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暗い下水道を進むこと、実に一時間。
ようやく地上の光を見ることができたのは、アマンダによってマンホールが持ち上げられからだ。
モグラのように顔を出して外の様子を確かめた後、俺とゼレカを連れ立って梯子を昇る。
するとどうだ。少しばかり体温で温まった体が、外の寒気によって一気に冷え切ってしまった。
思わず肩を抱きしめて震える身体を押さえつけるが、それもあまり効果がない。なにせ抱きしめる腕までも震えていたのだから、押さえるどころか震えは何倍にもなった。
「大丈夫?」
そんな俺を見てアマンダが心配そうに声をかけてくれる。しかし俺は返事をすることを忘れ、けれどアマンダを安心させようと微笑を浮かべてアマンダを見た。
だが、その顔はきっと奇妙だったに違いない。
頬は寒さでつっぱり思うように動かず、それを無理やり吊り上げたものだからよっぽど不出来に見えたことだろう。
しかしアマンダは俺のその不出来な微笑を見て何かを言うことはせず、ただパンと肩を叩いただけだった。
そこは何処かの裏路地のようだ。プレハブで出来た建物と、コンクリでできた古いビルの谷間に俺たちは立っている。
アマンダは通りに顔を出し人通りがないことを確かめると、古いビルの中へと入った。まるで勝手知ったる場所かのように、淀みない足取りで二階、そして三階へと昇っていく。
そして四階の突き当たり、そのドアをおもむろにノックした。
覗き窓がさっと横へとずれる。黒目が二つ、俺たちの顔を覗く。
そして再び覗き窓がふさがれると、留め金の跳ねる音が聞こえ扉がゆっくりと開かれた。
そこには一人の男が立っていた。中肉中背。顔は細く、細い目に薄い唇、狐が化けて人を真似たら、きっとこんな顔だろうな、という顔だ。神経質そうな雰囲気を漂わせているが、おそらくはそれは気のせいではないだろう。
「入っていいかしら?」
アマンダの言葉に男はこくりと頷く。塞いでいた道を開け、俺たちを中へと招き入れた。
部屋の内装はいたって質素なものだった。いや、質素どころではない。その部屋には人の生活感というものがあまりにもなかった。
家具の一切もなければ、装飾も、また家電の一つもない。
あるのは部屋を照らす電灯と元から付いているエアコン、それに水道だけ。
これから退去でもするか、もしくは荷物を入れるか。そのどちらとも取れるほどの部屋だった。
「服を着替えろ。臭くてたまらない」
それが男が喋る最初の言葉だった。ゼレカに負けずとも劣らずの仏頂面にお似合いの声色だ。
低く、ともすれば金切り声のようなざらついた声。ボソリと放った言葉だったが、あたりが静かだったこともあってその声はよく聞こえた。
「シャワーは?」
アマンダがそうたずねると、男は腕をゆっくりと上げて部屋の奥を指差した。
「ありがと。それじゃ、リュカくんが先に入ってらっしゃい」
「えっ……、でも」
「いいから。一番震えていたんだから、無理をしないの」
「……ありがとうございます」
俺は礼をしながら、男が指し示した場所へと向かった。
そこには確かにシャワー室があった。狭い洗面所をぬけて、曇りガラスのはめられた戸を開けると、シャワーだけがつけられた風呂場がある。
試しにノブを回してみると水が流れ、次第に熱と湯気が混じったお湯に変わっていく。冷え切った体にはそのお湯は熱湯のようで、一瞬触ってみると指先が焼けるように熱くなった。
火傷しかけた指を何度も振って熱を冷ます。それから、衣服を脱ぎ捨てて生身の身体を湯に晒した。
ヘドロと下水で汚れ、冷水と寒気によって冷え切った身体をじっくりと温めていく。
心地の良さから久しぶりにしみじみとため息をこぼす。髪を洗い身体を洗い、水の無駄遣いと思えるほど、シャワーを浴び続けた。
と、曇りガラスに何かが当たった。ひょいと背後をみると、曇りガラスの向こうに人影があった。
「早く出ろ。次が詰まってる」
先ほどの男だ。男に対する反感はなかったが、この温もりから解放されてしまうのがちょっとだけ寂しい気持ちがあった。だから男には生返事をしつつあと五分、あと十分と間を引き伸ばしたのだ。
しかしそれも新たな物音によって諦める他になかった。
シャワー室には曇りガラス戸の他に洗面所へ入るための引き戸があった。男が出る際に律儀に閉めていったから間違いがない。その引き戸を今度は開ける音が聞こえてきた。
「まだ入っているの?」
アマンダだ。どうやら待ちくたびれて様子を見にきたらしい。
「いえ、もう出ますから」
そう言ってシャワーを止めて戸をちょっと開けて顔を出した。その途端に風呂場に溜まった湯気が行き場を求めて出たものだから、一瞬アマンダの顔が煙の中に消えてしまう。
何度か手で煙をあおいで飛ばしてやるとようやく煙が晴れた。
煙の向こうにコートを脱いだアマンダが立っているのが見える。ヨレヨレのくたびれたシャツには下水の汚れがこびりついて、それに水に浸ったおかげでうっすらと透けてしまっている。
色の白い肌、しかし擬態のせいかどうにも人肌のようには見えず、ゴムのような滑らかさとは無縁のマネキンの肌のようにも見えた。
だが女性の肌には変わりない。俺はさっと目をそらして手近に投げてあったタオルを手に取った。
「早く出てよ。私も凍えて死にそうなんだから。それとも、一緒に入っていいかしら」
ぎょっとした。そしてアマンダは俺の目の前でシャツのボタンを外しにかかった。
「い、今出ますから」
慌てて身体を拭いて、タオルとともに落ちていたジャージに袖を通す。
焦ることはないのだけど、何せアマンダの手は迷うことなくどんどんとボタンを外していたから、焦らないわけにはいかなかった。
「そ、それじゃあごゆっくり」
濡らした髪を拭きながら、アマンダを見ないように横を通り抜ける。
「ありがとう」
優しい声色でアマンダは言った。背後で絹が擦れる音が聞こえてきたが、俺は決して見ないよう逃げるようにその場を離れた。