暗転
「今日の買い物の帰りにいつもの通りを通ってきたけど、毛虫がいっぱいいたわよ、きもちわるい。自転車で踏んづけちゃったわよ」
ボクは、ドキッとした。
――また毛虫なのか!
「殺虫剤まかないとあれに、刺されるとかゆくなったりするんでしょう?学校は大丈夫?」
ボクはテレビをみて聞こえないふりをしようと思ったけど、弟は本当にテレビに夢中で、話をきいていないようだったし、無視するのも変だと思い「裏にはでるらしいけど、行くこと無いから……」とテレビの方を見ながら、できるだけ自然に応えようとした。が、どうやら失敗したのかもしれない。
「え?」
母はボクの顔をまじまじと見ている。ボクは必死で考えた。なんか変なこと言ってしまったのか……、それとも仕草か。
「うん?」
ボクは結局、変に取り繕うよりも、知らない顔を決め付けるほうがいいと思い、何故『え?』なのかわからない『うん?』を返したつもりだった。
母からすれば、感心がなければ『うん?』あっても『うん』か『知らない』か『ううん』か……。
まともな会話が帰ってくることを予測してなかったか、テレビの音でボクの返事が聞き取れなかったのだろうか?
「気をつけなさいよ、刺されると痛いんだから」
「うん」
ボクはテレビをみていたけど、その内容は全く頭にはいっていなかった。父は夕刊を眺めながら、その会話にはまったく感心がないようだったが、「あー、そういえば、この辺でも毛虫をよくみるなぁ」
ボクは必死で聞こえないふりをした――いったいどうなってるんだ!
ボクは、ご飯を口にかき込んで、「おかわり」と茶碗を母に差し出すことで平静を装おうとした。が、しかし、ボクはたぶん、始めてこのタイミングでお椀を手からすべり落としてしまった。
ガシャン!
お椀は、割れなかったけど、空気を壊すには十分な音だった。
「なによー? よそ見してるからでしょう?」
母に叱られた。
父はボクをにらんでいる。
「テレビ消しなさい」
「えーー。もーーうぅ」
弟は兄貴がいけないのだという抗議のまなざしでボクをにらみつけた。
ボクは……、ボクは……、本当に泣き出してしまいそうになるのを必死にこらえて、こらえて『ほら!』と母がご飯をいれて差し出したお椀を受取り、黙々と食事を続けた。
本当は食べたくなんかなかった。一膳しか食べないで、「どうしたの?」と聞かれるのがイヤだっただけなのに……。
今にして思えば、明らかにボクの様子がおかしいと、母は気づいていたに違いない。しかし、あの時のボクは、一人ぼっちだった。
そして、ボクはただ、ただ、怯えるだけだった。
これほどまでに最悪な日はないと思った。
実際それは間違いで、このあとにはいくらでも悪いことはおきている。人生40年も生きていれば当たり前だ。
でも、小学校5年生のボクには、これほどまで悪いことが続く日はなかった。気まずいままに、夕飯をすませ、テレビをみながらもボクはガムテープのことが気になって仕方がなかった。机の引き出しの中を親が見るようなことは、年に何度もあることではないし、あったからといって、「それ、どうしたの?」と問い詰められることもないように思えた。
だけど今日は特別な日――最悪だ。
そういうことが起きてもおかしくない。でもだからといって、今更隠し場所をかえることもできない。なんでもっと他の場所にしなかったのだろう。そもそもあんなところにやつが、毛虫がいなければ……。
ボクの家にはお風呂はなかった。銭湯に行くか、会社の入浴施設を使うか。
このローテーションに関しては、特に法則があったわけではなかったと思う。そうだ、このことは父が健在のうちに聞いておこう。
ボクは工場の入浴施設が嫌いだった。銭湯に行けば友達に会うこともあるし、コーヒー牛乳が飲める。工場のお風呂はどこか不気味だった。別に工場のお風呂で何かを見たり、聴いたりしたことはないけど、頭を洗っているとき、背後に何かの気配を感じて怖くなることは、銭湯ではなかった。
でも、銭湯への行き帰り、不気味な建物の前を通るのはイヤだった。工場の入浴所に行くためには、工場の敷地内を歩いて奥のほうにいくのだが、誰もいなくなった無機質な工場の敷地内には、何か得体の知れないものが、闇にまぎれて徘徊しているにちがいないと、ボクはそんな風に考えていた。
でなけりゃ、なんで、もり塩なんてしておくんだ。
でなけりゃ。なんで。稲荷なんて祭っているんだ。
この日、ボクはお風呂に行きたいと思わなかった。誰がすき好んで『怖い』と思うところに、しかもこんな最悪の日に行くものか!
しかし、ボクがどう思おうと、それはボクの自由になることではなかった。
家族でお風呂に入ることを拒否したことは何度かあったけど、それは低学年の頃の話――さすがに五年生になってからは、そんな態度を取ったことがなかった。
ボクはなるべく暗がりに目をくれずに、下を向きながらお風呂へ向かった。
こんな日は、それこそ、変なものを見てしまうかもしれない。
何かのテレビ番組――夏によくやる心霊現象の特番で、霊能者が言っていた。世の中には幽霊を見やすい人とそうでない人がいて、だいたい子供の頃に一度みたら、二度、三度と見ることになるけど、それがない人は見ることはない。
ボクは霊能者の言うことをまるまる信じるような子供ではなかった。
が、しかし彼らが言う、ボクにとって都合のいいこと――もし、幽霊に付きまとわれたら、ちゃんと供養をすれば大丈夫とか、お寺に相談すれば大丈夫とか、金縛りに会いそうになったら、何でもいいから念仏を唱えると、怖いものを見ないですむとか、そういうことは興味があった。
だからボクも小学校を卒業するまでに幽霊を見なければ、霊体験をすることはないと信じていた。
そして、幽霊に出くわさないためには、幽霊が出そうなところに行かなければいいし、見なければいい。
だから、なんか不安になるときは、ボクは怖いと思う方向は見ないようにしていた。
誰にも気づかれないようにG朗やU治、特にS夫には絶対に気づかれないように細心の注意を払っていた。
S夫は、あれで、結構意地が悪いなのだ。
しかし、この日は、問題は幽霊ではなかったのだ。
幽霊を怖がって、下を向きながら歩いたばっかりに、前を向いていれば、気づかなかったはずの踏み潰された毛虫の姿を見てしまった。
ボクはもう、すっかり毛虫に取り付かれてしまっていた。
ボクは身震いをさせながら、工場の敷地内を小走りで進み、御風呂場にたどり着いた。
いつもと変わらない風景。
お風呂の窓には大きな蛾がべったりとくっ付いている。当たり前に風景にもかかわらす、ボクは奴らの視線を感じないわけにはいかなかった。
蟲たちの視線とざわめき――恐怖の夜の始まりだ。