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灰色の重たい雲が空をゆっくりと渡っていく。
風に流れ何処ともしれない場所へと、自由気ままに流れていく。
置き土産とばかりにそのでっぷりと膨れた腹から、大粒の雪が舞い落ちた。ひらひらと、またゆっくりと。
ときおり風に吹かれて左右に揺れ動くが、それでも目指す場所は変わらない。柔らかな雪の粒はそっと地上へと舞い降り、冷えた地面に染み込んでいく。
数年ぶりに見る雪は幻想的で美しく、忌々しかった。
かじかむ手に息を吹きかけた。それから揉み込むように手をすり合わせる。
それだけでも一瞬は温まったが、寒気の前ではそれも一瞬のこと。すぐに指先がかじかんでくる。
「お待たせ」
背中をどんと叩いてアマンダが隣に立った。
「もう片付けは終わったんですか?」
「ええ。ほら、あなたはこれつけて」
そう言ってアマンダはイヤホンを俺に手渡してくる。
激しく動いても取れないように、耳の上側に引っ掛けるピンが付いている。義体化している二人とは違って、生身の俺は彼女たちの脳内通信に参加することができない。
このイヤホンは彼女たちと意思疎通を行う上で欠かせない代物だ。
俺はイヤホンを手に取ると、アマンダに言われた通りに耳につける。
「ここから先はずっと走りっぱなしになるわ。なにせ車がないからね。あなたの体ならあたしたちに着いてこれるとは思うけれど、一応は覚悟しておいてちょうだい」
「分かりました」
「エデンに着いたらアーロンさんが動くまでの間、仲間の家で待機する」
「仲間?」
「一緒に行くことになっている自警団の奴の家よ。連絡は済ませてあるから、心配しないで」
「もしそこで奴らが待ち伏せていたら、どうしますか」
「その時は、運がなかったと思って暴れるしかないわね」
アマンダは肩をすくめながら、わずかに頬を歪めた。何てことないと言いたげに、それに何処か楽しそうに。
昨日の脆く弱々しい顔はいつの間にか消えていた。俺の隣に立つアマンダはいつも目にしたアマンダだった。
これから危ない橋と分かっていながら渡ろうってバカをやるには、彼女のその微笑は頼もしすぎる。
背後にある小屋からゼレカがやってきた。それを見たアマンダは互いに目配せをすると、薄暗い森の小道に目を向けた。
「リュカくんはあたしに続いてきてちょうだい。君の後にゼレカが続くから。遅れないように、足は動かし続けて」
俺はアマンダの言葉にコクリと頷く。それを見て、アマンダは満足そうに目を細める。
さて、と短く言葉を吐くと二、三度屈伸をしてから前のめりに上半身を倒す。
そしてふっと息を漏らすと、利き足である右足に力を込めて、いよいよ大地を蹴った。
地面がえぐれそこにあったアマンダの姿は、森の小道へと消えていく。
「ぼうっとしていないで、行く」
ゼレカに声をかけられはっと我に帰る。予想以上の早さに拍子抜けしている場合じゃない。あの背中が見えなくなる前に、追いかけなければ。
軽くぴょんぴょんと飛び跳ねて足に刺激を加えてから、左足を軸足に一気に前方へと跳ねた。
着地と同時に跳躍を繰り返し、スピードに乗ったところで足の回転数を上げていく。 ゼレカは付かず離れずの距離を保ちながら追ってくる。
数分も経たないうちにアマンダの背中が間近に迫っていた。どうやら少しだけ速度を落としてくれていたらしい。
俺が追ってきたことに気がつくと、速度を速めていく。負けじと俺も後に続く。
森を出てまっすぐにエデンへと向かう。道路を進むこともあれば畦道、さらには乾いた田畑の中を走り抜ける。
時折農夫人らしき女性が物珍しげな視線を俺たちに向けていた。が、風をきるが如く突き進む俺たちは、彼女たちの目では一瞬で通り過ぎたことだろう。
それに、この妙に早い女と子供をまさかドラゴンの子供と自警団の人間だとは思ってもみなかっただろう。
エデンの街へ入るためにはいくつか橋を渡る必要がある。
高架橋に高速道路橋。そして人と車が渡る大きな吊り橋だ。吊り橋は東側と西側に設けられていて、俺たちが向かっているのは東側の吊橋だ。
橋の下にはトルク河という大きな川が流れていた。見た目だけでは水面は光り輝き綺麗という言葉が似合うが、その実中身は清流と下水の入り混じる巨大な用水路だ。
ゼレカの隠れ家から流れ出る下水も、この川へと流れそして海へと向かっていく。
この川を越えていくためには、赤い鉄橋を渡っていく他ないが、ここで大きな誤算が生じた。
鉄橋がどういうわけか検問が設置されていたのだ。
踏切のような装置を橋の両端にこしらえて、出入りする車や人間の顔を改めている。
それをしているのは自警団の連中ではなく、怪しげな風体の男たちだ。
揃いも揃って黒いネクタイにジャケット、スラックスと葬儀でもあったかのようだ。
だが、俺にはその姿に見覚えがあった。アーチャーの部下たちがそのような格好をしていたことを、よく覚えていた。
黒服たちはもはや自分たちを隠すことをやめたのだろう。
胴体には自動小銃をぶら下げている。その男たちが何者で、何のためにこんなことをやっているのか。それは車に乗る人々も、またエデンへと入っていく人々の脳裏に浮かんでいくことだろう。
しかし銃口の前にした途端、同じように口を塞いでしまう。
銃という単純明快な狂気の前に、些細な疑問で命を落としてはたまらない。そう思ったかどうかは知らないが、そう思ったとしても無理はなかった。