婚約破棄のあと、初めての贈り物に失敗しました
「すみません。その本は、もう持っています」
青いリボンをほどいたガエル様がそう言った瞬間、私は、包みを差し出す前に戻りたくなった。
彼の膝の上には『百年前の王都案内』。今朝、本屋で買ってきたばかりの本だ。薄い灰色の表紙に、昔の王城と街並みが描かれている。
「そうでしたか。私ったら、先にお尋ねすればよかったのに」
声だけは明るくなった。そうする癖は、まだ抜けない。
喜んでもらえると思っていた。今日いらっしゃると知って、朝から何度も客間の時計を見た。包みを渡す言葉まで考えていたのに、肝心なところで失敗してしまった。
「でしたら、こちらは私が……」
「待ってください、マルゴ嬢。僕の言い方が悪かった」
引き取ろうと伸ばした私の手より先に、ガエル様が本を抱え直した。その慌て方に、余計に申し訳なくなる。
婚約を破棄してから、初めて誰かのために選んだ贈り物だった。
* * *
六週間前、私はまだ、レオン様と結婚するつもりでいた。
ラヴィル男爵家の娘である私と、オードベール子爵家のご長男。家同士で決めた婚約だったけれど、一年半前、初めて二人でお茶を飲んだ日には、彼の話を聞くのが嬉しかった。
彼がお茶に砂糖を二つ入れることを覚えていて、言われる前に砂糖壺を差し出した。そんなことにも、嬉しそうに笑ってくれた人だった。
誕生日に選んだのは、毛織の膝掛けだった。夜会帰りの馬車がひどく冷えたと、少し前に聞いていたからだ。軽くて暖かく、深い緑色も彼の好きな色だった。
ところが、友人たちを招いた小さな集まりで包みを開いたレオン様は、膝掛けを広げて笑った。
「これが誕生日の贈り物か? マルゴ、私はまだ祖父ほど年を取っていないぞ」
隣にいた方が吹き出した。レオン様はその笑い声に気をよくしたらしく、膝掛けを肩に掛け、わざと腰を曲げてみせた。
私は、指先から熱が引くのを感じた。お店で布の手触りを確かめた時も、包むリボンを選んだ時も、こんなふうに笑われるとは思っていなかった。
「夜の馬車で寒かったと、仰っていたので」
「だからといって、もう少し気の利いた品があるだろう。婚約者なら、私が友人に自慢できるようなものを選んでくれ」
笑うのをやめた人もいた。私はその人たちの顔を見たくなくて、レオン様だけを見上げた。
気に入らなかったのなら仕方がない。せめて後で、二人の時に言ってくれればよかった。それでも寂しかっただろうけれど、彼の友人まで一緒になって笑う必要などない。
「お好みに合わなかったなら、持って帰ります。でも、そのように笑いものにするのはやめてください。私は、あなたに喜んでほしくて選んだんです」
途中で声が震えた。それが恥ずかしくて、悔しくて、唇を噛みたくなったけれど、最後まで言った。
レオン様は膝掛けを椅子へ放った。
「冗談も通じないのか。私の誕生日に、そんな顔をして」
「今のは悲しかったです。笑えません」
彼の眉間にしわが寄った。いつもなら私が謝って、別の話をするところだった。せっかく会えた日に言い争いたくなくて、そうしてきた。
けれど、今日は椅子の上の贈り物を見るたび、また悲しくなった。私が黙れば、彼はこの先も、私が笑っていたと思うのだろうか。
「そんなに気が利かない妻なら要らない。婚約を破棄すると言えば、少しは考えるか?」
脅しの言葉のあとに、私の返事を待つ間があった。彼は、私が何を言うか分かっているような顔をしていた。
その顔を見て、やっと腹が立った。品を選び間違えたことより、私が泣きそうになっているのを知りながら、謝らせようとすることに。
「はい。婚約破棄をお受けします」
レオン様の口元から笑みが消えた。友人の一人が彼の名を呼んだけれど、私は続けた。
「あなたが寒くないといいと思っていました。でも、一緒にいる私が悲しくないかは、あなたにはどうでもいいのですね。そんな方の妻にはなれません」
「待て、本気にするな。皆の前で、私に恥をかかせるつもりか」
彼がこちらへ手を伸ばしたので、私は一歩退いた。
恥ずかしいのは嫌なのだ。この人にも、ちゃんと分かるのだ。そう思うと、涙より先に、はっきりした声が出た。
「私にも、恥ずかしい思いをさせないでほしかったです。父には、今日のことを私から話します」
椅子から膝掛けを取り、畳む余裕もないまま抱えた。レオン様は私の名を呼んだが、何を言えば引き止められるか分からないように、その先を続けなかった。
