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蟲夢  作者: めけめけ
終章
20/23

やつらはいつでもやってくる

 その年の6月、私と妻、子供たち4人の暮らすアパートでちょっした事件が起きた。


「パパー! 大変! ベランダに毛虫が!」

 妻が血相を変えて私の書斎――私は書斎と呼んでいるが、リビングの片隅に本棚とパソコンラックに囲まれた1畳半ほどのスペース――に駆け込んできた。


「毛虫の一匹や二匹どうってことないだろう」

「それが、一匹や二匹じゃないのよ。早く来て! 洗濯物が大変よ!」


 めったなことでは騒ぎ立てない妻は、小さな虫くらいなら自分で対処する。母親というのは強いものである。

 私はベランダに出て妻の指差すほうを見て驚愕した。ベランダの物干し竿に10匹ほどの毛虫がたかっている。大きさは二センチから三センチ。短い灰色の毛で覆われたそれは、チャドクガの幼虫に違いなかった。

 周りをよく見渡すと、それはそこだけにいるわけではなかった。隣の部屋との仕切り板や足元、手すりに至るまで、ありとあらゆるところに毛虫の塊があるのである。おそらくベランダだけで三十匹はいるのではないか。


 ここはアパートの一階。ベランダの二メートル先に植え込みがあり、そこに椿の木が三メートル間隔で植えてある。よくみると椿の葉っぱはすっかりやつらに食い荒らされていた。食べるものがなくなって、こちら側に移動してきたというわけか。


「ちぃっ! やつらここまで……」

「早く何とかしてよー。気味が悪いわぁ」

「ああ、そうだな。でも、こいつは厄介だぞ。やつらには毒があってしかも屍骸の毛が風で飛んでも、皮膚がかゆくなったりするんだ」

「えぇ、そうなのぉ。じゃぁ、どうするのよ」

「管理会社に電話しよう。素人が手を出しても仕方がない」

「洗濯物は?」

「仕方ないよ。しばらく部屋の中に干すしかないな。それより、子供たちは?」

「子供たちなら公園に遊びにいったはずよ」

「絶対に触らせないように。それとさっき言ったように退治しようなんて思っちゃいけない。いいね」

「わかったわ。子供たちの様子を見に行ってくるから、洗濯物取り込んでおいて」

「ああ」


 妻が出かける支度をしている間に、洗濯物を取り込む。戸締りをしっかりと確認した頃、玄関先から妻の悲鳴が聞こえた。


「やだー! こっちも大変よ!」

 すぐさま玄関に出てみると、渡り廊下の壁や天井のところどころに毛虫がたかっていた。数はまだ少ない。そう。玄関の先にも植え込みがある。そこの椿は見るも無残な姿になっていた。


「子供たちを、早く」

「わかったわ」


 私はやつらと対峙した。


「ついにここまできたか。まったくしつこい奴らだ」


 妻には黙っていたが、実はこのアパートに引っ越す前にも同じことがあったのだ。結婚して1年、子供も欲しいからと私が一人暮らしをしていた狭いアパートから今のアパートに引っ越す直前、やつらはやってきた。そのときはこちらが引っ越すのが早かった。こんなことが十年周期くらいで起きているのだが、偶然にも私の引越しのタイミングと重なり、難を逃れていた。しかし――


 もう、逃げるわけにはいかないな


 私は覚悟を決めた。今夜、おそらくやつらはやってくる。

 私はもう一度戦わなければならない。

 もしかしたらそれは絶望的な戦いなのかもしれない。


 4月に母校が建て壊されることを知った私は、妙な胸騒ぎを感じ、卒業アルバムの名簿から、どうにかあのときの仲間――S夫、U治、G朗の消息は意外にもあっさりと知ることができた。そして、私は愕然とした。


「私は、死ぬわけには行かない。家族を守らなければならない」

 S夫は交通事故、U治は肺をわずらい、闘病生活の末に昨年亡なくなったそうだ。G朗は転落事故だという話と自殺だという話を聞いた。すべてK山からの情報だ。K山は地元で親の酒屋を継ぎ、コンビニエンスストアのオーナーになっていた。


「絶対触っちゃだめだからね」

 どうやら妻と子供たちが帰ってきたようだ。

「怖い~」

 娘がおびえている。

「キモい~」

 息子は怖いもの見たさで毛虫に近づいてみたものの、あまりのグロテスクさに鳥肌が立っているのがわかる。


「いいかい。絶対に触らないこと、近づかないこと、そして殺したりしないこと。いいね」

「わかった。でも、どうするの」

「大丈夫、ちゃんと駆除してくれるよ。それに――」


「いやっ、蜂もいる」

 妻が蜂に驚く。

「あの蜂は毛虫を退治してくれるんだ。チャドクガは鳥も好んで食べないらしいけど、アシナガバチは、天敵なんだよ」

「へぇー、パパ詳しいんだね」

「じゃあ、部屋に入りなさい。きちんと戸締りをして、今夜は早く寝るんだ。いいね」

「うん」


 その夜、子供たちを寝かしつけ、妻と夏休みにどこに出かけるか、いつごろ休みが取れるのか、そんな話をしたあと、床についた。


 子供たちの寝息、妻の横顔。


 私はまっすぐ天井を見つめる。

 冷蔵庫がうなる。

 時計の音が耳元にあるかのようにはっきりと聞こえる。

 キーンと金属音のような音とも振動とも区別のつかない音が聞こえ出す。


「来る……」


 時間の感覚、空間、重さ、すべてがでたらめに感じる。


「私は、もう逃げない」


 やがて天井に小さな黒いシミのようなものが現れた。


「黄色と黒の縞々でブーンと音がする羽。三角の頭、鋭いキバ、長い足。目は、目は、大きくて……、長い触角」


 不意に私の皮膚の下から、何かぞわぞわとしたものがうごめきだす。

「な、なに、やつら、私の中に……」

 絶えられない痒みが体全体を襲う。私はそれでもイメージすることをあきらめない。


「黄色と黒の縞々でブーンと音がする羽。三角の頭、鋭いキバ、長い足。目は、目は、大きくて……、長い触角」


 ブーーーン、ブーーーン


 たくさんの羽音があちこちで聞こえる。蜂たちは私の腕に止まり、鋭い牙で私の皮膚を食い破り、その中から黒くうごめくものと引きずり出す。


 ヤメロー、ヤメロー


 ユルサン、ユルサン


 ゴメンナサイ、ゴメンナサイ


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