の名か?」
「ええ。そうです」
ドラゴンの巨体のせいでよく見えないが、どうやらアマンダたちの他にもう一人客を乗せているようだ。聞きなれない声からして、俺の知らない人物らしい。アリョーシのことは知っているから、アーロンに関係する人間か。もしくはアリョーシが昔関わったことのある人間だろう。
まさかドラゴンが人間に化けているなんて、この時は想像もつかなかったが。
「別にいいが、あまり無茶なことをさせるなよ。アリョーシが泣くところはみたくないからな」
「心得ていますよ。もちろん」
アマンダはそういうと、俺の上から軽々と飛び降りた。そしてその後にトムが続き、俺も脚から解放された。
浮遊感で股間が薄ら寒くなる。車でめいっぱい速度を上げて、坂道を登りきった瞬間のようなあの感じだ。しかしそれもつかの間のこと。重力に引き寄せられ、俺は風を切って落ちて行く。
空気抵抗を少なくするため、体の向きをやや縦に傾ける。耳に入る空気はより高く、より鋭く細く鼓膜を揺する。そして屋上がいよいよ間近に迫ってきた頃にモヤを張った。体の勢いを抑え、緩やかに速度を落とす。やや衝撃が足を襲ったが、それを逃がすように前に転がって着地をしてみせる。
先に降り立っていたアマンダとトムはロベルトを取り囲んでいる。動けないようにもちろん羽交い締めにした上でだ。ロベルトは、苦々しげにアマンダとトムの顔を睨んでいる。が、あまり恐ろしいとは思わなかった。
首に縄をつけられた駄犬と同じだ。いくら吠えたところで全く害にならない。それどころか、こちらが一転攻勢に出れば、吠えるのをやめて怯えて縮こまる。ロベルトもトムが腕を締め上げると苦痛に表情が歪み、その目にはかすかに恐怖が宿った。
「大人しくしなよロベルトさん。あんたはもう負けたのよ」
アマンダが言った。勝ち誇るようでも、恨みを晴らすようでもなく。報告書を読み上げるように、ただ淡々と事務的にことの様を言い表す。それはどこか機械じみているように聞こえた。
「負け……私の負け……か」
小さな呟き。ロベルトはその言葉を噛み締め、耳から頭に染み込ませているように見えた。敗者の屈辱、犯罪者の哀れな末路。その行き着く先に思いを馳せているのかもしれないが、正直言えば、知ったことではなかった。
俺はロベルトに歩み寄る。跪き、上半身だけを起こされた彼は俺の方を見ると、一転笑みを浮かべた。
「やあ、ご両親を助けられて満足か?」
「ああ。ただ、まだ叶えられていないことがある」
俺の危ない目に合わせたこと。アーロンを貶めたこと。細かいことを思い返せばきりがないが、一番大きいものはアリョーシを傷つけたことだ。それが何より許せないし、ロベルトに対する強い憎しみの原因だ。
拳を握りしめ振りかぶる。ロベルトは目を見開いて俺の様子を見ていたが、構やしない。俺は全力をもって拳でロベルトの顔をぶん殴った。
顔が歪み、ロベルトの目に涙が浮かぶ。痛そうだとは思ったが、かわいそうだとは思わない。だから遠慮もしない。口が切れて血が飛ぼうが、歯が砕けて頬から飛び出そうが、思う存分、力一杯拳を振り抜くことに変わりない。
顔が明後日の方を向いた。そのままねじ切れるんじゃないかと思えるほど、首が勢いよく回った。だがちゃんとロベルトの首は付いているし、ねじ切れるほど回ってはいない。
「念願叶ってよかったよ」
うなだれるロベルトに向けて、俺は言った。情けもなく、そして心が晴れ晴れとするわけでもない。だが少なくとも一つの区切りはできただろう。
「一発だけでいいの?」
暴力を誘発するような発言。それを治安を守る側の人間が言う。職務的にも、それに伴う責任的にはあまり褒められた発言ではない。だが、残念なことにこの場に彼女を咎める人間はいない。トムも俺も、彼女の言葉を責めたりはしない。俺を少しでも思ってくれたのだから、責める理由はなかった。
「……ええ。これ以上やると死んじゃいそうですから、この人」
「優しいのね、君は。私だったら、きっと足の一本や腕の一本は腹いせに潰す気がするわ」
相変わらず恐ろしいことを表情一つ変えずに言う人だ。冗談なのか本気なのか分かったものじゃない。俺は深くは考えずに苦笑をして聞き流すだけにした。