迎えの馬車に乗ってから、私は泣いた。彼に言い返せたからといって、好きだった頃の記憶まで消えはしなかった。あの人と幸せになれると思っていた自分が、悲しかった。
五日後、婚約は正式に解消された。
指輪を返した夜、母が私の部屋へ来て、寝つくまで一緒にいてくれた。次の縁談を急がなくていいと父にも言われ、私は初めて、結婚する相手がいなくなったことより、もうあの人の顔色を見なくてよいことに安堵した。
ただ、お店で誰かに似合いそうな品を見つけても、すぐに目をそらすようになった。自分が嬉しくなって選んだものを差し出すのが、怖かった。
* * *
ガエル様は、兄のシモンの友人だった。
婚約が解消されて二週間ほどたった頃、うちへお茶にいらした。以前も何度かお会いしていたけれど、私と二人で長く話したことはない。兄より一つ年上で、王都の役所にお勤めの、落ち着いた方という印象しかなかった。
その日は、昔の街並みを探して歩く趣味の話になった。
「古い絵に、獅子の飾りのある噴水が描かれていましてね。場所が分かったと思って、休日にわざわざ出かけたんです」
場所を聞いた私は、首を傾げた。そこは、よく知っている角だった。
「あのパン屋さんのところですか?」
「ええ。僕も毎朝、そこでパンを買っています。知らない街角を見つけたつもりで、いつもの店に着きました」
思わず笑うと、ガエル様も困ったように笑った。自分の間違いを話すのが、少しも嫌ではなさそうだった。
母がお茶を注ぎ足している間に、私はふと思い出した。
「でも、裏の路地に、獅子の顔だけありますよ。壁から突き出していて、口に植木鉢が載っています」
ガエル様が、持ち上げかけたカップを戻した。
「本当ですか。噴水の一部かもしれない。どんな顔でした?」
「ずいぶん不満そうでした。鼻の上まで葉っぱが垂れていましたから」
兄まで笑った。私は、それで話が終わると思ったのに、ガエル様は、どちら側の路地か、いつ見たのかと聞いてくださった。
おかげで、お茶が冷めるほど話した。私もあの獅子が気になっていたことを、その時になって思い出したのだった。
一週間後、兄と侍女にも付き合ってもらい、その路地を訪ねた。
ガエル様は迷わず一本手前を曲がり、行き止まりで立ち止まった。私が隣の通りだと教えると、彼は街の案内役を交代してほしいと真面目に頼んできた。
「私、獅子のところまでしか案内できませんよ」
「そこへ行きたいので、ぜひお願いします」
獅子は以前より大きな鉢を載せられていた。パン屋の奥さんに尋ねると、噴水を壊した時に先代が譲ってもらったものだという。ガエル様は絵の写しと見比べ、私へ向き直った。
「あなたに話してよかった。僕は正面の店ばかり見ていました」
そう言われると嬉しかった。私が知っていたことも嬉しかったけれど、彼が次々に気づいたことを話してくれるので、見慣れた路地が、来た時より面白く見えた。
帰り道、古い窓の残る店を見つけた。丸い窓の周囲だけ、石の色が違っている。皆を待たせては悪いと足を戻しかけたら、ガエル様も止まった。
「何かありましたか。今、ずいぶん楽しそうな顔をなさいました」
私が窓を指すと、彼は本当に一緒に見上げてくれた。兄が先の菓子屋で待つと言うまで、二人で、窓が後から足されたのか、周りの壁が新しいのかと言い合った。
答えは出なかった。それでも、その日の帰りの馬車で思い出したのは、彼が私の話を聞こうとして足を止めた時の顔だった。
それからは、兄がガエル様の名を出すと、つい顔を上げた。今度うちへ来ると聞けば、どの服を着ようかと考えた。別の通りで古い門を見つけた時には、まず彼に知らせたくなった。
お会いすれば、ガエル様のほうから続きを尋ねてくれる。そのたび、覚えていてくださったのだと嬉しくなった。
先週、彼が楽しみにしているという新刊の案内を、本屋で見かけた。昔の王都の絵や文章を集めた本で、あの獅子の噴水も載るのだという。
発売日は、ガエル様が次にいらっしゃる日と同じだった。
今朝、見本の本を開くと、獅子は立派な台座の上で水を吐いていた。今の不満そうな顔を知っていると、どうにも偉そうで可笑しい。
これを見た時、ガエル様がどんな顔をなさるかと思った。できれば、その場に私もいたかった。
品を包んでもらいながら、心が弾んだ。もうやめようと思ったはずなのに、青いリボンを見ただけで、渡す瞬間が楽しみになっていた。
そして、今日は彼をお誘いするつもりだった。
兄が出かける時についていくのではなく、私から、一緒に出かけてほしいと。
贈り物を喜んでもらえたら、きっと言える。そんなふうに考えていた。
