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近親愛シリーズ

創造したのはだれか

作者: 氷見野

※この小説には、近親愛要素・不道徳な描写が含まれておりますので、苦手な方はご注意ください。

 かけっこをしたあとに、胸の中でお囃子のように賑やかすものの正体が知りたくて、やわい胸部に右耳を押し当てるようになってから、それはわたしたちの癖となり流行り始めた。


 まるで、自分の胸の中に違う生き物が息づいているような未知の感覚は、無知なわたしをひっそりと震え上がらせたものだ。リズミカルで、規則正しく。拍子を取るように内側を揺さぶる器官は、生命の象徴に他ならないというのに、わたしはとにかく怯えていた。なので、耳をあてがうのはもっぱら千里の方だった。


「聴こえる?」

「……ん。すっげー鳴ってる」


 定期的に抱擁を要求する千里は、猫のようだ。わたしをソファに座らせ、自分はわざわざ膝立ちになり、ひたり、と耳や頬を摺り寄せる。支柱となるべくラグの上に置かれている膝が痛くならないのかと逆にこちらが気遣うほどの長時間(それはわたしが感覚でそう捉えているだけであり、実際は数分にも満たない刹那であるのかもしれないけれど)どくどくと、血液を体内へ叩き込む器官の息吹に耳を傾けている。


 あるとき、習慣化している行為に不満を募らせた千里は、わたしに寄りかかりながら言ったのだ。「外がうるさいから聴こえづらい」だから自分の頭をもっと抱き寄せ、抱き締め、外側に曝されている耳や煩わしい視界を塞いで欲しいとのたまった。断る理由もないままに、わたしは千里を抱き寄せる。やや子を抱いてあやす母にも似た面持ちで、ゆりかごを演出するように蕩揺に心身を浸しながら彼の世界を塞いだ。呼吸が胸にかかる。上下するそこを押し返すように吹きかかる吐息がくすぐったくて、わたしたちは幼心に何の意図も持たぬまま、やはり、それを日々繰り返していった。


 学年が上がり、蓄える知識が増えるにつれ、わたしは身に巣食う正体不明の蠢きが「心臓」という名の臓物であることを知る。当然の流れである。黒板の上を白いチョークが滑り、粉末をこぼしながら擦れた字が漢字を描いたとき、複雑怪奇な文字の構造が迷路のように思え、ずいぶんと心細く感じたものだ。教師やクラスメイトの目を盗みながら、斜め後ろに座る千里にこそりと目配せを送る。彼は鉛筆の尻を銜えながら、小難しい単語の奥に垣間見えたわたしたちの行為の神秘性を噛み締めるように、わたしをじっと凝視するのみであった。


 千里がわたしの鼓動に身を寄せるのは、わたしたちが生まれながらにして不具であることへの恐怖からだと、子供ながらに察した。同じ母の腹から、時をほぼ同じくして外へ引きずり出されたわたしたちは、胎児として形成される過程で既に、片端でしかなかった。血も、臓器も、眼球も。一つのものを二つに別ったのだから、未完成なのだ。だから千里の行為は、わたしという片割れに、自己という脈動を求めているに過ぎない。幼くしてわたしたちは自覚があったのだ。どんなに熱意と烈しさに溢れた情を注いだところで、欠落した一部を埋めることなど叶わないと。


 抱擁は中学に上がってもなお継続する。指定席は相変わりもせずリビングのソファだ。母が「いつまでべったりしているの」と、わたしたちの思惑ではない、外野における不安を吐露するようにもなる。されど、千里は請うのである。友達と喧嘩をした日、先生に叱られた日、部活で思うように身体を操れず苛立った日。齢を重ねるにつれ、男の子らしく無愛想にも拍車がかかりながらも、ぶっきらぼうな帰宅の挨拶の直後には、先にリビングでくつろいでいるわたしに抱擁を要求した。


