第3話
朝日も昇らぬ早朝。
潮風の香りが混じった朝の空気を吸い込みながら、アシュレイは玄関で腰を伸ばした。
陽が昇りきる前に山道を越えて、村の市場まで歩く必要がある。
目当ては来季用の野菜と豆の種だ。
育ちがよく、保存が効き、なにより子供たちがよく食べる。
「じゃ、昼過ぎには戻る」
工房の奥から「いってらっしゃい」と、リーンベルの明るい声が返ってくる。
すぐその隣で「気をつけてね」と眠そうなツキノの声。
外から聞こえる微かな素振りの音は、毎日朝練しているミルフィだろう。
「……エミリアは?」
ふと見回すが姿がない。
さっきまで芋を洗ってたと思ったが――まあいい。
裏庭にでもいるのだろう。
アシュレイは小さく肩をすくめ、坂道を下り始めた。
工房のある丘は、村から徒歩で二時間の距離にある。
人里離れた場所だが、社会に疲れたアシュレイには心地良い距離感だった。
不便ではあるが工房から広がる海は彼の心を癒してくれる。
そしてなにより海岸には“壊れたもの”が流れ着く。
今日も村に向かう途中で壊れた木製の工具や、錆びついた釣具が転がっていた。
ついでに拾って背負う。
修理に使える部品は多いに越したことはない。
そろそろ校庭の半ばに差し掛かる頃、背後で、かさりと草を踏む音がした。
「……」
足を止め、振り返る。
「あ、見つかっちゃった」
草むらの陰から、エミリアがひょっこりと顔を出した。
すぐに笑顔になる。
髪は一つに結び直され、リュックにはパンと水筒が詰め込まれているのが見て分かる。
完全に《《同行する気》》だ。
「エミリア、お前……ついてきたのか」
「アシュレイさん、今日市場に行くって言ってたから、わたし、行ったことないし、見てみたい!」
責めるような気持ちは不思議と湧かなかった。
村は比較的安全だし、そもそも六歳の足でここまで来れた根性を褒めるべきか。
「次からはちゃんと相談するんだぞ」
「うんっ、次はそうする!」
元気いっぱいに頷くエミリアに、アシュレイは小さくため息をついた。
そのまま小さな手を取ると、エミリアは嬉しそうに見上げ、すぐに笑顔になって指を絡めてきた。
山を下りた先の村は、朝市場の準備でにぎわっていた。
海の幸と山の恵みを扱う小さな露店。
すれ違う人々の賑わい。
エミリアは見るものすべてが珍しいのか、瞳をきらきらと輝かせていた。
「すごい……人ってこんなに沢山いるんだね」
「これでも小さい村さ」
アシュレイはいつも決まった種屋に向かいながら、片手でエミリアの手を握り続けていた。
種屋の主人は、アシュレイの顔を見るなりにこやかに笑った。
「今日は珍しいお客さんも一緒だな。娘さんか?」
「いや……まぁ、そうだな」
「元気でいいねぇ。ほら、リンゴ持っていきな」
「ありがとう、おじさん!」
エミリアはぺこりと頭を下げ、両手でリンゴを受け取った。
そのときだった。
通りの向こうで「きゃっ!」という小さな声がした。
猫を抱いた女の子が、つまずいて転んでしまったらしい。
猫は無事だったが、子どもの膝は擦りむけて血がにじんでいた。
「アシュレイさん、行ってもいい?」
エミリアが上目遣いで聞くより先に、アシュレイはうなずいていた。
エミリアはすぐに駆け寄り、手ぬぐいを水筒の水で濡らして、子どもの傷口にあてがう。
「だいじょうぶ。
ちょっとしみるけど……ちゃんと、きれいにするからね」
真剣な表情。
声はとても優しい。
――そして薄く緑色に発光する柔らかい光。
「……すごい、傷が塞がってく」
エミリアより、少し大きい女の子は驚きの声をあげた。
その言葉にエミリアは顔を赤くしながらも、にっこりと笑って「手当、少しおぼえたんだ」と答えた。
帰り際、アシュレイは露店の片隅で、壊れた陶器の薬草ポットを見つけた。
割れた蓋に穴、そして錆びた金属口。
多分、捨てられている。
「これ、もらっていいか?」
「いいけど、使えないと思うよ。ずいぶん前に壊れちゃって」
「その方が都合が良い」
アシュレイは工具袋から古い針金と木片を取り出し、手際よく接合し直した。
ぐらつきは消え、蓋もピタリと閉まる。
それをエミリアに渡すと、彼女は目を丸くして、それからそっと両手で受け取った。
「これ……わたしが使っていいの?」
「良い治療だった。
だが魔力が安定しない幼少期は、薬草は持った方が良い」
エミリアは言葉を失ったように、ポットをじっと見つめていた。
その手が小刻みに震えているのを、アシュレイは見逃さなかった。
「……わたし、本当に治せる人になれるかな」
「なれるさ。エミリアにはその素質がある」
躊躇わずに、人に優しくできる。
素養はそれだけで十分だ。
その言葉に、エミリアはぶわっと涙を浮かべた。
「……がんばる!
わたし、絶対治せるようになる!
そして、みんなが安心して住めるような世界にするんだ!」
孤児院が襲われて逃げ出したことは知識として理解しているが、実感を持っていないようだった。
けれど、今のエミリアの言葉は、悲しみすらも理解しているようだ。
「アシュレイさん、怪我したらわたしに言ってね!」
その声は、風に乗って賑やかな市場へと溶けていった。
***
帰り道、エミリアは薬草ポットを大事そうに抱えたまま、アシュレイの隣を歩いていた。
手をつなぎながら、何度も笑って、何度もポットを見て――。
「ねえアシュレイさん、帰ったら、これに何の種を植えようか?」
「まずは傷に効くやつだな。
……カモミールか、アロエか」
「うーん、アロエ、名前がかわいいから!」
エミリアの笑顔が、夕暮れの光の中で揺れた。
アシュレイはふと、工房に待つリーンベルと二人の妹たちを思い浮かべる。
――俺にはもったいないくらいの、同居人たちだ。
その思いにアシュレイは違和感を覚えた。
血は繋がっていない、師弟関係でもない。
じゃあ俺は他人になんと説明するのだろう――。
「どうしたの、アシュレイさん?」
夕暮れに染まったエミリアの笑顔に、胸がギュッと掴まれた気がした。
「いや、明日は何をしようか、エミリア」
関係性なんて些細なことだ。
大切なことはこの子たちが安心して過ごせること。
エミリアの手を握り直しながら、アシュレイは静かに笑った。
帰り道はこれまでの帰路の中でも、最も早く着いた感覚だった。




