呉子の兵法
疎んぜられたのを知り、呉起は魯を出て魏国へと移った。魏は戦国七雄の一つである。
魏の君主は呉起の才能を認め、将軍として採用し、隣に接する大国・秦を攻めた。呉起は秦の城邑五つを攻め落とすという大きな功績を上げ、周囲の度肝を抜いた。魏君主は呉起を信任し、西河という要衝地の太守(長官)に任じた。
呉起の用兵は、己の理論に基づいた心理作戦を得意としていた。ただし作戦は敵にではなく、味方の兵士に用いる。
激しい性格の呉起だが、軍にあっては別人のようだった。馬上で叱咤する事などない。彼は型破りな将軍だった。着る物や食べる物は身分の低い兵士と同じにし、寝る場所もそこらにごろ寝、移動には馬車など使わず、己の足で歩く。もちろん荷物も自分で持つという、徹底的な現場主義を貫いた。
呉起の言動を見ていて気になるのは、命に対する考えの屈折である。郷里で三十人を殺し、自分に足りないものに気付いた。母の死を利用して儒学と縁を切った。そして、出世のために妻を殺害した。前の二つは偶然の結果とも取れるが、やはり呉起には生命を尊重する素振りが見られない。
非人道的と言えばそれまでだが、死の影響を力学として計算する冷徹さは、戦争を商品とする兵法家にとっては天賦の才能と言えるかもしれない。
兵士が悪性の疽(膿の溜まるできもの)を患っていると、呉起は自らの口で膿を吸い出してやる事が幾度もあった。当時はそうする事で治していたのだ。
しかし、ある兵士の母親は悲しんで言った。
「あの子の父親も兵士でした。同じように疽を患っていた時、やはり呉起様が吸い出してくださったのです。夫はそのご恩に報いようと奮戦し、死にました。あの子もきっと、呉起様のために命を投げ出すのでしょう。これが泣かずにおられましょうか」
兵士と平等に労苦を分かち合い、彼らの心に近付く。結果、兵士たちは呉起の情義に感動し、彼のために死ぬ気で戦うようになった。呉起の怖いところは、これが優しさではなく全て計算で行われている点である。しかもその算盤は全て、自身の出世という決算のために弾かれている。
仁愛を利用した扇動工作というべきであろうか、かつて儒学を破門になった呉起が、その要点はしっかり吸収し、俺ならこう使うとあざ笑っているかのようである。
「兵士の最大の武器は、生命の力、死の力だ。それを引き出すためには、兵士を軽んじず、その心をつかむ事だ」
呉起の兵法書「呉子」を読むと、彼がそう語りかけて来るように覚える。