meme -The music myth Creation-
あなたはそっと本を閉じた。
そして目の前にいる老人を見つめる。
「この本、本当に頂いても?」
あなたが今一度確認すると、老人は目を伏せたままゆっくりと頷いた。
「その本はあなたが持つべき物だ、決して手放してはいけない」
あなたはその言葉を聞くと、半分理解出来ぬままに肯定した。
ロクに食事もしていなさそうな痩せた老人を目の端に捉えながら、あなたは椅子から立ち上がり部屋を出ようとする。
いずれ消えてしまうのであろうと分かっていながらも、あなたは老人に手を差し伸べようとはしなかった。
それが当然だとあなたは承知していたし、老人にとってもまた、それは当然のことなのだ。
いつまでも生にしがみつくのは愚者のすることだ。
「最後にひとつ、聞かせてくれないか」
扉に手をかけたまま振り返ることなくあなたは口を開く。
背後からは沈黙。
「あんたは、幸せ……いや違うな、楽しかったか」
僅かに木が軋む音。
ふぅという小さな溜息を吐き出した後、老人は返した。
「……善きことだったと、そう思うよ」
なんだか答えになっていないような気がしたが、あなたはその言葉を聞いて満足した。
「そうかい……それじゃあ、達者でな」
もう二度と会うことはないだろうと思いながらも、最後に口をついて出たのは気遣いの言葉だった。
そしてあなたは扉を開く。
瞬間、仄暗いろうの灯りに満ちた部屋とは打って変わって、視界は灰色に包まれた。
見慣れたビルの集合体を見上げて、あなたは思いを馳せる。
老人のこと、あなた自身のこと、これからのこと。
もうあなたはこれまでのあなたではない。
『普通』の生活に溶け込みながら、『普通』でないモノになったのだ。
変化とは残酷である。
あなたの脳裏にかつてのあなたがよぎる。
その顔は笑っているだろうか、泣いているだろうか。
もう同じような表情を描くことは出来ない。
あなたに出来ることは、模倣することだけ。
きっと幸せでも、楽しくもないだろう。
けれどあなたは悲観などしていなかった。
『善きこと』
そう、これは『善きこと』だから。
だから、行こう。
あなたがあなたであるために。
あなたは一度振り返る。
そこには扉などなく、ショーウィンドウがあなたを映すばかり。
あなたは目を伏せ、そしてすぐに前を向いて歩き出す。
ショーウィンドウが映し出した虚空。
それは誰かであって誰でもなく。
あなたはもはやそれがあなたなのかは分からない。
しかし同時に、やはりそれはあなたなのだ。
いつしかあなたはそれに気が付く。
あなたの抱えた本が真っ黒になる頃に、きっと。
音芸神話 -yukito's side story-
了




