10.........
水しぶきが顔にぶち当たり、ガブリエルの意識は乱暴に覚まされた。
口に入った水をつばとともに吐き出す。気色の悪い冷たさは、彼女の意識を無理矢理にも覚醒させた。
目を見上げれば、そこは暗い一室だった。何の家具も、何の装飾もない。目の前には大きな窓と鉄の扉がある。宙ぶらりんに豆電球がぶら下がり、頭上から照らしている。
「気がついたか」
聞き覚えのある声が降ってきた。そちらに目を向ければ、見覚えのある顔があった。
「これは、ずいぶんな起こし方じゃないか。アーチャー君」
濡れた前髪が顔にまとわりつく。手で掻きあげてやろうとしたが、思うように動かない。
見れば椅子に両手両足を縄で縛られ、その上衣服を身につけていなかった。
生まれたままの姿、割れた腹筋、鍛え上げられた上腕前腕、そしてハリのある小ぶりな乳房が呼吸と一緒に上下に動く。
ただその体はあまりに汚れていた。汚されたのではなく、いくつもの怪我によって見るも無残なありさまだった。
刺し傷切り傷はもとより、銃痕に縄の締め痕。
普通の女性が付けられることのない、いや女性だけでない。普通に暮らしている人間であれば付けられることのない人間の狂気による傷跡が、生々しく彼女の体を覆っていた。
「お前にはいくつか聞きたいことがある」
アーチャーはガブリエルの体を見ても、眉ひとつ動かさなかった。男として反応することも、また傷跡を見て同情することすらしない。ただ平坦に、冷淡に彼女の頭上から口を動かす。
「聞きたいことねえ……」
あくまで興味がないようにしながら、ガブリエルは言う。
「社長のご子息と自警団の連中は、今どこにいる」
「そんなの私が知るかよ。まあ、知っていても教えやしないけどな」
減らず口をたたいたところで、鈍い衝撃がガブリエルの頬を襲う。
アーチャーの拳だ。何の手加減もない殴打に、ガブリエルの口内には鉄の味が広がっていく。たまらず唾を吐き出すと、黒と赤が混じった液体が口の中から飛び出してくる。どうやらどこかを切ったらしい。
「……痛っ」
「質問に答えろ」
「だから、知っていても教えねえって言ってるだろうが」
ガブリエルが口を開いた途端、アーチャーの拳が再び打ち据える。今度は頬ではなく腹めがけて。腹筋を固めてアーチャーの拳から身体を守ろうとしてみたが、何しろ衣服がない為痛みも衝撃も比べようもないほど大きい。
おかげで筋肉で防ぎ切れなかった痛みが鈍く腹部を貫き、胃液とともに昨夜食べた何かが口から溢れた。
むせかえるたびにひどいゲロの臭いが肺にたまる。
そのせいで余計に気持ち悪さが悪化して、痛みとは関係のない吐き気に襲われる。
実際もう一度盛大に床にゲロを撒き散らした。今度のは消化されていない肉の切れ端が、白い何かの中に浮かぶ。
部屋の中にはゲロと汗の匂いが充満しているが、アーチャーは気にも留めていない。ただ冷たい視線をガブリエルへ向け、彼の望む答えを出すのを待っている。
尋問を続けたいわけでも拷問による快感を得たいが為でもなく、ただ、ガブリエルが喋るのを待っている。
だが、アーチャーのその期待には彼女はそうことはできなかった。
舌の上に唾液を転がし、口をすぼめてアーチャーに向ける。短く吐いた息に唾液を乗せて、アーチャーの顔めがけて吐きつけた。
赤くぬめりけのある液体が頬をつたい、下へと垂れていく。アーチャーはそれを指で払うとにわかに目を鋭くさせてガブリエルを睨みつける。
「いい顔をするじゃねえか。それでこそ悪党ってもんだ」
赤く腫れ上がった頬を吊り上げて、せせら笑いをアーチャーに向ける。
それが一種の引き金になったのだろうか。ガブリエルの口をふさぐ為、アーチャーは無慈悲にガブリエルの顔を打ち据えた。
何度も、何度も、何度も。絶えず続く拳の連打を防ぐすべもなく、ガブリエルの顔はみるみると赤に染まり、肉片が飛び散っていく。
けれどガブリエルの顔からは笑みが消える事はなかった。たとえまぶたが腫れて開くことができなくとも、歯が折れて頬を突き破っても、彼女の笑みは消える事はなかった。それがアーチャーの神経を逆撫でたとしても、止める事はなかった。
『あまり手荒にしてやるなよ。せっかくの情報源なのだから』
部屋に新たな声が響いた時、アーチャーの拳がはたと止まった。
人の声にしてやけにくぐもっていて、また一方向からではなく部屋の全体から聞こえてくる。恐らくは部屋の暗がりにスピーカーでも仕込まれているのだろう。
「……失礼しました」
振り上げた拳を下ろし、アーチャーは姿の見えない声に詫びた。
『うちの部下が済まなかったね。ガブリエルさん』
「あんた、誰だ」
口に溜まった血を吐き出して、腫れ上がった顔を闇に向ける。
『お初にお目にかかるよ。私はロベルト・モーガン。そこにいるレイ・アーチャーの上司だ』
