~第1話 恐れぬ少年、恐れる少女~
日が傾いた夕暮時、人気の途絶えた廃ビルの中で、日向は1人立っていた。赤と黒のチェックシャツを羽織り、インナーウェアは黒地に白のプリントシャツ、グレーのジーンズを履き、手には黒のグローブ。短めの髪は茶色に染められ、顔立ちは整ってはいても特徴らしい特徴はない等、何処にでもいそうな10代半ばの少年。しかし、だからこそ日向の今の姿は奇異に映ることだろう。薄暗い廃墟の中で、鈍く光るダーツを構え、目標を冷たく見つめている様は。
その視線の先には、打ち捨てられたコンテナと、その上に等間隔で置かれた3本のビール瓶。5mばかり向こうにあるそれに狙いを定めながら、右手のダーツの感触を確かめる。そして、軽く息をつくと、次いで勢いよく投擲。ステンレス製のダーツは瞬く間に空き瓶との距離を詰め、左端のビール瓶の左横すれすれを通り過ぎようとした。その瞬間、日向は左手首をスナップする。すると、それに合わせるようにダーツの軌道が不自然に変わり、跳ねるような動きでビール瓶へと寄っていった。それは、左手に持つ改造メジャーからダーツに繋げられたCNTワイヤーが手首の動きをダーツへと伝えたためだ。それから更に左手を巧みに動かせば、無色透明のワイヤーが伝播する動作によってダーツは瓶の周りを旋回し、ワイヤーを瓶に巻きつけていく。
そして、充分にワイヤーが巻かれたことを確認すると、日向はメジャーの長さ固定のロックを外し、巻き戻しのスイッチを入れた。すると、ばねを強化されたメジャーの内部で激しい回転が起こり、ワイヤーがメジャーの口へと高速で吸い込まれていく。そして、ワイヤーの遊びが無くなったその瞬間、ワイヤーが巻かれていたビール瓶は無数の破片へと解体された。ガラスの破片がけたたましい音を立ててコンクリートの床に落下するのを見ながら、戻ってくるダーツをグローブの嵌められた右手で掴み取る。
そして、再びダーツを引っ張り、ワイヤーを充分な長さになるまで伸ばしてロックを掛けると、今度はワイヤーの一部をつまんでダーツを振り回し始めた。体の右横で風車のごとくダーツとワイヤーを回転させていき、充分な勢いが乗ったと判断したその瞬間、ダーツを残った瓶の右方2m程の方向へと放つ。次いで、左手を薙ぐようにして思い切り左に振るった。すると、ワイヤーもその動きに合わせて左へ、つまり空き瓶の方向へと向かっていく。すると、鞭の様に振るわれたワイヤーはコンテナ上に置かれた瓶2本をあっさりと上下二分に切り裂き、切られた部分は床に落ちて砕け散った。
元々同じ太さの鉄より強靭な素材である上に髪の毛程の太さしかなく、粉末状にした工業用ダイヤモンドが全体に塗されている特製のソーワイヤー。その切断力は並ではない。取り扱いの際にも、両手にケブラー繊維で編んだグローブを嵌めていなければ指を切り落としかねない代物だ。無論、それで守られていない他の部位に万一ワイヤーが巻きつくことがあれば、ただではすまないのだが。
そんな危険を気にすることもなく日向は目の前の成果に満足すると、懐に右手を伸ばす。ジャケットの内ポケットから取り出した、黒光りする棒状の物体。それのロックを外し、手首のスナップを利かせて軽く躍らせてみれば、鋭く光る刃が姿を現した。刃渡り18cm、バタフライナイフとしては大きい部類だろうそれを構え、横薙ぎに振るう。それを手始めに、突き、切り上げ、振り下ろし等、素振りで様々な技を繰り出していった。出鱈目に振るうのではなく自分なりに短刀術の本から学び、独学で磨いた技の型。それらを一通り試し終えると、息をついてナイフをしまう。
