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アリョーシの部屋は一階の騒ぎが別世界の出来事かのように、静けさに包まれていた。
アーロンはアリョーシの肩に手を置いて、まるで彼女を励ますように何度か軽く叩いている。そして、アリョーシはアーロンの気遣いを知ってか、彼が肩を叩くたびにそっとその顔に笑みを浮かべていた。
言葉を失くしてから、いったいどれほどの時間が過ぎただろうか。
いや、言葉を失くしたとは少し語弊がある。言葉を紡ぐ口は確かにあるし、声を響かせるための声帯もきちんと機能している。機関部分にはなんの異常もない。問題なのは二人の頭の中で、互いにかける言葉を見つけられないでいる。ということだった。
『息子さんがここへやってきましたよ』
静寂を破る男の声。スピーカーから不躾に響く声の主をアーロンもアリョーシも知っている。そしてその声は、ロベルトは言葉を続けた。
『全く彼には困ったものです。おかげでこちらの人員の何名かを失う羽目になった』
「あの子を死なせるような真似をしてみろ。私が許さんぞ」
『これはこれは、恐ろしいことを言うじゃありませんか』
含み笑いをもらしながら、ロベルトは話す。言葉とは裏腹にその声色はまるで恐れや畏敬などは微塵もない。ただ嬉々としてほくそ笑み、アーロンの脅しを聞き流しているに過ぎなかった。
『ですが、ご安心ください。あの子を私が、いや、私たちが死なせるわけありませんよ。彼は私たちにとっても大切な商品なのですから』
「何?」
『彼を欲しいとおっしゃる顧客がいらっしゃいましてね。大枚を叩いて売買契約を結んでくれたのですよ。うまくいけば、子供一人の身体で莫大な金を手中に収めることができる』
「貴様……」
『しかもその顧客は懐が大きい良きお方でしてね。多少傷がついていたとしても気にはしないと言うことなんです。全くいいお客様と知り合えた。これで私たちは大いに研究に勤しむことができる』
「研究だと、まさかあの子に何かするつもりなのか?」
『ドラゴンの研究をしている我々が、目の前に絶好の被験体があるのに、手を出さない理由がありますか? あの子の存在は、いやあなたたち二人の愛の結晶は人類の新たな未来の形になりえるものなのです。分かりませんか? お二方が達成なされたことは、ドラゴンとの交配によって、人間の人口減少をとめることができるかもしれないと言う、一つの可能性の提示なのですよ。その可能性をより深く理解するために、ご子息をほんの少し暴くと言うだけのことです』
「お前、自分が何を言っているのか分かっているのか? 私の息子は、リュカは、貴様の実験材料ではない! 貴様のやろうとしていることは、人として間違っていることだ!」
拳を握りしめ、アーロンは震える声でロベルトに言葉をかける。
『ええ。無論承知しておりますよ』
しかし、彼の怒りはロベルトには届かなかった。
『私のしでかしたことも、これからすることも。きっとお二人は一生理解しようとしないでしょうし、許すこともないでしょう。ですが、私は何かの腹いせでこんな馬鹿げたことを行なっているのではない。全ては人間世界の未来のため、エデンの繁栄のためにやっていることなのです。その一点だけは重々ご理解いただきたい』
「理解しろだと……息子を人間の傲慢の、その犠牲に供することを、私たちに理解しろだと……」
『ええ。出来ることならば……』
ロベルトはさらに言葉を続けようとしたが、それを遮るように、スピーカーめがけて椅子が飛んだ。ぶつかった衝撃で壁につけられたスピーカーは粉々に砕け、あらゆる部品が床に音を立てて散乱する。そして、その部品たちを踏み潰すように、ゴンと鈍い音を立てて椅子が落下した。
まさか椅子が勝手にとぶはずはない。飛ばされたであろう背後に目をやると、アリョーシが立ち上がってスピーカーの方を睨みつけていた。
「あの男、必ず殺してやる……」
ぞくりとした。背中に氷の刃が突き立てられたようだ。
アリョーシの目はアーロンの知っているものでも、リュカに向けていたものとも、獲物を狙う時のような目でもない。それはただ怒りと憎しみによって成り立つ、殺気。
人間のそれとは比べようにもないほど濃く、そして鋭い。それはここにくる途中に出会った檻の中のドラゴンたちと同じものだ。
アーロンは息を飲むのも忘れ|彼女の殺気の矛先が彼に向いていないとしても|ただ、呆然とアリョーシを見つめていた。
「ぐっ……!」
と、突然。アリョーシが体を抱きしめて苦しみ始めた。
「だ、大丈夫か」
慌ててアーロンは彼女の横に近寄って、肩に手を置こうとする。
「触らないで!」
しかし、彼を待っていたのは拒絶だった。アリョーシはアーロンが差し出した手から逃れるように、そっと距離を取る。
息がを荒げ、額から汗を滲ませ、苦しげにうめき声をあげる。とても放っておけるような状態ではなかった。
「何があった。一体どうしたと言うんだ」
アーロンの問いかけにアリョーシは応じようとしない、いや、応じる余裕がない。彼女はとうとう膝を床につけて、痙攣をし始める。
「お、おい……」
だらしなく舌を出し、白濁とした目でどこかもつかない方向を見つめる。明らかに普通じゃないアリョーシの様態に、アーロンはシドロモドもするばかりで、彼女を助ける術が見出せなかった。
『そのドラゴンにお仕置きをさせてもらいました』
天井からロベルトの声が降ってきた。そちらに視線を向けると、天井に埋め込まれた丸いスピーカーがあった。
「どういうことだ」
『彼女の身につけている拘束服は特殊な仕組みになっていましてね。こちらがボタンを押すだけで、拘束服の内部で電流が流れるようになっているんです』
「何だと……?」
『ドラゴンの姿になって暴れられてもすれば、こちらとしても困りますから、仕方なくそういう措置を取らせていただきました。何、ご心配なさらずとも死ぬほどの電流は流していません。といってもそれなりに電圧はかけていますがね……今電流を止めましたので、触れてもらっても大丈夫ですよ。死んではいないとは思いますが、一応そこで看病をお願いしますね。必要とあらば、こちらで治療道具を用意させますので』
言うだけのことを言うと、ロベルトの声は途絶え、スピーカーは天井の内側へと引っ込んでいく。そして白のプレートがスピーカーの穴を埋めると、何の変哲も無い天井がアーロンを見下ろした。
ロベルトへの怒りは収まることはなかったが、それよりも今はアリョーシの容体の方が気になった。電流が止まったとはいえ、未だ体を痙攣させている彼女は、まるで大丈夫とは呼べる状態にない。
だが、アリョーシを心配する思いはあれど、どう看病するべきかと言う知識が不足している。もしもアーロンが医師でもしていれば、適切な処置もできるだろう。しかし、彼の運命の枝はそちらには伸びずに、ドラゴンへと向かった。
迷いに迷った挙句、アーロンはアリョーシの側によって、彼女の体を抱きしめることにした。一体これで何なるだろう。と、自分で自分の行いに疑問を覚えてしまう。そして無力感に打ちひしがれる。
アリョーシの体から伝わるかすかな鼓動。それが消えてしまわぬように、アーロンはただ祈る事しかできなかった。