三十人殺し
剣の刃がめくれた。これで四本目になる。両手は血で濡れていた。
呉起は、懐から竹簡を取り出した。竹簡とは、まだ紙のない時代に細く切った竹を巻きもの状に連ねた帳面である。
竹簡には、今斬った男の名前が書かれていた。呉起はそれを男の血で塗りつぶす。その名前の右側には同様に、様々な濃淡の血で塗りつぶされた名前があった。
「……あと一人」
呉起は、無機質な口調でそう呟いた。
五本目の剣を袋から出して腰に差すと、音を立てずに走った。
ある男を発見し、いきなり正面に躍り出て一刀の下に斬り殺した。そしてまた竹簡を出し、名前を消す。
消して、呉起は竹簡を両手で引きちぎって捨てた。剣も捨てた。竹簡の名前が、全部消えたのだ。
「…………」
言葉は出なかった。満足したとも途方に暮れたとも見える表情で、呉起はしばし佇んだ。
やがて人が近づく気配があり、その場から静かに立ち去った。
呉起の家は裕福だった。彼は政界に出て宰相(大臣)になるのが夢で、家財を投じて諸候に献金し、各地を回った。しかしその苦労は報われず、呉起の家は没落、財産を失っただけになった。
周りの者が、呉起の行いを笑った。
呉起は、笑った者の名を竹簡に控えておいた。その数三十余人。更に住所を特定できたところで、呉起は街に出て剣を五本買い求めた。
この猟奇な殺人は、そんな経緯で起こった事だった。
人目を避けて、呉起は家に帰った。
彼の血塗れな姿を見て、母が驚いて聞いた。
「倅や。何があったのです」
「何でもありません。母上、お願いがあります。我が家に残っている金を、私にください」
以前は大きな屋敷に住んでいたが、呉起の失敗により屋敷は売り払い、使用人もいなくなった。今は母子二人で粗末な家に住んでいる。屋敷を売った金がいくらか残っており、生計はそれで立てていた。
母は今度は、驚かずに頷いた。
「あなたは昔から、決めた事はやり抜く子でしたね。持ってお行きなさい。私は老いて先の短い身、気にする事はありません」
「ありがとうございます。実は今、人を」
告白しようとした息子を、母は押し留めた。
「すぐに行きなさい。あなたはこの地を出るつもりだったのでしょう」
呉起は涙を流した。
「お察しの通りです。私はいつか必ず、宰相となってみせます。それまでは、再びこの地を踏みません。これが誓いの印です」
そう言って、呉起は自らの臂に咬みついた。更に歯に力を込め、血が滴り落ちる。母は黙って見ていた。
「お元気で」
呉起は家に残った金の八割を持ち出し、家を後にした。