始めたのは、11歳の頃だっただろうか。以来4年間、なんとはなしに続けているこれらの訓練。別にこれで積極的に誰かを傷つけようとは思っていない。けれど、この何かを壊せる技を身に付けていることが、不思議と面白く感じられた。ワイヤーやナイフ等、誰かを傷つけ得る武器を操っていることが、よく判らない痛快さを覚えさせた。客観的に見て、そんな自分の神経はいかがなものなのか。振り返って見れば、結論は至極単純。要するに、自分はいわゆる“アブナイ”人種なのだろう、と、なんとなく納得していた。
「お、日向じゃん」
訓練を済ませて廃ビルを出ると、横手から声を掛けられる。そちらを見やれば、自転車に乗ったクラスメイト2人がいた。その姿を確認すると、日向は軽く手を掲げて応える。
「よっす」
「よっす、なにしてたんだ、こんなとこで?」
級友の1人が日向と廃ビルを見比べながら訝しそうにいえば、日向は肩をすくめてみせた。
「ん、単なるダーツの練習」
「おー、お前やたら上手いと思ったら、こんなとこで練習してんのかよ?」
日向の答えに、もう片方の友人が食いついてきた。実際はそれを目的にしていたわけではないのだけれど、別に真実を告げて無駄に友人から嫌悪感を待たれる理由もない。告げることそれ自体は、“特に抵抗がない”のもまた事実なのだが。
一方、ダーツの訓練と聞いた友人たちは面白がっているような笑顔で続ける。
「お前、いっつも毎回トップだもんなー、陰の練習の成果だったのかよ」
「久々、皆で“トリップ”いこうぜ、今度こそトップから引き摺り下ろしてやる!」
近所のダーツコーナーがあるゲームセンターの名前を出され、日向も笑って頷く。
「それじゃあ、今度の日曜辺りか?」
「いや、他の連中の都合とかも聞かねーとよ」
「明日学校で決めようぜ」
3人で頷き合うと、「また明日」の言葉とともに2人は去っていった。それから2人に後姿に軽く手を振り、日向も家路につく。
ブラウン基調の8階建てマンション、その5階にある自宅のドアを開く。
「ただいま」
玄関先から帰宅の挨拶をすれば、奥にあるリビングからどこか緩い声が聞こえてくる。
「んー、日向お帰りー」
「……ただいま、っつーか母さん今まで寝てたろ?」
苦笑しながらリビングに向かうと、ソファーで横になっている母の姿があった。セミショートの黒髪は艶があるし、若々しい印象があるので身内びいき混じりなら美人に分類されると思うのだが、今の姿からはだらしなさしか感じられない。呆れていると、眠たげな表情から間延びした声が発せられる。
「んー、だいじょーぶ」
「何が」
「掃除と洗濯は終わってるー」
母の返答に、日向は溜息をつきながらベランダを見やる。
「洗濯、本当に終わった?」
「んー、ちゃんと干したよー」
「……取り込みは?」
訊いた瞬間、母が目を見開いて上体を起こした。そして、ベランダに視線を向け、「あちゃー」と顔を俯かせる。ベランダには、ハンガーに掛かったシャツやらズボンやらタオルやらが見事に沈みかけの夕陽を浴びていた。
「洗濯物もそうだけどさ、夕飯は?」
「く、9時まで待ってコースで……」
ちなみに、今は6時半だった。
「はぁ、了解。洗濯物は俺が入れとくから、早く作ってくれ」
「あー、取り込んでも畳まなくていいから。ハンガーのまま干しておいてー」
「あいよ」
今尚暢気な母の声に、苦笑しながらベランダに出る。なんでこの母から自分が生まれたのか、時々ならず理解に苦しんでいた。もし母がここまで暢気でなければ、とうの昔に日向が自分のスニーカーに仕込んだ“とっておき”は露見していたことだろう。