 一方で、わたしは恋を覚えた。中学一年のときに、三年生に恋をした。生徒会長という肩書きを誇り高く思い、振る舞いにも清潔感や勤勉な質がよく表れている男子だ。ところがその人にはとっくに恋人がいたようなので、行動を起こすより早く最初の恋を喪った。次は中学二年、新入生のうちの一人に強く惹かれた。背が高く、髪の色が薄く、人を食ったような発言をしながらも先輩に可愛がられるような、生意気な少年だ。そういえば初恋の相手も似たような背格好をしていたな、と懐かしがるうちに、やはりその恋も潰えた。


 決まって、同い年の男の子には恋をしなかった。千里の目があったからだろうか。身内の存在をごくごく間近で認識してしまう場所や人は、言葉にできるほど容易くもなく、まともな取り繕いも言い訳も咄嗟に浮かばぬほどに、選び難かった。それと同時に、父母や親戚、同級生たちから「双子だからすごく似てるね」と指摘を受けることが苦痛になり始めるのも、ちょうどこの頃だ。双生児だからといって似るわけではない、シンメトリーの彫像よりも粗雑なぶれはある筈だと心で反発することを覚えた。千里は。千里は、どう、言い返していたのか。


 わたしと千里は瓜二つだ。絶えずわたしの胸元に寄りかかる頭を隙間なく抱き締めながら、自分と同じ色をした髪を撫で、足元の亀裂を意識する。常識や体裁が、鍍金のように剥がれ、ぽろぽろ、乾いた音を伴いながら地獄の底へ落ちる感覚に心が炙られる。「──瑞穂」名を呼ばれてもなお、じくじくと、痛覚が止まない。


 わたしたちは、怪物を飼っている。そうに違いなかった。


 *


 高校は女子高に行けよ。突き放すように、千里が別離を言い渡したのは中学三年の春だ。


 しかしながらそれは別離の宣言などではなく、自立心でもない。千里は工業高校でバスケをやりたいと言い、わたしには工業高校を志望する理由もない。女子高、と断定されてしまい少々訝しい想いもありながら、千里の助言により共学という選択肢が消失した。偏差値は足りている。どこへでも、何にでも。千里の求める姿に応えられる自分が誇らしくもあり、我ながらいじらしくもある。「女子高にしたよ」進路を決め、わたしからの報告を受けた千里の横顔は、安堵と虚無が入り混じっていた。コーヒーにミルクを注いだばかりの表面のように、ぐるぐると渦を模し、絶対に口には出さない懊悩に無理やり形を与えたような、そんな横顔だった。


「どうしてわたしだけ女子高なの?」


 合格発表の直後、そろそろ教えてくれてもいいでしょう、もう我慢の限界なのよと問い質した。ベッドに寝転びながら雑誌を読み耽っていた千里が目を丸くする。こんな風に焦れて尖った感情を向けられたことへの意外性なのか、想定外か。しかし「なんだ、そんなことか」と微苦笑で口許を飾り、彼は答えた。


「似てるって言われるの、嫌がってたじゃん」


 俺は嫌だったよ。付け加える台詞の端に、幼稚で意固地な棘が滲んでいる。


「わたし、そんなこと一度も」

「おう、言ってねーな」

「ならどうしてそうだって言い切るの」

「さァ? 双子だから?」


 似ている、双子だ、と双生児にまつわる諸々を指摘されるとたちまち機嫌を悪くしてしまうくせに、根拠を要求された途端にこれだ。常人のアンテナでは受信できないような、怪奇現象のようなわたしたちだけに通用する送受信は、確かに根拠を求めるだけ無駄なのである。千里も、わたしも、そうと身をもって体感しているからこそ、これまでもこれからも、確たる言葉を必要とはしない。「双子だから」これだけで片付いてしまうほど安易な関係ではないのに、血の濃さと欠落の共有に対する恍惚を表に吐き出せない息苦しさばかりが、千里の好む心臓を圧殺してしまいそうだ。


