私的幽霊に於ける地表との関係性
「教授さんにまた怒られちゃうよ?」
彼はソファに座っている私へ天井から言葉をかけてきた。上から声をかけられると首が痛くなるからやめて欲しいと言ったのは昨日のことである。
私は顔を向けずにポットに紅茶の葉を入れつつ応える。
「この前軽く怒られたからこそ、しばらくは大丈夫」机の上のケトルから熱湯を注ぎ、蓋をする。
私の教授は基本的に温厚である。だからこそ、私は平日の昼間だというのに家に籠る事ができているのである。また、怒られるといっても注意を受けるくらいなものだ。
教授は真面目な人だが強制を良しとしない人でもあるので、学生には自主的な研究室への出席を求めている。つまり今の私は教授の情に漬け込んで時間を確保していると言っても過言ではない。きっとこの瞬間にも、研究をしない不真面目な学生の事で頭を痛めている事だろう。
「そういうだらしない所、よくないと思うな」間延びした声と咎める口調がミスマッチだ。頃合いを見計らって紅茶をカップに注ぐと、その湯気が天井へ伸びていく。
「あ、いい香りー」
そんなことよりも私には先に考えるべき事があった。彼の名前である。
***
「名前、わかんない」
私が彼に名前を訊いた時に発された言葉である。私はご丁寧にも自分から名を名乗った事を後悔した。人間は自分の名前を最初に覚えるものだと思っていたが、それは間違いらしい。そもそも彼は人間ではないのだから当然かもしれない。私が間抜けだったのだ。そんな私のしかめっ面を察したのかそうでないのか彼は続けた。
「市瀬の好きなように呼んでよ」
私は保留を決め込んだ。
***
それから数日経ったが、いい加減彼に名前を付けない事にはやりにくくて仕方がない。
なまじコミュニケーションが取れるだけに、人名以外で呼ぶのも気が引ける。また、人前で彼と話す時に (彼と人前で話す時は席を外して電話で受け答えるフリをしている。よくよく考えてみると馬鹿みたいだ。) 周りから白い目で見られないように、日本語の人名を付けることにする。
しかし人名といっても、そんなもの無数にあるではないか。適当で良いとはいえ、決め手に欠ける。どうせ私しか呼ばないし、変でなければそれでいいのだけれど。
まだ熱い紅茶に手を伸ばす。天井にいるふわふわしたものに名前を付けるのすら一苦労だ。私には想像がつかないが、子供の名付け親も似た苦労を味わっているのだろうか。視線を上に向けると、紅茶の香りを楽しみながら天井を背に寝転がる彼の姿があった。私の心境も知らず存分にくつろいでいる。このやろう。
彼の不思議な生態を目撃した時は高揚したものだが、今となっては彼の存在が鬱陶しくもある。プライバシーもへったくれもない。なんで私が彼の分析以外の所でこんなに悩まなければならないのだ。
***
彼は宙に浮いているが空高く飛んだりはせずに地表付近で活動している。一体どれだけの高さまで浮くことができるのか、私はまだ知らない。
また、彼が地面に足を着けている姿を見たことはない。彼は常に地表から数mmから数cmほど浮いている為、地面には接触しない。彼は (どういった力が働いているのか分からないが) 空中で動ける為、人間のように地面を蹴り反作用を得る必要もないのだから、地面に触れる必要もないだろう。
地面に潜っている姿も見たことはない。人間と同じ理屈であれば、もし彼が地面に潜ったところで光が届かないから何も見えないはずである。恐らくその行為は彼にとって何の意味も成さないだろう。
彼は壁をすり抜けることはできても壁の反対側を見ることはできないと言っていた。つまり物質によって彼の視界は遮られるが、彼自身の体は物体を透過できるようだ。
ならば彼の場合、地面に潜った時に地上を目指せないまま彷徨う事になってしまう可能性がある。人間ならば三半規管によって重力の方向を感じる事ができるが、果たして彼にはそのセンサが備わっているのだろうか。
あるいは、積極的に地面に触れたり潜ったりしないのには別の理由があるのかもしれない。仮に、彼が無念の死を遂げた人間の意志であったら、地面や地中は彼にとって触れたくはない領域だろう。火葬されなかった人間が行き着く先は土の中であり、土そのものが死を連想させる言葉でもある。ならば地面や地中は彼にとってのタブーだろう。
この昼行灯にちょっと意地悪をしてみよう。
***
「大地」
天井の彼は瞼を開き、私の方へ顔を向ける。私は多少首に無理を聞かせて天井を見上げる。
「君の名前、今日から"大地"だから」明らかに彼の性質とは正反対の名前に彼はどんな反応を見せるのだろうか。
彼の瞳が私を捉えて急激に小さくなるのが見えた。眼がピントを合わせる反応なのか、感情の変化による収縮なのか区別は付かない。
その現象が私のレンズに鮮明に、大きくゆっくりと映し出された瞬間、心臓が跳ねた。
不気味な、得体の知れない、空中に浮かぶ、ソレの小さくなった瞳が私を映している。
軽い気持ちでタブーを踏み抜いた感覚。
私の瞳が大きく縮んだ。
***
「りょーかい」
間の抜けた声で視界が広がる。
「どうしたの?」
息を大きく吸い込み、吐き出す。彼の瞳はもう元の大きさに戻っていた。
「いや、なんだか反応が薄いなと思って」普段の調子を心がけて発声する。
「えー、そんなことないよ」ふわふわと彼が口を動かす。
「てっきり呼び名つけてくれないものかと思ってたからさ。ずっと『キミ』って呼ぶんだもん。でもなんだか照れるねぇ。大地だって」
そう言いながらえへへと笑う。彼が笑う姿を見ると、私は上を向いたまま空気が抜けたようにソファに沈み込んだ。
上のほうで彼が自分の名前を復唱しながらニコニコとしている。
「ねえ、もう湯気飛んでこないんだけど。はやく次の紅茶淹れようよ」
そして足をパタつかせながら彼、大地は紅茶を催促してくる。
「はいはい。今新しいの淹れるから」
机の上に置かれたケトルの電源を入れ、紅茶のカップを手に取る。
湯気消えた紅茶はまだ温かかった。