* * *
「実は、僕もあなたを驚かせたかったんです」
ガエル様は私の贈った本を卓上へ置き、椅子の脇に立てていた鞄を開いた。
出てきたのは、灰色の表紙に紙の帯を巻いた、もう一冊の『百年前の王都案内』だった。私の贈った本の下には開いた包み紙が敷かれ、ほどけた青いリボンが垂れている。二冊の表紙の王城が、同じ向きに並んだ。
「今朝、買いに行ったんです。あなたにも見ていただきたくて、持ってきました」
紙の帯を外し、彼が開いたのは、あの丸い窓のある店の絵だった。
私が今朝、獅子に見とれてまだ見ていなかった頁だ。隣の建物に挟まれた店は、昔は三階建てだったらしい。今も残る二階の丸窓の上に、もう一つ、小さな丸窓があった。
「まあ。上にも窓があったんですね」
「そうなんです。これなら、なぜ周りだけ石が違ったのか、また考えられると思って。今日は僕が続きをお持ちしたかった」
いつも答えを知っている人なら、教えて終わりだったかもしれない。ガエル様は、まだ分からないことを一緒に話すために、来てくださったのだ。
開かれた頁へ身を乗り出し、それから隣の包みを見て、私は小さく息を吐いた。
「とても嬉しいです。でも、私のほうは余計な一冊になってしまいましたね。あなたが欲しがっていらしたから、驚かせたかったのに」
口にしてみれば、大事件ではない。同じ本を買ってしまった、それだけのことだ。けれど、楽しみにしていたぶん、残念だった。
彼に慰めさせたくなくて、包みを自分のほうへ寄せようとした。
「その本は、僕にいただけませんか」
ガエル様が、青いリボンに添えた私の手を見た。取り上げるのではなく、私が離すのを待っていた。
「同じものですよ。中も、きっと全部」
「ええ。二冊あれば二倍楽しめる、と言えたらよかったんですが、たぶんそうはなりませんね」
彼が真面目な顔で言うので、少し笑ってしまった。彼もほっとしたように笑い、包まれたほうの表紙を指でそっと撫でた。
「それでも、欲しいんです。あなたが僕に選んでくださったものなので。……本屋で、この本を見つけた時、僕のことを思い出してくださったんでしょう?」
「思い出したというより、あなたのために買いに行ったんです。今日なら、すぐにお渡しできるから」
ガエル様の指が止まった。
私まで黙ってしまい、隣の部屋で母が裁縫箱を閉じる音が聞こえた。兄は父に呼ばれて席を外し、客間には私たち二人だけだった。話の続きを母に聞かれると思うと恥ずかしかったが、今さら言わなかったことにはできない。
「獅子の絵を見たら、あなたに見せたくなって。今は植木鉢を載せられているのに、昔はあんなに威張っていたんだなと思ったら、おかしくて」
説明しているうちに、笑いが戻ってきた。今日のために包みを用意した時間は、確かに楽しかった。持っているかを聞かなかったのは私の失敗だけれど、それまで恥ずかしがらなくてもよい気がした。
「早くいらっしゃらないかと、何度も時計を見ました」
ガエル様が顔を上げた。少し頬が赤い。
「僕も、早く伺いたかったです。道で知人に会って、挨拶を切り上げるのに苦労しました。普段なら話し込んでいたでしょうに」
そう言ってから、彼は自分の本を見下ろした。
「僕こそ、買うのを一日待てばよかったな。あなたからいただいて、初めて頁を開きたかった」
「そうしたら、今日はあの窓を見せていただけませんでした」
「そうでした。それは惜しい」
今度は二人で笑った。彼も私を驚かせたかった。そのために朝から本を買い、あの頁を見つけ、鞄に入れてきてくださった。
私は包みから手を離した。ガエル様がこちらの本を自分へ引き寄せ、ほどけた青いリボンを折りたたんで、その上に載せた。
「ありがとうございます、マルゴ嬢。大事にします」
嬉しかった。私の顔を見て、嬉しそうに受け取ってくださることが。
ここでお礼を言ってお茶の話へ戻ったら、きっと今日も、帰っていく彼の馬車を窓から見送るだけになる。次はもっと上手な贈り物を選ぼうなどと考えているうちに、また兄の友人として来る日を待つことになる。
私はこの人に、会いたかった。朝からずっと、来るのを待っていた。その気持ちも、ちゃんと私から言いたい。
「ガエル様。今日は、もう一つお話ししたいことがありました」
彼が私を見たので、逃げ道にしたかった本の表紙から目を離した。
「あなたが好きです。今度は、兄の友人としてではなく、私の恋人として、一緒に出かけていただけませんか」
