儒学と兵法
郷里を出た呉起は、持ってきた金で曾子に弟子入りし、儒学(儒教)の勉強に励んだ。
呉起が生まれたのは紀元前四四○頃と言われる。彼が生きた中国の戦国時代は、家柄よりも実力で人が認められた。呉起はようやくそれに気付いて、己の力を付けようとしたのである。
儒学は仁愛や礼儀を重んじ、徳を修めた人間が政治を行えば天下は安らかであると説く。この時代、たくさんの思想家が各地で遊説して為政者に自分を売り込んでいた。その中でも、孔子を始祖とする儒学は有名だった。呉起が曾子の門を叩いたのも、あるいは儒学のネームバリューを宛てにしたのかもしれない。
ところが、呉起は儒学を学ぶに連れて物足りなさを感じて来たらしい。
「君主が欲しているのは領土と名誉だ。それを手に入れさせる事が、俺の仕事になる。儒学は堅苦しい理想論の塊だな。……もう古い」
そんな事を考えている頃、急な報らせがあった。母が死んだという。師の曾子が呉起を気遣って言った。
「家に帰って、御母堂をきちんと弔ってやりなさい」
しかし呉起は、腕をまくり咬み傷を見せて言った。
「いいえ。宰相となるまでは帰らぬと、母に誓ったのです。例え母が死んでも、誓いは破れません」
曾子はこれを聞いて激しく怒った。この曾子という人は親孝行の精神に厚く、「孝経」という書物を著した程の人だ。親よりも誓いを優先する呉起に激怒したのは、当然の事であろう。
ただ、生没年を調べた人の説によると、この曾子(本名は曾参)はこの頃すでに故人で、呉起の師になったのは曾申という人だったとも言う。
だとしても、中国人は昔から孝を大事にする。やはり親の葬儀をすっぽかす男には腹を立てたのだろう。呉起は即刻破門された。
未練がなくなったのだろうか、呉起はまもなく自国――衛国を出た。国境を越えながら、呉起は郷里の方を向いて言った。
「母上。私に、儒学をやめる機会をくださったのですね。感謝します」
一礼をして、呉起は歩き出した。彼は魯国へと向かった。
魯国で、呉起は兵法について学んだ。肌に合ったのか、呉起は乾いた土が水を吸うように学を修め、優れた兵法家となった。
戦国時代は七雄と呼ばれた七つの大国が覇権を争った弱肉強食の時代で、七国の合間にはたくさんの小国があった。
魯国も衛国と同じく、小国の一つであった。今、魯国は隣の斉国に攻められそうになっており、兵法に明るい人材を求めていた。斉は七雄の一つで、大国である。
「罰と褒美は誤りなく行って兵の心をつかみ、命令には必ず従うよう仕向ける。これが肝心だ。反対に、働いた分だけの手当を出さなければ、どんな精強な兵も本気で戦いなどしない。将の器とは、すなわちそれをこなすかどうかにある」
呉起は、これまでに身につけた兵法を鑑みて、そう結論した。そして自分にはそれができる自信がある。対斉戦争の将軍は、自分に任命されるだろうと確信していた。