 千里と同じ部屋で、同じ空気を分かち合えば、肺に彼の吐息が溜まっていく。しかしそれは拭い切れない懊悩によって満たされている負のともし火であり、やはりわたしの心を炙りながら、導火線を刻一刻と焦がしている。


 幾度となく息を重ね、幾度となく、肌ごしに彼の生命を感じてきた。聖母マリアに負けじと無類の慈愛を与え、片割れのささくれ立つ心腑を癒してきた自負がある。わたしは千里だけの神様であり、神様であるよう願い望まれ、そして神様であろうと居続けた。うっとりと目を細め、外を謝絶した閉塞的な楽園を、守ってきた。


 なのにここで、飛び立て、と放逐されたような心細さに苛まれ、わたしは眉をひそめた。これでもかとひそめ、内心に泣いてしまいそうな女々しさを封じ込め、手近にあったクッションを振りかぶった。ぼふ、と千里の横っ面にヒットするのを見届けてから、俯く。自分で自分の胸を開いてかき回しているから、混乱する頭が熱を孕んだ。


「意味、わからない」

「嘘つけ」


 即座に否定された。わたしは首がもげて飛んで行きそうなほど頭を振る。


「わからないものは、わからない。千里はいつもいつも、唐突」

「そこまで頭悪くないくせに、何言ってんだか」

「頭の良し悪しじゃないでしょう。千里が、そうやって」


 スプリングが軋む音。勢いをつけ、腹筋の要領でくの字になった千里は、丸めた雑誌でぽかりとわたしを撲った。


「同じ高校に行けば、双子だって、さんざ言われて」


 目立って、比較されて、肩を並べて立つよう強要され、嗚呼、やっぱりそっくりなんだ、と鏡像である事実を突きつけられる。と、ここでわたしは思い出すのだ。似ていると珍しがる周囲の声に対し千里がどう言い返していたのかを。数えるのもうんざりするほどの指摘を前に、千里はそのときとまったく同じ表情を浮かべながら、苦い薬を奥歯で噛んだようないかめしい口振りで吐き捨てる。「──反吐が出る」


 わたしはこの日、初めて自ら楽園を欲した。与える側として尽くしていた自分の奥深くで燻る埋火を、初めて千里に暴露した。彼は待ってましたとばかりに唇を三日月のように吊り上げ、ベッドの縁に腰掛ける。「おいでよ」両腕を広げ、わたしが与えるよりも一回り大きな世界を与えてくれた。部活動で鍛えられ、すっかり引き締まっている腕にぽとりと落ちていけば、自然と、これまでの千里のように真似をした。猫のように擦り寄り、心臓の音を聴く。わたしの心臓が、千里の胸の中に在る。どくどく、血の巡りが鼓膜を揺すぶる。


 怪物は日に日に大きく成長し、自制と理性とを食い漁っている。それは千里も同様であるらしく、わたしたちは残り僅かなタイムリミットに目がけて、導火線の終着駅へと突き進む。高校に入学すれば自分たちを取り囲む顔ぶれも更新され、千里の部屋を出入りする面子に異性が現れるようになった。けれどそれでも、わたしたちの導火線は未だ焦げていた。


 千里の習慣も尽きぬことなく行われた。より逞しく、ひとたび目を離せばあっという間に背が高くなり、その身体を包む服が制服から作業着やジャージへと変化した。抱き締める千里から、違う香りがするようにもなった。金属の匂いだった。わたしたちを何ものよりも強く繋ぎ止める、生々しい赤にも酷似した錆と部品の匂いに、わたしの昂揚は留まるところを知らない。何日、何ヶ月、何年と月日ばかりが通り過ぎていく中で、むくり、とおもむろに怪物が顔を上げる。


