胡蝶。
お蔵入りそのいち……というか、つい最近友人と小説の話をしていて「お前偉そうな事言ってんなら自分で書いてみろよ」と言われたので逆上してビャッと書いてメールでピッと送ったと言う作品。
一応、完結までストーリーは考えているのでもし御好評頂けたら随時続きも更新していきたいと思っております。
「春雪だ」
慶長十七年、四月の空は晴れていた。
視えぬ陽に向かい、手をかざした。西国の風はぬるく、湯の様に柔い。かさかさに枯れた老爺の指の間を優しく縫っていく。
花弁がしっとりと、頬を叩いた。
「お前様。雪ではございませぬ。それは桜」
「桜を桜と詠むのは、詰まらなかろ」
さらさらと揺れる髪、風にたゆたう。
殆ど白髪である中にほんの僅か混じる烏色が、元々はそれが黒髪であった事を示している。
細く、年取った髪だった。
老人の立つ庭は、見事なものだった。調和の取れた庭石に小池、青々と根太く、力強い松。
並外れた長身であったが、なぜかとても奇妙に見えた。ちぐはぐに感じられるほど。それほど、小さく、細かった。
老いていた。
灰色の翁。やがて疲れたのか軒の梁に身体を預け、ふさりと座り込んだ。佇む姿は、枯れ葉のように静かだった。
「往くのですか」
老いた鶴のような老爺の眼は、既に利かぬ。
血は争えなかった。
希代の達人と謳われながら三十半ばにして眼病を患い、剣を置いた彼の父と同じく、彼もまた光を失って既に四半世紀を数えようとしている。
本来、漆黒であるべき瞳は白く濁り、何も映さぬ。見事な庭も、眩しい桜も、隣に寄り添う美しい夫人の姿も。
白刃の軌跡も、もはや見切る事は叶わぬ。
「往くのですね」
少し浅黒の、長い指が老翁の髪を梳いた。美しい爪が、ゆるりとくしけずっていく。背に彼女のぬくもりがある。大きめの掌が肩をそっと包んでくれた。
首筋の吐息。寄り添う声。地良かった。
翁の手首、肩、背、胴も。今はそれらは古木の如く。
見えなくなった、眼。
衰えた、骨。
枯れた、血肉。
色褪せた、かつては精根漲るばかりであった丈夫の成れの果て。
ただただ切なく見える。
「そう思い詰めるな、ゆき」
夫人には、趣の有る美貌があった。薄絹のように滑らかな肌、目は冷たそうにも見えるが才気が宿り、柳眉に色香が覗く。
濡れ烏色の髪は、春の風が吹けば桜の花びらと共にはらりと散った。その色が、朱牡丹の紅を塗った様に赤い唇を浮かび上がらせて、より彼女をたおやかに見せる。
「わしは剣だ。そうして生きてきた。これからも。最期まで。ただ、それだけよ」
ふわりと、甘い匂いが薫った。妻の香り。陽の柔らかな四月の朝だった。
ぴいと鳴いた、あれは燕か。空は高く、遠い。
男の名は、佐々木小次郎。旧名を冨田小次郎と言った。
……んん? や、や……居眠りか。はて、今は昼か、夜か。
めくらとなってからとんと、昼と夜の境目があいまいだ。それでも陽の湿っぽさや舌に触れる吸い込んだ空気の感触で大方の刻限程度は見当ついたものだが、今となってはそれすら呆けてきた。
そればかりか近頃、夢か現かどちらに居るのかすらも曖昧になってきた。もはやこれでは、まったく世間様で言う所の呆け老翁。まあ目の前のものが変わらぬでな、そうなりもするか。
ははは……何も映さぬのに目の前とは、これやいかに。
こうして遠からず自意識も曖昧となり、牡丹雪が融ける様に消え失せていくのだろうの。騰蛇乘霧。終為土灰。驥老伏櫪。ふむ……こういう死に方も、あるのだな。
もしや、もはや彼岸なのか――――――? いや。
篠笛が聴こえる。これは新しい曲だ。あやつめ。俺がせがんでも吹こうとせぬのに、ひとりになると吹きたがる。何の曲か知りたいが……あれは教えてくれんからなぁ。
あれが笛を吹くと言う事は、きっと今宵は佳い月夜なのだろう。齢六十余年、月など幾度となく眺めた気もするが、思えば愛でた事など、光を失うまでついぞなかったような気もする。名月の歌は……はて。なんぞ、あったかな。
……美しいな。
