兆し
その日の朝、ボクはタオルケットにぐるぐる巻きになって、汗をびっしょりかいて目を覚ました。具合でも悪いのかという両親の心配をよそに、ボクは悪夢のことをずっと考えていた。
「なんでもない」
そう応えるしかなかった。教室に入るとU治は相変わらずマンガのキャラクターのモノマネをして陽気に振舞っている。
「グワシ!」
S夫は家の近くでボール遊びをしているときに、通りかかった車にボールを惹かれてしまい、ペシャンコにされたらしい。G朗はそんなS夫に向かって、「うそだー、どうせどっかになくしちゃたんだろう」とからかっている。
もう、終わったのだろうか?
その日、ボクらはいつもの公園に遊びにいった。今度はG朗のボールでこの前の続きを始めた。
最初、陰鬱な気分だったけど、遊んでいるうちに、なんだかすべて終わったような気がしていた。だけど、ボールが前と同じように散策路の方に転がると、ボクは茂みの中に入る気にはなれなかった。
なれなかったけど、ボールを投げたのはボクだった。
「取りに行けよー」
G朗が意地悪い言い方でボクをにらみつける。ボクは仕方がなく、散策路へ入っていった。ボクの不運はどうやらまだ続いているらしい。散策路の茂みの奥に、ヤマンバがボールを持って立っていた。
ヤマンバはたぶん、『アー、アー』と言ったのだと思うけど、『アー、アー』と言いたかったのかはわからない。
ヤマンバは、ボールを下手で投げるような素振りをするが、その動作と『アー、アー』と聞き取りにくい声を揚げるだけでボールを投げはしない。
投げられないのか?
ボクは恐る恐るヤマンバのほうに近づいた。
そのときだった。ボクの目の前をブーンと音を立てながら、黄色と黒の縞々模様――蜂が横切った。ボクは驚いて、後ろに飛びよけた。
「大丈夫さね」
ヤマンバがかろうじてそう聞き取れるような、喉に何かが絡まるような枯れた声で言ったのが聞こえた。
「え?」
聞こえたが、意味を理解できなかった。
「刺しはしないよ、ほれ、よー見てみ」
ヤマンバの視線の先にはツバキの木があり、その一部はチャドクガの幼虫によって食害されていた。それはまるで、ボクの心のようにボロボロに食い荒らされていた。近くに行かなくても解る。
――あそこには近づきたくない。ヤツらはボクの存在に気がつきながらも、もうボクに用はないという風なフリで目の前の獲物を食い漁っているにちがいない。
「アシナガよぉ」
ヤマンバのしゃがれた声も、ボクの耳にだんだんと慣れてきたようだ。
アシナガバチはツバキの周りを旋回し、食事に夢中になっているチャドクガの幼虫をがっしりと抱え込み、大きな羽音を立てながら、茂みの中に消えていった。ほんの一瞬の出来事である。
「蜂はなぁ、あーやって、毛虫を退治してくれる。なーんも、こええことはねーんだ」
毛虫を……退治してくれる?
「ホレ」
ボクはヤマンバがボールを直接手渡したいのだと気づいた。
――たぶん、そうだったのだ。ボクはすっかりその場の雰囲気に飲み込まれてしまった。
これまでのヤマンバに対するそれこそ奇人や変人を見るような色眼鏡はすっかり消えてなくなっていた。
でもきっと、どこかおっかなびっくりな様子だったに違いない。ボクはヤマンバのしわくちゃな手からボールを受け取った。
「ありがとうございます」
決して笑顔ではなかっただろう。けど、ボクは素直にその言葉を口にできた。
ヤマンバは振り向いて、しゃがみこみ、後ろにあった木の根あたりをスコップで掘り始めた。
ヤマンバの背中越しに覗いてみると、そこには禍々しい色をしたキノコが生えていた。
ヤマンバは園芸用のスコップでそのキノコを土ごと掘り出し、前掛けのポケットから取り出したビニール袋の中に入れ始めた。
「それ、どーするんですか?」
ボクはK山が言っていたことを思い出していた。まさかこれ食べるのか?
それとも……?
「これはな、これは、口にしたらエライことになるキノコじゃ」
つまり毒キノコ?
「いたずら坊主に見つかる前に、こうして採っておかないと危ねーからよ」
「えっ、じゃーこれ、毒キノコ?」
「まぁ、そんなもんだ。だからよ、めったに触るんじゃねーぞ。わかったけ?」
「はい。あのぉ……さっきの蜂の話なんですけど……」
ボクは蜂が毛虫を食べるなんて知らなかった。
「アン? 蜂? アー、アー、面白いもん見せてやっから」
ヤマンバは立ち上がってさっき蜂がチャドクガの幼虫を捕食したツバキの方に歩いていった。ボクはそこには近づきたくはなかったけど、ヤマンバが手招きをするので、しかたなく近づいた。
ヤマンバは、チャドクガの幼虫に侵食されたツバキの葉の中から一枚の葉を指差した。
「ほれ、こいつの背中、綿簿っ子がついているだろ」
綿簿っ子?
ヤマンバに言われた葉を見ると、そこにはチャドクガの幼虫が数匹ツバキの葉を食べていたが、そのうちの何匹かは背中に小さな白い綿がいくつもついていた。
「この綿はなぁ、蜂の卵さね」
「蜂の卵?」
「さっきのアシナガバチはそのまま毛虫を団子みてぇにして、蜂の巣にもっていくけどよ、なかには幼虫に直接卵さ植えつけちまうのもいるのさねぇ」
そういえば聞いたことがある。昆虫好きのG朗が、ハエの中には他の生き物――種類によっては人間の皮膚や眼球に卵を植えつけるヤツがいると。
「ボールあったか?」
G朗の声がする。
「あのぉ……ありがとうございました!」
ボクは、深々と頭を下げると、みんなのところへ駆け出した。ボクの足取りは、すっかり軽くなっていた。