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久しぶりの森とはいえ、アリョーシとの暮らしの中で染み付いたものはそう簡単には落ちはしない。
いや、むしろコンクリート・ジャングルよりも息のしやすささえ感じた。
排気ガスと密集した人々の息遣いのない森の空気は、俺が確かに生きていること教えてくれる。
木の幹を駆け上がり、枝を伝って次々に先へと進む。
ああ、懐かしい。
埃臭くない、木と土が曇り天気のせいで湿り気のある匂いが鼻をくすぐり、肌をひんやりと撫でていく。
風とともにアリョーシとの日々が思いだされる。たった一ヶ月、二ヶ月前のことだというのに、もう何年も前のことに思える。
それだけ危険で、多忙を極めた日々を送ってきたのかもしれない。けれど、それももう直ぐ終わると思えば、心なしか気持ちがすっと軽くなる。
だが、軽くなったかと思えば、すぐに暗い影が落ちる。
ガブリエルの安否と俺の頭に発信機をつけたのは誰かということ。この二つが解明されなければ、いつまでもこの影が俺の脳内について回るだろう。
しかし、解明といってもその糸口も、またひらめきも何一つ俺の頭は見出せないでいる。
走る間際にも、また獲物を探す間も頭をひねって考えてみるが何一つ思いつかなかった。ガブリエルの事だからそう簡単には殺されないだろうとは思うが、それは俺の勝手な期待による妄想だ。何の保証にもならなければ、ガブリエルが生きていることを証明するものでもない。
それに俺の頭に発信機をつけた人物だって検討がつかない。
アマンダにガブリエル、リーコンの受付、それにアーロンにユミル。覚えているだけでもこれだけいるが、その他にも子供という見た目だから多くの大人が俺の頭に触ってきた。
下手な勘ぐりで怪しいと思えるのなら、アーロンとユミルだろうけど、だとしてもその動機がよく分からないままだ。
探偵気取りで頭をひねってみるけど、こういうのは素人が真似ても一つとして答えがでないものだ。何か得るものがあったとすれば、考え込みによる頭痛くらいのものだ。
木に僅かに残る木の葉が、足で枝を踏む度に舞い落ちていく。
何気なくそれを追いながら先を急ぐと、足元に鹿が一匹通っていった。まるで舞い落ちる枯葉に恐れを抱いたかのように、一目散に茂みへと駆け込んでいく。
丸々と太った身体を見れば、たぶん冬ごもりのために栄養をつけているんだろう。そのためか夏場の鹿に比べていくぶん足も遅いようだ。狩るには絶好の獲物だ。
木から小枝を一本取り、鹿の逃げた方角へと走る。
動いている間に当てるのは難しいが、生き物が永遠に走れる事など出来やしない。必ず疲が足の動きを奪い、立ち止まる。その時は意外と早く訪れた。
茂みに囲まれた場所。そこにはたと足を止めて顔を明後日の方向にむける。
その先には何もない。夜の闇に包まれた木々が並び、動くモノは鹿以外に何もいない。
小枝を握りしめモヤを腕にまとう。
習った通りに。静かに呼吸を整え、気配を殺す。何も考えずそして何の情も思い浮かべてはならない。情を移せば手元が狂う。たった一瞬で済む機会を、みすみす逃すことになってしまう。
狙いを定め、構える。息を止め、指先に僅かに力を込める。
その時、あらぬ方向を見つめていた鹿が突然俺の方に目を向けた。
こちらが音立てたつもりも、また動いたつもりもないが、もしかすれば殺したはずの気配を嗅ぎ取ったのかもしれない。
潤んだ瞳に宿るものは俺には分からない。鹿自身も感情というものを知っているのか分からない。鹿の感情の正体を俺の頭が勝手に作るより先に、俺は手に握った枝を鹿めがけて投げた。
風を切る音が小さく鼓膜を揺さぶる。そして一瞬のうちに手元から離れた枝はまっすぐに鹿へと向かい、鹿の頭部、角と角の間を貫いた。
危険を察知した前足が僅かに動いたが、足は地面を踏むことはない。声も上げず少しの間宙を蹴り上げた途端、力なく地面に倒れ伏せた。
枝伝いに鹿の元へと向かい、地上に降りる。
鹿は、確かに死んでいた。黒く濁った目を見開いたまま、何が起こったかも分からぬうちに命を散らせた。
不思議と情が浮かんでくることはなかった。ただ転がった鹿を肉と見て、捌く方法だのどうやって運ぼうだのと別のことばかりに思考が費やされる。
獣の命を奪うこと、初めの内はかなりの抵抗があったのに、今じゃ何の抵抗もない。
これを慣れというのだろうか。それとも空腹ゆえに感覚が鈍っているのだろうか。
これがもし人だったら、人を殺すことになれてしまえば、死体に対する妙な情も浮かんでこなくなるのだろうか。
そんなバカなことを考えるな。俺の理性がそう言って、慣れという恐怖の淵から俺を掬い上げてくれた。
実際理性が働いてくれて良かった。それ以上考えていたら、仄暗い感情によって俺の頭はいっぱいになっていただろうから。
慣れに慣れきってしまわぬように、そんな自分を否定するように、俺は鹿の前にしゃがみ両手を合わせた。
その行為によって何が変わるわけでもないけれど、何かにすがりたくてやらないわけにはいかなかった。