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公主を娶らば

 呉起ごきにいる間、戦国七雄のかんしんを相手に通算七六回も戦い、うち六四回勝利した。残りの十二回は引き分けであり、敗北は一度もない。負けそうな時には素早く退いて引き分けに持ち込んだのであろうが、これほど多く戦っていれば相手の方も呉起の戦法を研究するはずである。それでも負ける事がなかったのだから、いかに呉起が非凡な兵法家だったかが分かる。


 呉起が来てから、魏では君主の代替わりがあり、宰相も二度入れ替わったが、呉起はずっと西河太守せいがたいしゅのままだった。しかし呉起の目標はあくまで宰相職であり、太守や将軍では満足していない。

 当時の宰相の公叔座こうしゅくざという人は、呉起がその椅子を狙っているのを知っていた。

「何とか呉起を追い払う手はないか。あんな残忍な男に狙われているかと思うと、夜も眠れぬ」

 憂鬱になっている公叔座に、一人の下僕が進言した。

「恐れながら、私めに一計がございます」

「呉起は名将だ。簡単な罠にはかからんぞ」

「簡単な罠ですが、奇策です」

 下僕は、公叔座の耳元で筋書きを語った。公叔座の陰鬱な表情が、むず痒そうな笑いに変わる。

「面白い。やってみる価値はありそうだ」

 公叔座は妻を呼び、早速準備にかかった。

 翌日、魏君主の下に参内した公叔座は、呉起の話題を持ち出し、大袈裟にほめ称えた。

「呉起将軍が出れば、負ける戦はありません。我が魏国が千里四方も領土を広げられたのも、全て彼のおかげです。ただ……」

「ただ、どうした?」

 公叔座が語尾を濁したので、魏君主は訊ねた。

「彼ほどの人材が、いつまでもこの国にいてくれるかが問題なのです。他国に引き抜かれるのが心配で……」

 そう言われると、君主も不安な顔になった。

「確かにそうだ。それとなく呉起の心中を測る手はないかな?」

 公叔座は、冷ややかな笑みを浮かべて答えた。

「一つございます。呉起に、魏の公主こうしゅ(公族の娘)との縁談を持ちかけるのです。呉起が魏に留まる気なら受けるでしょう。しかし他国へ移る気なら、断るはずです」

「なるほど。では、奴の好みそうな娘を選んでおこう」

 君主が了解したので、公叔座は退出した。しかし、このままでは呉起に有利な話になってしまう。公叔座は次の仕掛けにかかるため、今度は呉起を訪ねてこう言った。

「以前から君の噂は聞いていたよ。ゆっくり話がしたいと思うのだが、今夜我が家に遊びに来ないか」

「はあ、では参ります」

 呉起がそう答えたので、公叔座は彼を馬車に乗せた。


 公叔座の家に着くと、彼の妻が派手な着物で出迎えている。

「ようこそ、呉起将軍。ご活躍は伺っております」

 公叔座が馬車を降り、妻に声をかけた。

「食事の用意はできているか?」

 すると妻はきつい目で夫をにらみ、

「できているから、お迎えに出ているのです。あなた、私がのろまだとでもおっしゃるの?」

「い、いや、ただ聞いただけだ」

「お客様の前では、途端に偉そうになって。あなたが宰相になれたのは、私が君主の娘だからなのをお忘れにならないでね」

 妻はぷいと後ろを向いて、家に入ってしまった。公叔座は愛想笑いをして、呉起を招き入れる。

「奥方様は、公主であらせられたのですか」

 呉起が聞くと、公叔座が声を潜めて言った。

「お恥ずかしい話だが、わしもあれには頭が上がらぬ。魏の公主は、気が荒い女ばかりだ」

 その後食事が始まっても、公叔座の妻は何度も話に割り込んで場の空気を乱し、公叔座が少しでも批判がましい事を口にすると「私を邪魔だというの、偉そうに」と切り返す。公叔座の家人も、妻の機嫌を伺ってばかりで公叔座には冷たい。公叔座はだんだんと落ち込んでしまい、最後には「気分が優れなくなったので悪いが帰ってくれ」と、呉起を送り出した。


 史書によれば、呉起はあっさりと公叔座に騙された事になっている。だが、果たしてそうだったろうか。敗北率○パーセントを誇る兵法家の呉起が、何の不審も見出さなかったとは思えない。

「付き合いもなかった公叔座が、いきなり家に招待した。何故だ? 奥方の振る舞いも、どこか不自然だった」

 呉起は帰り道、そう独りごちた。公叔座には何か目的があったはずなのだ。

「『妻となった公主』だな、強調したかった事は。公叔座の家があんなに嚊天下かかあでんかだという噂は聞かない。あれは芝居だろう」

 冷静に考えれば、そこまでは読める。しかし、芝居の真意までは、分からなかった。

 何日かして、魏君主が呉起を呼んで言った。

「嫁入り先を探している公主がいて、なかなか器量もいい。呉将軍にどうかと思ってな」

 呉起は目を白黒させた。

「私に公主を、ですか」

「将軍には、いつまでもこの国のためにがんばってもらいたいのだ。君が宰相の職を希望しているのは、前から知っている。わしの一族と姻戚を結べば、いずれそうなる日も来よう」

(そういう事だったか)

 呉起は、公叔座の描いた絵図が全部見えた。ここで断るという事は、魏に留まる事をも断る意味合いに聞こえてしまう。

 呉起は、思い出したような顔をして言った。

「先日、宰相公叔座様の家に呼ばれました。あの方の奥方も、確か」

「うむ、公主だ。実は、君に公主を勧めてはと言って来たのは彼なのだ」

 君主は、呉起の顔色を窺うような目をしている。

(この人は、本当に俺を必要としている。それに、気丈な女が嫁に来ても、俺がしっかりしていれば済む事だ)

 そう思った呉起だが、しかし答えは正反対だった。

「畏れながら、公主を私になどとは、もったいない事です。お気持ちは嬉しくありますが、辞退させていただきます」

 呉起は一礼して、君主の間から去った。


 翌日、君主は公叔座を呼んで言った。

「呉起は話を断った。公主など畏れ多いと」

 公叔座は、大袈裟に嘆息して言った。

「やはり。呉起は魏に留まる気はないのですよ。いつ寝返るか分かりませんぞ」

「うむ。要職に就けておくのは危険だな」

 魯の時と同じように、呉起は実権を取り上げられた。結局呉起は、公叔座の下僕が考え出した罠に嵌ってしまったのか。


「魏が、俺を引き留めたいと思うほどになったか。ならば別に魏でなくとも、宰相の座にありつけるかもしれん」

 呉起はそう思っていた。魏に執着のなくなった呉起は、あっさりと出て行った。


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