俺は確かに、何かひとつの大事なものを全うしたいが為に生きてきたような気もするのだが……果たしてそれも何であったか。
斬って、斬られて、さんざやったあげく抜き身の刃のままでとうとう、気づけば今日まで生き永らえたが。この笛の音ほどに美しいものを、俺は果たして残せたのかね。
そもそもそれもまた、思い煩う必要があるのかな。俺の中にはもはや追憶しか残らぬが。恐らく人間という奴がきっと畳の上で死ぬ時は、こんなふうに走馬燈にだけ思いを馳せながら、未練だの無念だのさえも忘れて、まっさらになって消えていくのだろうて。それも、実現できるのなら中々に潔いがな。
……佳き音じゃ。
このまなこで月を捉える事は既に叶わん。ならばせめて瞼の裏に星を映して――――――風呂にでも浸かる心地で、この佳き音と良き風に包まれながら、胡蝶の夢の中で今しばしだけ遊ばせてもらおうかの。
喉が干上がる。肌が凍る。
血の管の中身はたちまちに沸騰して、全身の血液が逆流するかのよう。
ぎらッと光る切っ先が、空気を隔てて眉間を射す。その薄刃一枚を見詰めるだけで次第に視界はぐにゃりと曲がり、にわかに背筋が総毛立つ。
氣が絶え間なく上がり下がり、真っ直ぐ立っているかもあいまいになる。混沌を極める感覚の中、下腹に力を込めて必死に自分を繋ぎとめている。
“真剣勝負”というものの感覚だった。
「…………」
空間が、張り詰めていく。互いに突き合わせた正眼の剣先は、数間の間合いを挟んで鬩ぎ合う。岡目にはともすれば、鏡の如き水面の様に静かにすら見えよう。が。
その圧力、空気の重さが。相対す互いが、纏うあらゆる衣を急速に削りあっていく。
否、剥がしていく――――――そんな表現のほうが適切か。
脳は言語を手放し、知性は野性の奴隷となる。やがて皮膚も筋肉も剥がし、神経まで剥き出しにさせていく。
そんな感覚だ。
それは、普段人間が人間として生きる為に、奥に秘め隠す色々なものを露わにさせる。怖れ、怯え、焦り。
それらに反動する、危機感、緊張感。その感覚が原始的な本能へと立ち戻らせ、五感を研ぎ澄ませた。自らの身体の奥、獣の様な荒い息遣いも、どくりどくりと脈打つ動脈の振動も感知できる。
鼓動が速い。早鐘の如く打って、みるみる金切り音のように細く短くなってさらには無音と同等へと――――――
やがて感情すら色を無くしてゆく。後にはまっさらな衝動と、反応だけが残る。
余分なものは一切削ぎ落され、顕れるのはお互いの“存在”そのもの。
「ッ!!」
剣先がゆらめいたような気がして、咄嗟にばッと八双を取った。一足も下がり、首筋が急速に冷たくなる。
ばちゃり、地べたが鳴った。雨音がうるさい、だがその温度が男には分からない。冷たいのか、生ぬるいのか。申の刻を過ぎて、気温は随分下がった筈だが。
視界がぎゅうッと窄まった。肺が浅くなった気がする、にわかに空気が入ってこなくなった。己の中の時間がどんどん速くなる。体の反応だけが暴走している。意識が追い付かない。
男は自覚していた。呑まれている、と。
「越えるか、越えぬか」
濡れたススキが足元を隠す。見晴らしは良かった。
雨のとばりの向こう側、この“間合い”の向こう側、その表情は佇むように静かで。
「好きにすればいい、だが」
すらりと背は高い、だが未完成の細い線。一房に束ねられた、濡れた長髪。雨が、形の良い顎を滴っていく。
座った肚が頭のてっぺんを通って天まで伸びている。
その完璧な構えには、あまりにちぐはぐ、不似合いだと思えるほど、あどけない顔だった。
大きく切れ長の眼ばかりが妙に鋭い紅顔。その甲高い声はどう聞いても、まだ童ではないか、なのに。
「命は弱さを、許さんぞ」
剣の勝負は、“存在”を剥き出しにする。知識や経験や肩書や、その他あまたの構成要因を一切を削ぎ落して、素の己が何者であるのかを写す鏡になる。
その男は、絶対的に違っていた。
深い黒の瞳に射竦められ、思わず退いた。
向かいの正眼は、少しも乱れていなかった。