 思考が焼かれる感触がした。わたしの埋火こそ、モンスターそのものだ。


 *


 千里は、男子バスケ部の主将を引き継いだ。高校二年になり、インターハイ予選で敗北を喫した直後、その引継ぎは滞りなく済んでしまったという。実のところわたしは、千里がバスケをしている姿を目にしたことがついぞなかった。千里はとにかくわたしの存在を周囲に明かすことを善しとしない。けれど、自宅に招く友人の中には当たり前のようにチームメイトもいて、同年代の彼らは、わたしと初めて会った日、「双子なのか!?」と驚愕していた。


 工業高校に通うわたしの片割れは、他校の女子生徒にも人気があったようだ。「千里君とキョーダイなの?」予想するまでもない、決まり切った質疑応答がわたしの日常生活の一部に組み込まれている。双生児であることを明かさずとも、齢が同じなのだからいずれサルベージされ、千里を好ましく想う女子たちが嫌というほど群がってきた。地べたに落ちたアイスに挙る蟻のようだと、焼け爛れた思考が少なからず彼女たちを軽蔑していた。


「あんなに格好良いキョーダイがいるなら、他の男に目もくれないのもわかる気がする」


 友人たちに、いつしかそんな風に身持ちの固さを形容されるようになり、肝が冷えたこともある。だって、興味がないのだ。中学生で知った恋の味も、所詮は子供の稚拙なままごとの延長戦にあったのだ。初恋の人も、後輩も、背格好は千里そのものだった。髪の色、肌の色、口調や、ほんの一部の癖みたいなものまで、できるだけ千里が重なるようにと意図して選んだ案山子であった。だから、諦められた。最初の失恋にいじらしく涙するわけでもなかったのは、あれらが千里ではなかったから。同い年の男子に目を向けないのは、千里以外を認識しないから。蓋を開ければ、びっくり箱などでもなく、箱の中にただただぽつりと、甘美な背徳が後生大事にしまわれているだけ。


 わたしは、千里に拒まれているから彼の勇姿を自身の網膜に焼き付けることはできない。しかしながら、彼が縋るのは双生児であるわたし以外にはありえないのである。わたしたちの心臓は互いの中に息づき、わたしたちの血は互いの中で這い回る。生まれ落ちた瞬間から根付いた喪失感を満たす情は、どんな人間であろうと持ち合わせてはいないだろう。それはわたしたちにだけ共通し、共有する熱なのだ。他の誰でも、埋められない。


 ある日、綾崎さんという三年生が自宅を訪ねてきた。名前や顔に覚えもあったのだし、彼こそ、千里に主将の地位を託したかつてのキャプテンだ。「秋月に渡そうと思ってたんだけど」彼は、端が擦り切れすっかり草臥れている一冊のノートを差し出す。綾崎さんが主将となった日からこれまで、部をどのように纏め上げていくのか、総括についてのノウハウを我流で書き留めたものであるらしい。曲者揃いのチームを率いるには、最初ばかりは手を焼くだろうからと、千里を気遣った上での急な訪問であったようだ。


 綾崎さんは、千里より背が低い。純粋な大和の色らしく光沢のある緑の髪が笑うたびに揺れるが、ひょこひょこと跳ねる様を観察してみれば、あまり柔らかそうではなかった。と、ここで、わたしは己の救いようのない依存心を悔いるのだ。どの異性を前にしても、薄情な理性が、軽率な投影を許諾する。誤魔化すために、千里にそっくりだという愛想笑いを浮かべた。


 玄関先で応対するわたしは、千里がまだ帰宅していなかったから、代わりにとそれを受け取った。


「千里に渡しておきま、……あの?」ところが、ノートを掴んだ手を引こうとし、それがままならない。綾崎さんの視線が刺さる。不躾なようでいて、どこか遠慮しいな、好奇と配慮が互い違いになったような複雑な色を宿す眼差しに嘗め回され、わたしの身体がぎくりと強張った。昔はよく、こんな風に、夏休みに咲く朝顔を観察する小学生のように、無遠慮で即物的な瞳に射抜かれていたのだと、脳裏に嫌悪が甦る。


