timeⅠ
かつて、向こうの世界で生きていた頃。血の繋がった、けれど無能な姉様は言った。どうして政治家など目指すのかと。あなたのその夢は、ベルフレイン家の女として異端でしかないと、蔑んだ目で言った姉様に―――簡単なことよとあたしは答えた。
人の上に立ちたいから。社会を変えたいから。――……もちろんそれもあるけれど、あたしはあたしの思う通りに、この世界を動かしてみたいの。
夢を誇り笑ったあたしは、その時確かに世界の中心に立っていた。
ビューティフル ワールド
(それでも世界は、今日も変わらず美しい)
緊張と、緩和。空間全体に意識を張り巡らせながら、その二つの動作を交互に続ける。たったそれだけのことなんだけど、これがなかなかにキツい。冷えてきた汗が背中に垂れて鬱陶しくて、あたしは静かに眉をよせた。
目に見えて練習の成果が見える――つまり物質、固体で、伸縮性のあるものとなると結構限られる。あたしが今使っているのは何の変哲もないピンクのゴムボールで、それが空中に微動だにせず浮かんで伸縮しているのは、ヴァルド曰わく“気持ちが悪い”らしい。我ながら地味な練習法だとは思うけれど、そこまで毛嫌いすることもないだろうに。と考えると同時、パアンと軽い音がして、思わず身体が震える。
「あーあ…」
練習用のものを壊してしまうのは、これで通算三回目だ。扱う範囲の広い空間操作能力は、ほんの一瞬の油断や気の緩みが命取り。余計なことを考えていたせいで、貴重な特注品を破壊してしまった。
見事にバラバラになったピンクを眺めてため息を吐く。とりあえず掃除しないと。散らばったゴミを浮かせて宙に集め小さなボール状にする。そのまま基本の応用で――空間を連続的に爆散させることで空気の流れをつくって動かしてる――ゴミ箱まで運んで、シュート。
きれいな弧を描いた球が音もなく屑籠に吸い込まれたのを見届けてから、あたしは部屋から踵を返した。
*
「どうなってるのよ…!」
イライラと呟いて、窓の向こうを睨みつける。ガリ、と何かを噛みしめる感触に爪を噛んでしまっていたと気付いて、あたしは右手を引っ込めた。いつも母様にこの癖をみっともないから止めろと言われていたことと同時に逃れられない現状を思い出して、また爪を噛みそうになるけれど、何とか耐える。
―――異世界から召喚した、魔王。
そんな馬鹿げたふれこみで、けれど実際異境の地に飛ばされて、今日で3日がたった。らしい。……というのもあたしにはそんな実感がまるでなくて、夢なんじゃないかと思いたいし思いそうになるからなんだけど。ちょっと目を閉じたら、誰かに呼ばれた気がして振り向いた、あの日あの瞬間、父様の仕事の都合で参加する予定だったパーティーの会場にまだいるんじゃないかと、そう錯覚しているのだ。
―――そんなものは現実逃避でしかないことは、もちろんもう分かってる。
気付けば、着の身着のまま見知らぬ場所――たぶん王宮の大広間だろうか――の魔法陣の上、巨大な鏡の前に立っていた。呆然とした後、掛けられる理解不能な言語に半狂乱になって暴れた一日目。塔の一室を自室として与えられ、拘束されていたわけでもないから、逃亡を図りあっけなく捕まった二日目。鎖を掛けられ、これまで見聞きした様々なこと、そして一体自分の身に何が起きたのかについて、考察を繰り返している――今日で、三日目。
やっぱりここは異世界なのだと、そこはすぐに理解した。窓から見える、空を飛ぶ見たこともない生物。あたしを捕まえるのに使われていた、科学も何もあったもんじゃない技術の数々。
圧倒的な力の差を目にしてまた暴れるほど馬鹿ではないから、せめてきちんと説明してほしかった。自分一人でこんなことを考え続けても、全く埒があかない。
どうしたものかとため息を吐くと、昨日から現在――夕方ごろまで開くことのなかったドアが、ギイ、と音をたててわずかに開いた。
「……誰?」
眉を寄せて尋ねると、扉が完全に開いて外から人が入ってくる。くすんだ淡い金髪にオレンジ色の瞳、見た目だと中学生くらいに見える。今は正面を向いているから分からないけど、多くのここの住人と同じように、その背中にはきっと翼が生えているのだろう。
「あ、え、と……、ぼ、僕、シンダイさまのお世話を仰せつかった、レノイ・グリフィードと申します。あの、えぇと、」
おどおどした仕草でそれだけ言って、彼、だろうか、は、赤くなって俯いてしまった。極度の赤面症かと考えるが、その前に気になったことを先に尋ねることにする。……質問責めにしようかとも思っていたけど、予想外に下っ端っぽい人が来たから気が変わった。
「よろしく、えぇと…、」
「あ…、シンダイ様のお好きなようにお呼び下さい」
「ありがとう。それじゃあレノ、まずその“シンダイ様”っていうのは何?」
「え、あ、これは、言葉通り、“新たな代の”魔王様という意味なのですが……、あの、お嫌でしたか?」
下から窺うようにこちらを見てくるレノ。あたしは女にしては長身だし、レノは160半ばくらいしか無さそうだから仕方がない。それにしても、もっと他に聞くことはあるはずなのにと思ったけれど、それはいずれ責任者が話をしてくれるはずだと自己完結する。自分で思っていたよりは、落ちついているらしい。
「そうね、あたしの名前は“新代”なんかじゃないもの。――あたしは由羅。由羅・V・ベルフレイン、よ」
「ユラ様…」
「そう」
本当は様、なんていうのもいらないけど、レノはそう立場が高いわけでもなさそうだし、そうは行かないだろう。頷いて微笑むと、レノは顔に朱を散らした。
「ゆ、ユラ様は、とてもお綺麗ですね」
大人っぽくて羨ましいです、とキラキラした瞳ではにかむレノの目は純粋で。何だか毒気を抜かれてホッとする。レノのような鈍くさそうなタイプは、正直苦手だったはずなのだけど。
「羨ましい?」
「はい、僕は子供っぽく見られることが多くて……。もう16で、立派な大人なのですけど」
「……16?」
「はい。……ユラ様?」
思わず口元に手をやった。だって、そんな。こんなに童顔で、背が小さくて、純粋そうで、どう見ても童て……それで同い年?
