蟲
夜になれば、電気を消して寝なければならない。
今日は・なんか・怖いから・嫌な・感じが・するから……。
だから電気をつけたままで、テレビをつけたままで――子供の頃は『そういうことができるようになることが大人になることだ』と思っていた。子供が見ている大人の自由、特権というのは、とても些細でささやかなことなのだ。
夜はいつものように訪れて、いつものように更けていく。絶対的な時間的観念はこの際問題ではない。
電気を消し、静まり返ったこの空間――そこでは一分が一〇分に感じられ時間の流れが歪んでしまう。
そして暗闇の中に息を潜めるしかない孤独。
母の寝息も、弟の蚊に刺された跡を掻き毟る音も、腰痛に悩む父の湿布の匂いも――すべてボクとは関係のない世界――すぐ手に届く距離なのに、すぐ聞こえる距離なのに、匂いがする距離なのに、ボクだけ別の時間軸の中に閉じ込められているような感覚……。
昨日は藤模様のタオルケットを頭から被って寝ることができた。ささやかな抵抗だけど、それしかなかった。
タオルケットの中は、ボクの体温で暖められ、モワッとした湿気に包まれていた。やや息苦しいが、昨日の夜体験したことを、二日も続けて味会うつもりはないし、実際、この方法で対処できたのだから。
時計の音はタオルケット越しにかなり鈍くなっているし、冷蔵庫の唸る音も、タオルケットが吸収し、遮断してくれている。大丈夫、ここなら安全だ。ボクはおよそ一時間――もしかしたら五分~一〇分なのかもしれないが今となっては確認する術はない。
ボクは、闇に耐え、恐怖に耐えていた。
しかしボクの心は、ここがどんなに安全な場所だとわかっていても、どこかザラザラとした、言い知れぬ不安に覆われていた。
こんなものじゃない、だって、怖い映画では、これで大丈夫だって思った時が一番危ないじゃないか!
ボクの頭の中では、恐怖に耐えかねて、タオルケットから様子を伺おうと顔を出した瞬間に、天井からボクの顔をめがけて堕ちてくる黒い小さな物体――それはボクの顔に近づくにつれて、輪郭がはっきりし、間違いなく毛虫だとわかったときには、ボクは避けきれずにボクのおでこのあたりに落ちてくることを何度も想像した。
そしてそのイメージは見る見るうちにボクの中で膨れ上がり、ボクは毛虫が額に一度堕ちて、跳ね上がることもなく、ペタッと額にへばりつき、ボクの鼻に向かって這い始める感覚を繰り返し再現していた。
何度も何度も……、何回も何回も……。
恐怖の妄想を繰り返すうちに、ボクは額から鼻にかけてむずがゆい感覚に襲われ始め、本当に毛虫がボクの額の上を這い回っているという錯覚を確かに認識していた。
……ダメだ! 考えちゃダメだ!
ボクは両手を顔にうずめ、このいまいましい想像、幻覚、錯覚を振り払おうと顔をこすり上げた。そこには当然に何もありはしない――でも確かめずにはいられない。
何度も何度も……、何回も何回も……。
やがて顔中のむず痒さがやわらいでくる。しかし『それ』は、消えたわけではない。
ボクは『それ』がタオルケットの上を、頭から足のほうへ移動するさまを想像していた。
無数の『それ』は次から次へと天井からタオルケットめがけて……。
『ポタ、ポタ、ポタ』と堕ちていき、タオルケットと布団の隙間をさがして上に下に徘徊する。
毛虫は時々頭を少しだけもたげて、お互いの位置を確認しあうようなしぐさをしている。まるで無機質なコミュニケーションを取っているようだ。
ソッチ ハ ドウダ?
コッチ ハ ダメダ
アタマ ノ ホウハ ガード ガ カタイ
アシ ノ ホウハ スキマ ガ アルカ?
ワカッタ カクニンスル
ボクの全身はすっかり鳥肌が立ち、体中の毛穴が開いては閉じ、汗が噴出してきた。
その汗はやがて重力に耐え切れず、ボクの肌の上を滑り落ちていく。それははまるで、ヤツらがボクの皮膚の上を徘徊しているような感覚。
ボクはもう、限界だった。
ボクが恐怖に怯えれば怯えるほどに、恐怖に対する感覚は敏感になり、ボクは全身で恐怖を感じていた。
身を震わせながら、自分の肌を滑り落ちる汗にも、もはや飛び上がるような状態である。
『いけない』と思いながらも体が反応して、右足がタオルケットの足元か出てしまった!
ヤバい……、ヤバい……、ヤバい……。
ボクは意識を全て右足に集中し、できるだけソーッと、そしてできるだけ早く、タオルケットの中にしまおうと試みた。が、それは無駄だった。ボクのアシはすっかり汗ばんでしまい、汗でびしょびしょになった足はタオルケットをそのまま捲り上げてしまうのである。
イヤだ、イヤだ、イヤだ!
ヤツらはのろまだ!
のろまだけど確実に少しずつ、少しずつ、ボクの足元へ向かっていく。ボクには毛虫の目が無機質な表情から真っ赤に染め上がり、砂漠を走る戦車のように失踪する様を思い浮かべる。思い浮かべながらもボクはそれを否定し続けた。
ちがう。毛虫に目なんてあるものか!
毛虫に目はない!
毛虫に目はない!
ミセテ ヤロウ
ミセテ ヤロウ
ミセテ ヤロウ
それは音声ではなくて、ボクの意識の中に直接働きかけてくる声というよりは振動、或いは波動のようなもので、耳の奥というよりもアタマの天辺から骨を伝わってくるような『響き』である。
見ない、見ない、見ない。
ボクは足をばたばたさせながら、なんとかタオルケットの中に右足を入れようと必死になった。
そしてそれは成功した。右足でまくられたタオルケットを左足の親指に引っ掛けて思いっきり下のほうへ足を伸ばした。
必然――それは、そう必然。ボクのアタマは、タオルケットから顔を出し、力いっぱいつぶっていたボクの両目は、あまりの急な出来事に、思わず目を開けてしまった。
ボクは見た……。
ボクは見たのだ……。
ボクは見てしまったのだ……。
天井の闇――『闇』なんてあるはずがない
そこには天井があるはずで、闇があるはずはない
そこには天井があるはずで、『動いて』なんかいるはずがない
でもなにかが動いている
わさわさと
わさわさと
ボクは慌てて両手でタオルケットを掴み、頭から被り直そうとした。でも、ボクが掴んだものは――。
ああ、そう、そうなのだ。藤模様のタオルケットの端はタオル生地のふわっとした感触をつかむはずの手は、なにかすごくいやな感触で覆われていた。
ぐにゅじゅうわぁ!けっ けっ けぇー!
ボクの全身は、わさわさと……わさわとざわめきたち、そのざわめきに呼応するように、天井に無数の赤い光が点滅して見えた。
ヤツら……、ボクを……。見てるんだ……。
こんなの現実じゃない!
悪い夢に決まっている!
そう、夢だから、夢だから!
ボクは父や母、弟や妹が寝ているはずの場所に視線を移した。そこにはタオルケットから……『頭?』がでている。横たわる……『人の姿?』が確かにあった。しかし、髪の毛に見えたそれは、わさわさと蠢いていたし、タオルケットの中身も人の形の塊ではあるが、やはり中で何かが蠢いている。
ほらみろ!こんな現実離れした世界はありやしない。これは悪い夢なのだから。しかし、現実か夢かという問題は事態の解決策とはならない。
現に、ボクは、怖いのだ。