呉起、宰相となる
次の職場を求めて、呉起は今度は楚国へ行った。
これまでいろんな国で騒ぎを起こした呉起だが、やはり自分の評判が知れ渡っている国は避けたかったのかもしれない。楚は中国南方の広大な地域を支配する強国で、今まで彼が接点を持たなかった国である。
楚の君主は悼王という人物で、呉起の才能を高く評価した。
「戦乱の世なのだから、仕える国が変わるのも珍しくはない事だ。魏での無敗ぶりは聞いている。是非とも我が国で、宰相として働いてもらいたい」
ついに、呉起は宰相の座についた。
かつて自分でつけた腕の咬み傷を見て、呉起は涙を流した。
「……母上、やりました。宰相です。これまでの努力と苦労が、ようやく報われました」
文字どおり幾多の屍を越えて、呉起の悲願は達成された。しかし、ただ宰相に就任すれば終わりではない。呉起は持ち前の切れ味を生かし、楚の国政に新風を吹き込んだ。
「財政を再建せねばなりません。そして国の方向性を定める事です」
将軍の身分ではできなかった事を始めようとしていた。悼王が興味深そうに先を促すと、呉起は続けた。
「調べてみると、この国にはずいぶんと無駄な官職があります。それを必要なものだけに絞る。更に、公族でも遠縁の者は特権待遇を廃止します」
「なるほど、大胆な政策だ」
「お言葉ですが、中原(中央)ではすでに行われている事です。この楚は大国ではありますが、政事は今ひとつ先進から遅れております」
「分かった、任せよう。好きにやってみろ」
悼王は気前良く笑った。呉起は嬉しかった。ようやく自分を理解してくれる君主に巡り会えたのだ。
呉起は新参であるため、楚の官僚たちには何の義理もない。遠慮なしに官職の剥奪を行い、浮いた費用で軍備を増強した。これによって楚軍は精強になり、悼王も気を良くした。
宰相となると、仕事は多くなる。しかしそれ以上に、政敵も多くなるものである。そうでなくても呉起は、来ていきなりたくさんの公族貴族を免職して、恨みを買っていた。
悼王と相性が良すぎたのも、結果を悪くしていた。悼王がもう少し呉起を抑えていれば、そこまで極端なリストラはしなかったであろう。しかし呉起は、そんな事まで気にしていなかった。
「準備が整いました。軍を動かします」
呉起は自分の手足のように楚軍を操り、各地で戦果を挙げた。越を討ち、陳と蔡を併呑し、三晋(韓・魏・趙の三国を指す)を退け、秦にも遠征した。
史書にはそう書かれているが、別の資料によると三晋と戦った事くらいしか本当ではないらしい。しかし、呉起の軍備増強はこれまでに倣い将兵を優遇する事に重点を置いていたので、楚軍は相当強くなったのだろう。諸国が楚を恐れるようになった、と記されている。
楚が呉起の働きによって隆盛を極めた頃、裏方では、暗い影が動いていた。
「あの呉起にも、弱点はある」
「奴には味方がいない。魯でも魏でも、内部からの讒言には弱かった」
「どうせ支持者は悼王だけだ。もう少し待とう」
呉起によって失脚させられた公族や貴族は、いつしか集まって結束し、呉起に復讐する機会を窺っていた。
そしてその時が来た。悼王が病に倒れたのである。
ワンマン政治を行っていた呉起の支えは、悼王ただ一人だった。もしも呉起が自分の派閥を作り、周囲にも目を光らせていれば、公族たちの狙いにも気付いただろう。だが悪い事に、呉起は味方がいない事に慣れていた。悼王という絶大な味方を持ったせいで、それ以上地盤を固める考えなどなかったのかもしれない。
ついに悼王が死んだ。呉起を狙う公族たちはすぐに兵士を集め、呉起の屋敷を包囲した。