5..........
エマ・グリンハルトという女からの電話は、突然やってきた。
自警団の部長との意味のわからない会合についての連絡だった。
いくら予定帳を紐解いてもそんな約束をした覚えは一つもない。だから、私は一つ勘付いた。この電話はアマンダ・ウィンストンからの秘密の連絡なのだ、ということに。
声こそ違うが彼女自身であるに違いない。だから私は了承しつつ、車で行くことになると付け加えた。それだけであいわかったと先方は電話を切り、私も仕事机に電話を投げた。
「どなたからですか?」
部屋に居合わせたユミルから声がかかった。
生真面目な彼女だから、その顔はあくまで冷静を演じている。しかしその心の中は不安でいっぱいだろう。その証拠に彼女には珍しく、小刻みに貧乏ゆすりをしていた。
「エマ・グリンハルトという自警団の女性からの電話だ。明日の会合についてちょっとばかし連絡をよこしてきたのだ」
「そうでしたか……」
ユミルはそう言いつつ、スケジュール帳へと目を走らせた。けれど、そんな予定などどこにもないことは、すぐに分かる。
小首を傾げ、訝しむような目を私に向けてくる。私は一つコクリと頷いて見せると、ユミルもまた一つ頷いた。
とっさに思いついた嘘だった。だが、これは何も隠すという目的の嘘ではない。むしろその逆、嘘を嘘と見抜きその奥にある真実を読み取ってもらうための嘘だ。
これはある意味信頼と明晰さがあってこそのものだろう。ユミルに私の考える意図が伝わってくれればよかったが、実際彼女は優秀だった。
ユミルはすぐにその嘘の裏にアマンダからの連絡があったことに気がついてくれた。
「さて、今日のスケジュールはどうなっている」
ユミルに尋ねるとすぐさまスケジュール帳を繰って、今日の予定を朗々と告げ始めた。
「午前十一時より重役達を集めた会議、それから午後始めに報道一社からの取材が入っております」
「いつもよりは少ないな」
「ええ。重要でないものは、相手各社や役員達との協議の末に別日にずらしておきました」
「なんだ、気が効くじゃないか」
「それが私の仕事ですから」
口元が緩み、どこか得意げにユミルは笑って見せた。
「ですから、社長は今夜のことに集中なさってください。もし私などでよろしければ、いいようにお使いくださって結構ですから」
「……ありがとう」
心より漏れた感謝の言葉。ユミルはそれを聞いて暖かな微笑を浮かべた。
「では、私はこれで。何か御用があれば、秘書室におりますので」
ユミルはそう言うと深々と頭を下げて私に背中を向けた。凛として芯の通った背中を見送っていくと、扉一枚隔てた向こうへと消えていった。
「・」
扉を静かに閉めて、ユミルは一人静かにため息を漏らした。この吐息を聞くものは彼女の他に一人もいない。それは職場の人員不足でもなんでもなく、ただ秘書を意味する人物がユミル以外の誰一人いないという、簡単な理屈からだった。
それはアーロンの意図が働いたことが原因でもあった。彼は多くの人間を連れ歩くのを好まず、せいぜい一人、二人の人間と行動することを好んだ。そのため、始めは三人ほどいた秘書も、人事異動と辞職によって気づけばユミル一人になっていた。
しかし業務にはさして支障はなかった。先方との会合の日時の設定、パーティ等の公の場での雑用、それに懇意にしている方々の訃報や朗報での贈り物の選別。
業務内容は多岐に渡るが、スケジュール管理を除いて、アーロンが口を挟んでくるためそこまでの苦労はなかったのだ。
広々とした室内にポツンと置かれたスチール机と椅子。机に上にはデスクトップのパソコンが置かれている。装飾のないクリーム色の壁を背景に、ポツンと部屋の隅に置かれた観葉植物がわずかばかりの彩りを添えている。
それがユミルの職場の風景だった。
いつものようにデスクに腰を据える。しかし落ち着かない。今晩のことを考えると、どうもそわそわして仕方がない。自分には関係のない話。ということは首をつっこむ以前に分かっていたことだ。だが、それだとしてもアーロンの身を案じる上で、心配事は広がっていくばかりだ。
一度座ったががまんならずに立ち上がり、すぐそばにある給湯室へと向かう。
中には水道に電気ポッド、さらに軽い調理ができるようにIHのコンロが置かれている。戸棚の中には、上部にアーロンとユミル、それと客人専用のティーカップと受け皿が仕舞われている。下部にはアーロンの好物の茶菓子が仕舞われていた。しかし、今はそのどちらにも用はなかった。
流しにはコーヒーカップが一つ、水に浸して置いてあった。それは今朝方ユミルが使ったばかりのものだった。彼女はおもむろにカップに満ちた水を捨てて、表面をタオルで拭う。それから常備の茶葉や粉末になったコーヒーの量を確かめながら、ユミルはもう一杯コーヒーを飲むことに決めた。
慣れた給湯室でのことだ。ものの数秒で熱々のコーヒーがカップの中に満たされた。彼女は一口すすってみると、変わらぬ苦味が口に広がっていく。
と、その時だった。秘書室の扉を何者かが叩いたのだ。
湯気の立つカップを戸棚に置いて、ユミルはすぐさま給湯室を出た。秘書室はさほど広くもないため、給湯室から顔を出せばすぐに扉が目についてしまう。二歩三歩と大股開きで歩けば届く距離を、ユミル小走りに五歩六歩と刻んだ。
ノブに手を添えて引き開いてみると、そこには見知った顔が立っていた。いやこの場合で言うのであれば、今最も顔を合わせたくない人物が立っていた。と言ったほうが正しいだろう。その証拠にユミルの顔は見る見ると渋面を形作っていく。
「やあ、元気かい?」
ロベルトのその能天気さが嫌味ったらしく見えたのは、気のせいではないだろう。にこやかに微笑み、バラの花でも出そうかという機嫌の良さ。これがドラゴンを買い殺し、営利に預かる悪党だとは誰も思うまい。
「……何の用」
「そんな邪険にしないでもらいたいね。今日は少し用があって訪ねたのだから」
「あいにく社長はいま忙しいの。また今度にしてもらえるかしら」
「いいや、用があるのは社長じゃない。君だ」
「私に?」
「そう。ちょっと一、二分付き合ってもらえないか。何、手間はとらせないから」
まるでナンパでも仕掛けられたような、軽さと軽蔑とをユミルは同時に感じた。
「ああ、できることなら断らないで欲しい。君のわがままで今回の私との旅行が台無しになりでもしたら、報われないだろう?」
ナンパなどではない。それは恐喝だった。
「……わかった」
「それは結構だ。では、こちらへ来てくれ」
ロベルトに導かれるまま、ユミルは彼の背中を追いかける。
一歩また一歩と踏み出す足は、どこか牢獄にでも連れて行かれているようだ。不安とそれを上回る不穏は、ユミルの心からいつまでも離れなかった。