最後のほうは、息が足りなくなった。言い終えた途端、胸の音が大きくなる。
ガエル様は目を見開き、口を開きかけたまま止まった。私は両手を膝の上で握った。さっきの喜びが本物でも、同じ気持ちとは限らない。そこまで一緒に期待して、彼を困らせてしまっただろうか。
「僕から申し上げるつもりだったんです」
やっと聞こえた声は、普段より少し高かった。
「あなたとお会いしてから、外を歩く時に考えることが増えました。あの店の窓を見たら、何と仰るだろうとか、この話なら笑ってくださるだろうとか。次に会う日まで取っておきたい話が、いつもあるんです」
彼が笑おうとして、うまくいかなかった。頬の赤さが耳まで広がっているのを見て、私の胸まで熱くなった。
「好きです、マルゴ嬢。あなたと二人で出かけたい。恋人として、誘わせてください」
私は何度も頷いた。涙が出そうなのに、頬が緩んでしまう。嬉しいと言おうとしたら声まで弾み、自分でも驚いた。
「はい。……嬉しいです。お誘いする言葉ばかり考えていて、お返事をいただいたら何を言うか、全然考えていませんでした」
ガエル様が声を立てて笑った。ほっとしたように椅子の背へ身を預け、それからすぐに、また私へ向き直った。
「僕もです。お好きな場所を尋ねようと思っていたのに、今、王都の地名が一つも出てきません」
こんな顔をする方だったのだ。いつも落ち着いて見えた彼が、私と同じように、嬉しさで困っている。
もっと近くで見たくなって、私は長椅子の端へ寄り、隣を空けた。
「まず、こちらへ来ていただけますか」
ガエル様は、すぐ立ち上がってくださった。
隣に座った彼の手へ、自分から指を伸ばした。触れたところで彼が動きを止め、私がもう少し手を重ねると、ゆっくり握り返してくれた。思っていたより温かく、大きな手だった。
顔を見合わせるたびに笑ってしまい、なかなか次の言葉が出てこない。目の前の卓上には、同じ表紙の本が二冊並んでいた。
「母に、お話ししてもいいですか」
「もちろんです。シモンにも、僕から話します」
そのあと母を呼ぶ時まで、彼は手を離すのを惜しんでくれた。私も同じで、最後にもう一度だけ、指を握った。
* * *
翌週、私はガエル様と並んで、王都の古い通りを歩いていた。
侍女は少し後ろについてきている。兄は、最初のお出かけに自分まで行く必要はないだろうと、笑って送り出してくれた。
ガエル様の鞄には、私が贈った本が入っていた。もう一冊はご自宅の本棚だそうだ。二冊持ち歩くには重いですから、と彼が真面目に付け加えたので、馬車に乗る前から笑ってしまった。
あの丸い窓の店を見たあと、本に載っていた菓子屋を探した。百年前の店がそのままあるとは思っていなかったけれど、角を曲がって現れたのは、菓子屋どころか、看板もない大きな壁だった。
通りが建物の一部になってしまったらしい。私たちは本と壁を交互に見て、顔を見合わせた。
「ここに焼き菓子があったと思うと、残念です」
「僕は、その隣にあった時計屋を見たかった。鳩が時を知らせたそうですよ」
「それは見たいです。でも、その前に、今あるお店へ寄ってもいいですか。さっき、角で揚げ菓子を売っていました」
ガエル様が、本を閉じた。
「僕も気になっていました。蜂蜜をかけるほうになさいますか?」
「ええ、たっぷり。ガエル様は?」
「僕は砂糖だけにします。蜂蜜だと、たいてい袖まで汚すので」
ガエル様は本を鞄にしまい、私が指した角へ向きを変えた。歩きだした彼の腕へ、自分から手を添える。そうしたくなった時に、もうためらわずに触れられるのが嬉しかった。
揚げ菓子を受け取ると、私は近くの広場のベンチを指した。歩きながらでは、きっと私も袖を汚す。
並んで腰掛け、熱いところを少しずつかじった。ガエル様が広場の鳩を眺めて、時計屋の鳩はこんなに丸かったのでしょうかと言うので、危うく蜂蜜をこぼしそうになった。
「ガエル様。私、今日、とても楽しいです」
彼がこちらを向いた。私を見ているうちに、目元が柔らかくなる。
「僕もです。帰る前に、次のお誘いをしてもいいですか」
「はい。次は、私の気になっている場所にも来てください」
話したい店があった。見せたい花屋の窓があり、彼と座ってみたい噴水の縁もあった。
どこから話そうかと迷っていると、ガエル様が菓子の包みを持ち替え、空いた手を私のほうへ差し出した。
私はその手を取り、一番行きたい場所から、話し始めた。
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