侯爵夫人の些細な物忘れ
「触れるな」
そう言われ、突如弾かれた手。
地面に落ちて鈍い音を立てる椀。
跳ねたスープがドレスを汚したが、それ以上に侯爵夫人は困惑したままに問う。
「何故ですか?」
「黙れ。俺が分からないのか!?」
乞食の言葉に侯爵夫人はぽかんと口を開けるばかり。
この場所に。つまり、かつての故郷にはもう随分と足を運んでいるがこの乞食を見るのは確かに初めてだったかもしれない。
施しを嫌う乞食だっている。
そんなことは侯爵夫人も承知しているが、こちらの乞食は直前まで感謝の言葉を繰り返し、何度も何度も頭を下げていたのに彼女の顔を見た途端にこの態度だ。
「何か私がしてしまいましたか」
「お前……!」
歯ぎしりをする顔に困惑する。
侯爵夫人は炊き出しを随分と積極的にやっていた。
自身の出自が賤民であったため、彼女は誰よりも飢えのひもじさや貧しさを理解していた。
一欠けらのパンを奪い合うために殴り合う。
女子供のような弱い者など真っ先に対象となる、そんな世界の厳しさを。
だからこそ、彼女は地位を得た今となりそんな彼ら――あるいはかつての自分を救うための手助けとなればと。
腹が満ちれば心の貧しさが失せる。
心の貧しさがなくなれば今度は前を向く元気が出る。
そうなれば後は前を歩くのを手助けをするだけだ。
事実、彼女を通して働くことが出来た者の数はもう随分な数となる。
「どの面を下げてここに来たんだ!」
そう喚き散らしたかと思うと乞食は侯爵夫人へ殴りかかろうと身を乗り出す。
直後、傍に控えていた護衛が乞食をあっさりと組み伏せる。
「ありがとう。でも、もう少し優しくしてあげて」
「しかし、奥様……」
「いいから。せめてもう少し息をしやすいように」
護衛へ感謝しながら夫人は出来る限り身を屈めて乞食に視線を合わせる。
肌は汚れ、髭にまみれ、長年の苦労によるものか皺も多い。挙句の果てにこのような場所で暮らしているが故だろうか。様々な場所に痣や傷が出来ている。
けれど、年は夫人とそう変わらないような、そんな印象を何故か受けた。
「一体何故このようなことを?」
夫人は問う。
すると乞食は吐き捨てるように名前を口にした。
「それはどなたの名前ですか?」
「なっ……! 俺を忘れたのか!?」
「! 申し訳ありません! 大変失礼なことを……では、私たちはお会いしたことが?」
夫人は即座に謝罪をする。
なにせ、面識があったことを忘れるなんてこれ以上の失礼はないだろう。
だが、それでも夫人は彼のことをまったく思い出せなかった。
どれだけ記憶を辿ろうとも。
「お前! 舐めやがって……! なら思い出させてやるよ! お前の背中に傷があるだろう!?」
びくりと夫人の体が震える。
それを見て護衛が乞食を抑える力を強め、その苦しさから彼はまた苦しみに喘いだ。
夫人は何度か短い呼吸をして心を落ち着かせた後に問いかける。
「何故、それを?」
事実、夫人の背には傷がある。
かつて、この場所で生きていた折に強い暴力によってつけられたものだ。
何かを奪われる過程であったかもしれない。
正直に言えば状況など覚えていないし、また思い出そうともしていなかった。
ただ、覚えているのは嘲る笑いとそのまま川に捨てられたというだけ。
――皮肉なことに半死半生で川で流れていた時に今の夫と出会ったのだけれど。
「てめえは自分に傷をつけた人間も忘れちまったのか!?」
乞食が怒鳴る。
ここに来てようやく繋がる。
つまり、彼は自分へ暴力を振るい川へ捨てた男だと。
……少なくとも本人はそう主張しているのだ。
「……そうでしたか。しかし、何故そのことが施しの拒否につながるのです?」
夫人の問を聞いて彼は言葉を失う。
何故、言葉を失ったのかも夫人には理解できない。
彼女にあるのはただの疑問一つ。
つまり、最初から最後まで何故、苦しんでいるのに施しを受けず拒んだのかという事だけだ。
それも始めは素直に受けようとしていたのに――。
「この糞女! てめえは俺の奴隷だろう!? 第一お前は毎日のように俺に……!!」
著しく女性を侮辱する言葉は世界に吐かれる直前に止まった。
護衛が罵りながら乞食の顔を地面に思い切り押し付けたからだ。
これでは息さえも出来ない。
そう思い夫人は静かな口調で護衛に押さえつけるのを辞めるよう伝えた。
押さえつけるのをやめるべきでない尤もな理由を幾つも申し立てる護衛に対し夫人は微笑み答えた。
「何かあってもあなたが守ってくれるでしょう?」
「はい。ですが……」
「何が不安なの?」
「これ以上。この場所で奥様が侮辱されるのが許せません」
「ありがとう。だけれど、これも覚悟の上。夫にもあなたにもそう伝えているでしょう?」
護衛が渋々身を離すと乞食は苦しみ喘ぎながら夫人を睨んだ。
「侯爵は俺の使い古した女が随分とお気に入りなんだな」
ここにきて、侯爵夫人はようやく、本当に少しだけ、彼が何に怒っているか分かった気がした。
きっと、彼は自分より格下の人間に施しを受けたのが許せなかったのだ。
――そして、格上である自分をすっかりと忘れてしまったことも。
だからこそ、夫人は丁寧な一礼をする。
「ええ。今もとても愛してもらっております。だから私はこうして幸せなのです」
反射で開かれた彼の口から言葉が出ることは遂になかった。
夫人はもう一度礼をして、ぽつりと告げた。
「どうか。心穏やかな日々を過ごされるのを祈っております」
数刻後には彼女は彼の事を忘れてしまった。
――なにせ、彼女には過去を振り返る必要などないほどに幸せで充実に過ごしているのだから。