 すると、綾崎さんが言った。炭酸の泡が弾けるように、笑みが湧き出た。


「秋月のやつ、一年の頃から、帰る時間だけは決めてて。部の方がどんだけ立て込んでも、なんか定時上がりするサラリーマンみたいにスパッと帰っちゃうんだけど。その理由、なんとなくわかった気がして」

「……え?」

「確か、去年の冬ぐらいだったと思うんだけど。秋月って、ちょうどそのくらいの時期に誕生日、じゃないかな」

「そう、ですけど……」


 千里もわたしも十一月生まれだ。それに、昨年の誕生日は今までのどの誕生日よりも鮮烈であった。千里はエース揃いの工業高校で中核を担う選手であるらしいので、それに恥じぬ働きをするともなると、生半可な練習メニューでは背負い切れる筈もないらしい。よって、多忙を極めるのは必然である。だからその日も、普段より一時間以上帰宅が遅れているとしても、わたしが思い悩んだところで些末事であるのだと、諦観を抱いた。


 汗だくになった千里が、テロリストを鎮圧するべく突入する特殊部隊よろしく、雪崩れるように帰宅すると、ソファに凭れかかるわたしに向けて倒れ込むという、ちょっとした珍事が起きた。不貞腐れた声色の「ごめんなさい」がわたしの脳幹を魅惑的なまでに蕩けさせた。誕生日だけは、何年経とうとも、気が済むまで一緒にいようという、幼き憧憬の果てに在る約束を彼は頑なに守り続けている。それを破ってしまった罪悪から吐き出された謝罪は、どんな砂糖菓子よりも甘ったるく、最上の舌触りをわたしにもたらすようだった。


「誕生日だけは他に時間かけてらんないって。あいつ、わりと付き合い良い方だし、ちょっと生意気なところもあるけど基本的に練習中は真面目にこなすもんだから、その秋月が先輩たち振り切って死に物狂いで帰る姿見ちゃったら、あーなんかあるんだろうなーくらいは、想像できるっていうか。それがいま、正体見たり、って感じでさ」


 ここで、綾崎さんの手がノートから離れる。


「大事にされてるんだって、わかるよ」


 足許から競り上がってきた激情が、背筋をぞくぞく粟立たせる。


 千里は、水面という鏡面に映り込むわたし自身だ。指の腹をひたりと当てれば波紋が広がり、掬い上げればそれは劇薬である。指から滴り落ちる、禁忌と背徳に染まり切った劇薬を口に含めれば、わたしが飼い殺す怪物は膨張し、胎の奥がどうしようもなく疼くようになるだろう。


 閉じた楽園でしか認知されない“わたし”という不具は、世間により存在意義が肯定されることで新たな悦楽を知る。わたしは認められた。燦然たる陽の世界において、千里と揃いの不具者であるのだと認知されてしまった。ストロボより早く消失する喜悦であったのかもしれない。しかしわたしは、身に刻まれた快楽に酔った。陶酔が、怪物を嬉しがらせて、飽くなき欲の加速を自覚させる。


「ちょっ、綾崎さ……!! だからまだ帰ってないって!!」


 去年の冬のように、汗だくになった千里が駆け込んできた。「よっ!」返す綾崎さんは爽やかで、二、三言かわすとすぐに立ち去った。要件はわたしの持つノートがすべてであるのだし、取り残されたわたしたちは、意味もなく一瞥を送り合う。横に並ぶと、千里の顔の位置がまた高くなっていることにも気づき、手が伸びた。「また、背が伸びたね」


 振り返る千里の瞳に深淵が広がる。表舞台に立つ彼は、絶対にこんな眼をしないのに。軽口を叩き、先輩や後輩をからかって、時には女の子と連れ添って、そうしていつまでも「普通のふり」を上手に続けるのに。低位置であるリビングでもなく、鍵をかければ家族ですら出入りが不可能になる彼の部屋でもなく、誰が見ているとも知れぬこんな場所で、千里の双眸が艶かしく翳りを帯びるのだ。嗚呼、と吐息が漏れ、あの粟立つ感触で全身が痺れた。