洗濯物を室内物干しに掛け終わると、日向は部屋へ戻った。ベッドに身を投げ出しながら、改めて部屋を見回す。入り口は部屋の隅側にあり、接する壁に設置されているのは漫画とノベルス、そして僅かながら参考書の並んだ本棚に普段着や制服の入ったクローゼットだ。入り口と対面側にはスケートボード、それから液晶テレビを置いた2段式の棚があり、棚の上段にはHDレコーダー、下段にはビデオ一体型のDVDプレイヤーとゲーム機が2種。クローゼットと対面するのは窓側で、エアコンと勉強机、及び机上のノートパソコンがある。そして、入り口側の壁にあるのは自分が寝ているベッドだ。
部屋の内装からは、とてもではないがこの部屋の主がナイフやソーワイヤーの訓練を日課にしている人物とは思われないだろう。事実、家族も友人たちも、日向のそういった面にはまるで気付いている様子はない。日向が10歳になる前から、それらの扱い方を教えてくれた不良グループと付き合いがあることを含めても。
彼らと親交をもった理由は、不良に憧れを持っているとか、不良になりたいという願望があったからではなかった。ただ、日向は知りたかっただけだ。そして、それを知らないことこそが不良たちの間で日向が気味悪がられ、尚且つ一目置かれる所以になった。
そう、日向は物心ついた時から、何かを“恐い”と思ったことがない。恐怖心と一般に呼ばれるものを、1度も経験したことがない。幼い頃は、何事にも物怖じしない自分は度胸があると呼ばれ、自分もそうなのだと思っていた。
しかし、幾つの頃だったか、近所の公園の木を登っていた時のことだ。日向はそれ以前と同様に、微塵の竦みもなく順調に登っていった。その怯えの無さが油断となったのだろう、かなりの高さまで来たところで足を滑らせ、落下して足を折る大怪我を負うことになった。
その時に、日向は気付いてしまう。高度約6メートル、年少の子どもには余りに高い場所から落下したにもかかわらず、いささかも恐いと感じなかったこと――それが異常であるということに。
感情が働いていないわけではない。テストでいい点を取れば嬉しいし、侮辱を受ければ腹が立つ。映画で人の死ぬシーンに泣いたこともあれば、風呂でくつろぐ時はまったりしていられる。喜怒哀楽は正常、しかし“恐れる”という感情だけが、抜け落ちているかのように全く働かないのだ。
それを理解した時、日向が感じたのは虚しさだった。自分が周囲と違うことに、恐怖はない。恐怖できないのだから、恐いわけがない。ただ、皆が知っているそれを自分が知ることができないのは、なんだかひどく虚しかった。だからこそ、日向は恐怖に繋がることを色々と試みた。怖いと評判の絶叫マシーンはあらかた試したし、心霊スポットに行ってみたこともある。それでも結果は芳しくなく、だからこそ危ないと教わっていた夜の繁華街へ出向く決意をした。
その当時の日向は確か8歳、当然そんな子どもが繁華街をうろついていれば嫌でも目立つ。そして、人気のない路地裏で、日向は不良グループと接触することになった。初めのうちは全く相手にされなかったが、蹴飛ばされようと突き飛ばされようと臆すことのない日向はやがて興味を持たれ、そこから段々と親交を持っていったのだ。
結果だけをみれば、やはりその中でも日向が何かを恐れるということはなかった。喧嘩もそれなりに経験したが、どんなに痛い目を見ても日向を怯えさせるものはなかった。どんな怪我をしても自分が危ない輩と付き合っているということを想像しなかった両親の暢気さこそ恐るべきものなのかもしれないが。
そして、高校に進学した今となっても、それは変わらずにいる。未だ何かに怯えること、恐怖することを経験せずにいる。別に今の生活に不満があるわけではない。それでも、自分がこの先に恐怖というものを知る可能性は、きっとないだろう。きっと、自分は一生この精神障害を抱えて生きていく。そのことに対し、やはり恐怖は浮かばない。ただ、寂しい様な虚しさが、胸を穿つだけだった。