「あんたがロベルトか。リュカの母親は元気かい?」
『ああ。元気すぎるくらいだよ。部屋の大きな穴を開けられたり、牢を壊されたり。ここ最近は修繕費があとをたたない』
「御愁傷様だな」
『全くだ。彼女をこちらで預かってから、余計に金がかかってしょうがない』
「そんなに言うのなら、元いた森に返してやればいい。そうすりゃ私らもおとなしく引きさがれるってもんだし、ここに素っ裸でいる必要も無くなるからな」
『事はそう単純にはいかないのだよ。お嬢さん』
「いいや、あんたが考えている以上に単純な事だよ。あんたらがおとなしく自警団に出頭するか、今すぐ私に捕まってくれさえすればいい。ほら、万事全て解決だ。事を複雑怪奇にしているのは往々にして人間の思い込みによるものなのさ」
『……なるほど、確かにそう言われてしまえば実に簡単だな』
「だろ?」
『だが、私たちがそれに応じると、本気で思っているのか?』
「……いいや。可能性は全くゼロだろうさ。そんなつもりが一つでもあれば、今頃私に服の一枚くらい着せているだろうからな」
『ご理解いただけて嬉しいよ』
スピーカーから声に混じって拍手の音が聞こえてくる。舐め腐りやがって、ここから出たらいの一番にロベルトの顔をぶん殴ってやる。
『だが、君らと議論してもきっと平行線を辿ることは目に見えている。互いに守るべき信念があり、互いに果たすべき使命に則って行動をしているのだから』
「だからと言って、私は口を割らないけどな」
『君の強情さにはつくづく感心するよ。君のような忠誠心のある優秀な部下がいたら、さぞ便利だろうに』
「ほめ言葉として受け取っておくよ」
『実際に褒めているのだから、そう受け取ってくれて構わないよ』
鼻を鳴らす音がスピーカーから聞こえてくる。
『しかし、君が喋る喋らないに関わらず、彼らはきっと私たちの元へとやってくるだろう』
「へえ、ずいぶん自信があるんじゃないか」
『君らがホテルに来た時から……いや、あのドラゴンの少年を逃がした時からいずれはこの場所が暴かれる時が来ることは予想できた。ならば、私たちはただ彼らが来るのを待っていればいい。しかし、その前に捕まえられるのであれば、それに越した事はない。無駄に死人を増やすことも、傷を負わせることもせずに済むからな』
「悪党にしては、ずいぶん殊勝な心がけじゃないか」
『人間に手を出すつもりは私たちにはない。私たちはあくまでドラゴンという滅びゆく種族を、有効的に使っているだけだ』
「歴とした犯罪だって事を、どうやら忘れているらしいな」
『確かに、私たちのやっている事は褒められたことではないかもしれない。だが、英雄と虐殺者が表裏一体であるように、私の行いはいずれ歴史によって正当化される』
冷静さが保たれていたロベルトの声に熱がこもる。それはスピーカー越しでもわかった。
『野生のドラゴンの血には不老不死の力が宿っている。それを使えば、万病に効く薬を作ることができる。そうなればエデンは真に楽園となり、病は遠い過去のものにすることができるだろう。この意味が分かるか? ドラゴンという驚異は今や人間にとって恩恵となったんだよ』
「人間のエゴで獣を狩るか」
『そうさ。だが、私たち人間がいったいどれだけ獣を狩ってきたと思っている。このエデンが作られたのも、何千という獣を狩り、自然から勝ち取ったものではないか。何をいまさら』
「だからこそ、人間が数少ない獣を守っていかなくちゃならないんじゃないのか? それができるのが人間ってものだろ」
『綺麗事だよ。理想でしかモノを言えない阿呆と同じ理屈だ』
ため息とともに吐き出された言葉は、ガブリエルの落胆が見て取れた。
『私たちと君たちは深い谷間を挟んで向き合う者同士だ。どちらかが橋を渡さなければ一生巡り会えず、分かり合えない』
「奇遇だな。私もそんな気がしていたよ」
『結構。橋を外された今、改めて君は私たちの敵となった。君や君の仲間たちは殉職者として自警団の名簿に刻まれる事だろう。それまでの間、そこで死を待ちわびているといい』
その言葉を最後に、スピーカーからは音が消えた。
お別れの挨拶に、アーチャーはガブリエルの腹を思い切り蹴りつける。
内臓という内臓が圧迫され、口の中から出てきそうだ。嗚咽ととも口を開けば胃液と血液が飛び出す。よかった臓物は出てこなかった。
衝撃によって椅子が後ろに倒れ、したたかに後頭部を打ち付ける。
扉の開く音が聞こえた。痛みに顔をしかめながら、目だけで音の方を見るとアーチャーの背中が見えた。ちらりとガブリエルの方を見た後、何の言葉もなく扉を閉めた。
暗闇に閉ざされた部屋。それを照らすのは豆電球の心もとない明かりだけ。仰ぎ見ていれば、豆電球は倒れた彼女を嘲笑うようにゆらゆらと揺れ動いていた。