 がっぱりと開いた口の中の、ほの暗い穴へと吸い込まれるように、千里の手により、わたしは玄関の内側へと閉じ込められる。かちり、と鍵が回る音がしたと思えば、背中がドアに貼り付いていた。首を傾け、とほぼ同時に、千里の口許がわたしの前髪に降る。開いてしまった身長の差分を縮めるように屈んで、薄い色の髪を唇で撫でる。


「千里、すき」


 愛しい、いとしい。わたしのしんぞう。


 肺の伸縮をやり過ごすように苦悶の声を漏らすきょうだいに、またもや、閉じた楽園をもたらそうとした。汗でべたつく頬に両手を這わせ、女性らしく膨らんだ柔いそこへと導きたかった。けれど、千里はそうしない。雪崩れる脆弱な彼はいない。ただ、わたしを巻き添えにしながら床にずり落ちていくばかり。


「あと、三年」


 喉の奥から搾り出された声が告げるのは、現実への回帰を意味するタイムリミット。


「あと三年もすれば、俺たちは成人して、住む場所だってきっと違ってんだろ」

「……そうね」

「俺は就職するし。お前はたぶん、進学するし。いっちょまえに一人暮らしなんか始めてさ。今よりずっと自由で」

「でも、千里。忘れちゃ嫌だ」


 懇々と、幼子に説くように独白する千里の震える唇に、やはり震えてしまう指を添えた。


「それはきっと、今よりずっと、もっと、不自由でしかないの」


 わたしは君の心臓で、君はわたしの心臓であるから。人が永らえるには、なくてはならない器官を、寄り添うことで共有している今だから。切り離すとするならそれは、皮膚を剥がれる拷問よりも手酷くわたしのこころを殺すのだ。


 純粋な子供であった頃、不足するものを補い合うように抱き締め、髪を撫でた。そればかりでは埋まらない欠損に引き裂かれそうな絶望を知覚し、充足への道も知覚する。名もなき怪物に、あってはならない名が与えられる。「似ている」と言われ否定するたびに枯渇を知らぬ欲求が身を苛み、例えそれに頷いたとしても、わたしたちが飼う怪物は止めようのない大きさにまで肥大していた。ぶくぶくと、三十路女のだらしない身体のように肥え太ってしまった。


 胎の中にわだかまる、女という生き物の性。生をじかに知りたがる、千里への欲。


 蓋が開く。嗚呼、開いてしまう。


「今日は、父さんも母さんも、帰るの遅い」

「千里」

「夜中まで、いくら叫んだって誰も来ねえんだって」


 わかれよ。なぁ、瑞穂。略奪された手のひらに、呟きを伴いながら熱が吸い付く。


 応えるにはどうしたら? 拒むならどうすれば?


 逸らせない視線が、覚えたての喜悦を呼ぶ。似ている顔、瓜二つの顔。まったく違いの見受けられない色をした髪、じれったさで暴れそうな獰猛な眼。あと三年もすれば、消滅する怪物であったのに。もはや退路を断たれ、獲物となった我が身の行く末は、捕食者である彼の手に委ねられた。


 夏が終わり、秋を迎えようかという季節だった。


 わたしたちの始まりは鮮烈に、苛烈に、ただただ惨めな終末へ向け、転がり出す。空虚でしかなかったそこに、本人でさえ余し気味の熱が打ち込まれるようになり、楔は毒だった。怪物とは、毒を振り撒く情愛という名の炎だ。そんなものを何年と飼い殺しているのなら、首輪が外れ鎖が千切れてしまえば、手がつけられる筈もない。


 怪物は、わたしたちそのものになった。腹が空いたと、啼いている。


 千里の浸水を許しながら、尽きぬ泥を吐き出してはうっとりと衰弱を夢見ている。わたしたちという怪物はいずれそうして、自らが撒いた毒に殺されていくのだろうから。

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