寺院のバルコニーに立ちながら、キャローラは暗くなった空を見上げていた。まだ宵の口だというのに、リングを周囲に浮かべた空の月は、女性聖職者用の白い袖広貫頭衣と白抜きで聖なる紋章が描かれた黒いサーコートを纏った彼女を既に明るく照らしている。その肢体はスレンダーながらも魅力的なラインを描いており、彼女の長い緑がかったブロンドや愛らしい顔立ちと相まって、月の光の許で幻想的な美しさを見せていた。しかし、当の彼女の表情は憂いに満ちている。
「とうとう、この辺りまで“恐魔”が……」
自ら呟いた恐魔という単語に、思わず背筋が震えて自らの体を掻き抱く。今こうしている間にも、その名で呼ばれる存在が近づいているのかもしれないと思うと、不安で堪らない。
通常の生き物とはその在り方を異にする存在、特に生命を育み繁栄していくという自然の法則を冒涜するかのごとき存在を総称し、“魔”と呼ぶ。恐魔とは、その中でも特に危険とされる存在の1つだ。生きとし生ける者の恐れや怯え、即ち恐怖心を糧にして肥え、力をつけていく生命体。母の胎から生まれるのではなく、人々の恐れという心の闇と一体化した闇の中より発生し、そして自らの食糧たる恐怖心を湧き上がらせるためにあらゆる生き物を襲っていく。人々の恐怖より生まれ、人々を戦慄させるために生きる魔道の生物、それが恐魔だ。
そうとはいっても、ただ人々を襲うというのであれば野盗や猛獣と同じこと。それだけならばキャローラもここまで恐れたりはしない。何よりも厄介なのは、恐魔の恐怖心を喰らうという生態だ。恐魔は敵と相対している間でさえ、その敵が感じている恐れの感情を自らの肥やしとしている。恐魔の糧となった恐怖は、恐魔の力を強めるだけでなく、その傷さえも癒す働きをする。それは即ち、恐魔と戦う敵が恐魔に恐れを抱いている限り、恐魔は強くなり、たとえ傷つけられても勝手に回復してしまうということだ。
それは、恐魔を恐れる者は現実的に恐魔を倒すことができないということを意味している。そして、それならばほとんど全ての者が恐魔に対抗できないということになる。それはそうだ。生死を分ける戦場の空気の中、一体どうやって恐怖心なく敵と向き合えるというのか。恐怖心を感じず、どうやって戦えるというのか。だからこそ、恐魔は最も危険な魔と呼ばれていた。事実、恐魔によって滅ぼされた国は数知れない。否、現在滅ぼされようとしている国こそ数多いのだ。
そして、それはキャローラが住むこの国、“ウィストフォート共和国”もそうだった。以前から国の東側に恐魔が出没していたことは知っていた。しかし、最近になってとうとう国の西寄りに位置するここ、“ミラディーア寺院”の周辺まで現れるようになったのだという。多くの国を滅ぼした怪物たちが、自分たちのすぐ傍まで迫っている。14歳になったばかりのキャローラにとって、その恐怖は耐えがたいものだった。
「“アルティミア”の大地を創り給いし、古の神々よ。どうか、我らをお守りください……」
胸の前で両手を握り合わせ、自らの宗教で崇拝する神々へ祈りを捧げる。かつてこの世界を創りだしたとされる神々は、しかし少女の祈りに何のいらえも返すことはなかった。
~続く~
以上、今回はここまでです。
主人公はこの通り、普段は周囲と普通の学生やってるけど、実はちょっと(かなり?)危ないタイプのキャラクター。ものの考え方自体は正常なのに、恐怖心という一部の感情のみ欠落している状態です。
一方、後半のヒロインがいるのは月にリングがあるとおり地球ではない場所。今回は主人公来訪までいきませんでしたが、次回はちゃんといく予定です。
2012/10/31 加筆修正
2013/07/22 加筆修正