「――――――鹿島新当流、津田五郎左高元ッ!!」
裂帛の名乗りを挙げ、ちぇいりゃッと雄叫んで飛び出す。
そうでもしなけりゃ、まず一合あわせることすら叶わなかったに違いあるまいから。
その間合い、越えるか、越えぬか。決断した瞬間、丹田の奥で何かが弾けた。
己の中の速度がみるみる増し、感覚も意識も通常の何倍も濃厚に密度を上げて、やがて耐えきれなくなって爆発する刹那。
真空の様に張り詰め切った間合いを、気合で自ら踏み破った。ぶわっと顔から血の気が引く。ちりちりと肌が裏側から灼かれる感覚があった。
剣が上がる。一足に打ち落しをかけんとする時、人間は自然と上段になる。とにかく体ごとかまそうと、相手より上からぶったたいてやろうとするから腕が上がって腰高になるのだ。殴ろうとして思わず拳が振り上がるのと同じだ。
人は死地において時の流れを殊更遅く感じると言う。それはきっと、自分の中の刻の流れがそれだけ速いからだろう。
死の間に飛び込む。沸騰する血潮はたちまち蒸発し、神経はとてつもなく加速する。
地を滑る。打ち降ろす。己の身体、躍動する骨、ぎらりと鱗の様に光った白刃、無我夢中の中で垣間見た、相対するその男の澄ました美しい貌。
あらゆる情報が切り取られた写真の様に、ばちりと一瞬のうちに網膜に張り付いた。
火花が散った。五郎左には、それが見えた。
パチンッ、と――――――極限の津田五郎左に火花に見えたものは、実はたったそれだけだ。
正眼は少しも譲らぬまま、ほんの少しだけ手元を返し、軽く押さえ摺り込む。津田五郎左のすべてを込めた今生一代の一の太刀をなんなく除けて、そのままさッと、男の剣は振り上がった。
羽を広げる様に澱みない所作だった。王者の構えたる正眼から、余裕をたっぷり持って上あります段へ。五郎左には、それが金翅鳥王に見えた。
荒れ狂う怒龍を一口に啄んでしまう、大翼を広げた金翅鳥に。
津田五郎左高元という男の“すべて”が、ぼわっと宙に浮くのが、自分でわかった。魂、あるいは命といおうか。
優々と両翼を広げた金翅鳥王。さながら自分は、くちばしのまん前で据え膳の如く。
絶対的に違っていた。
この戦いで一番、長く。無限と紛うほど長く感じられた一瞬。津田五郎左は仰ぎ見、射竦められていた。蛇ににらまれた蛙の様に。
中条流奥伝・“金の位”金翅鳥王剣の形、まるきり演武そのままの形であった。
死に体の、真正面を向いた正中線。金翅鳥の一振りが綺麗にその線上を辿って、それで終わった。
「名など名乗らぬ」
飛び散った血は顧みず、刃を汚した物打ち回りのみ綺麗に拭きとる。
およそ生身の人間を、それも立ち合いで一太刀、真っ向真っ二つに斬り落とすなど、余人に出来る技では無い。
陶器のような色白の面に、血飛沫が不気味に映えた。遠目には化粧の様にすら見えた。
当世風の、雅な着物から覗く肌。喉仏と鎖骨の艶は、未だ前髪立ちの少年のそれ。
「名で振る剣など、俺は持たん」
越前朝倉氏が家臣、盲目の達人・冨田勢源の遺児にして最後の皆伝者、冨田小次郎は永禄の時、未だ名も無き、僅か十六歳の剣客に過ぎない。
やっこちゃんとまなこちゃんてアイドルがさぁ、もうちょ~カワイイんすよ!!
二十歳を過ぎてアイドルという新しい世界にハマった男、ななわりさんぶです。
はじめての方、はじめまして、知ってるよという方、いつもお世話になっております。ここまで読んでくださり、ありがとうございます。
せっかくのお正月なのに更新しないわけには! しかし剣豪漫遊記の更新分はまだ完成していない! なら既製品でお茶を濁そうと言う代物。すいません、石ぶつけないで……
こういった貯め置き作品は剣豪漫遊記の連載が終わった後にちょっとずつ垂れ流して行こうかななんて考えても居たのですが、生存報告代わりというわけでもないですが、アップしてみました。
ちなみに上述の友人からは「なんやこれ、難しい言葉ばっかりで意味わからん」と言われましたジーザス。皆さん、なぐさめてください。