「ごめんなさい…。あの、てっきり12、3歳ぐらいだと」
「え、あ……。し、仕方ないですよ、お気になさらないで下さい……。」
………落ち込んでる。目に見えて分かりやすく落ち込んでる。16ってことはあたしと同い年ねと呟くと、レノはかなりショックを受けていた。あたしは逆に、普通にお酒を勧められたりもしょっちゅうだし。それも困りものなのよ?
「声変わりもしていない16って……。にわかには信じられないわ」
「ううぅ…。あ、ユラ様、そろそろ、あの、お時間ですので」
行きましょうか、と、壁に埋め込まれた時計をちらりと見た後、まだ涙目のレノが扉に向かう。大人しくついて行ったあたしに扉を内側から開くと、レノは恭しくお辞儀した。ここからは職務を全うする、ということだろうか。
「……どこに行くの?」
「謁見の間です。そこで宰相殿が待っておられます」
扉を出て長い廊下を見渡しながら尋ねると、しっかりした、予想通りの答えが返ってきた。つまり、この世界のこと――魔王だなんだという話を、詳しく説明するということだろう。それをするのが魔王本人ではないのが多少不満だが、まぁいい。
赤いベルベットの絨毯を爪先で軽く蹴りながら、部屋に鍵をかけるレノをぼんやりと眺める。近寄ってきてあたしの手錠の鍵を外すと、痛くないですか、と尋ねてきたレノに普通に返事をしようとして、今更な疑問が浮かんだ。
「なぁんで、言葉が通じてるのかしらね…」
「ユラ様?あの、手は…?」
「あぁ、大丈夫よ」
頷くと、心配そうに眉を垂れ下げていたレノはホッと笑って、では行きましょうかとあたしの手を取った。……すぐに離れたけれど、意外にも豆やタコの出来た手の平から察するに、もしかするとレノは実は相当な手練れなのかもしれない。昨日逃亡を図ったというのに手錠を外されていることを考えても。……童顔だけど。
キョロキョロ、とまではいかずとも辺りをゆったり見渡すと、意外と質素な誂え。もちろん地味な訳ではないし日本は王権国家じゃないから王宮の普通なんて知らないけれど、教科書で見たような豪華絢爛で金銀ダイヤがふんだんにあしらわれてる、みたいな鼻につく豪華さはない。それでも隅々まで手入れが行き届いている廊下は、好感が持てた。
「昨日は、じっくり見なかったものね…」
自嘲気味に呟くと、聞こえていなかったのかレノの着きましたよ、という明るい声がした。
「随分近いのね」
「はい。ユラ様の部屋は客室ですので、必然的に」
「なるほど」
「……では、僕はここで」
どことなく名残惜しそうに礼をした彼が、去っていく前に。あたしは咄嗟にその服の裾を掴んだ。
「…ユラ様?」
戸惑った表情を浮かべるレノはそれでも、どうされましたかと優しい声であたしの手をそっと握った。あぁ、いい子だ。そんな仕草に一瞬ぐっと詰まって、だけどあたしは出来る限り平坦な口調で続ける。
「――…レノ、あたしは魔王にはなりたくない、と思ってる」
「ユラ、様……」
「あなた達が何者かもまだ分からない、ここがどこかも分からないし、魔王っていうのがどういう存在なのかも知らない。だけどあたしは、絶対君臨者じゃなくて、ずうっと……為政者になりたかったの」
「………」
「そのためなら何でもするし、その考えを曲げるつもりもない。多分、あなた達の願いは受け入れられない。どうやっても、あたしは元の世界に必ず帰る。……だから、殺されるかもしれない」
苦く笑ったあたしの言葉に、レノが大きく目を見開く。元々くりくりと大きな目が見開かれてますます大きくなって、なんだかおかしかった。
王様だの宰相だの、ここは中世ヨーロッパに似ている。だからきっと、魔王をやるつもりはないと断言するあたしは――厄介者は、殺されるだろう。あたしだってそうする。わざわざ呼んだあたしの希少価値がこの世界でどれだけのものかは分からないが、末路は多分そんなものだ。
「ユラ様、そんな、そんなことは……、」
「だからね、レノ。あたしのことを、お願いだから忘れないで。あたしのことを誰も知らない世界で死ぬなら、あなただけはあたしのことを知っていて」
慌てたように言うレノの言葉を遮って、あたしはきっぱりと言い切った。
残酷な願いだと、分かっている。大して仲良くなった訳でもない人間にそんなことを言われて、まともな神経をした人間なら一生罪の意識に苛まれるだろう。自分があたしを見殺しにしたと、思って苦しんでも仕方がない。だけどそれでも、あたしは。誰かに、“あたし”を知る人間に、あたしが死んだことを覚えていて欲しいのだ。
――なんて、まだ死ぬと決まった訳でもないのに悲観が過ぎるかと首を振り、重厚な扉のドアノブに手をかけて、開く。小さく息をついて後ろを振り返ると、固まったままのレノを見つめて、微笑んだ。
「じゃあね」
ギイイと不気味な音を立てて、扉はゆっくりと閉まっていった。