第26話
「はっ……!!」
ツキノは小さく声を漏らし、口を△にして固まった。
遅れてやってきた現状把握に、頭の中でカチリと音が鳴る。
湿度――八〇%。じっとり。
気温――十七度。少し肌寒い。
視界――今は明るい。
ぐるりと見渡せば、切り立った岩肌が幾重にも重なり、何十メートルも上に大穴を穿っている。
壁面の隙間にはコケや小さな草木がしがみつくように芽吹き、そこに差し込む陽の光がきらきらと反射していた。
足元では、岩を縫うように小川が曲がりくねり、澄んだ水を流している。水辺には、のどかな気配に誘われて小動物たちが群れていた。
「迷った」
短くそう告げる声は、妙に平板で。
けれど正しくは――すでに「迷っていた」のだ。
ツキノは目を閉じ、両手の人差し指を額に当てる。
「うーん」
小さな唸り声は、考えているようで、実際にはさほど考えていない。
――私はエミリアと別れてから、ミルフィと一緒に王都を目指していたはず。
本来なら、王都への道のりはまだまだ遠い。
街道を延々と歩き、時には馬車に揺られ、いくつかの村を抜けてから、ようやく辿り着ける。
……はずだった。
ミルフィと別れたのは、ほんの数時間前のこと。
彼女は王都騎士団に所属するため、候補生として途中の街で始まるクラス分け試験へ向かった。
残されたツキノは王都アルケミスト学術院を目指し、一人歩みを進める――はずだったのに。
ふと見つけた、珍しい青い鳥。
それを「わあ」と思わず追いかけて、気がつけば。
「こうなってた」
ぽんっと両手を合わせ、ひとり納得する。
「あっちかな」
迷子だと理解したその瞬間から、ツキノの行動は早かった。
小川にしゃがみ込み、人差し指をそっと水に浸す。しっとり濡れた指先を天に掲げ、風の流れを読む。
「……いこう」
風は洞窟の奥から吹き抜けてきていた。
行き止まりなら、この涼しい風がここまで届くことはない。
ツキノが歩みを始めると、小川にいた子ウサギたちが、ぴょんぴょんと飛び跳ねながら後をついてくる。
さらに枝にとまっていた小鳥たちまで、ちちちと鳴いて飛び回り、行列のように彼女の後を追いかけた。
昔から森の動物たちに好かれやすい――それがツキノだった。
「きゃべつ、好き?」
背負ったリュックから、小ぶりのキャベツを取り出す。
歩きながら葉を一枚ちぎって差し出すと、ウサギも小鳥も、嬉しそうに口を動かした。
「噛めば噛むほど甘い」
自分でも葉をひとかけ口に放り込み、むぐむぐと咀嚼しながら、ツキノは穏やかな足取りで進んでいく。
分かれ道に差し掛かれば、頬を撫でる風のやさしい向きに従って――。
「ふふ、かわいい」
足元で見つけた珍しい植物を採取して、半透明の小瓶へと押し込んでコルク栓をする。
錬金術師は魔力と修理技術を駆使して、物体を強化したり、修理したりする。
いわば冒険者の支援役であり、街の便利屋でもあった。
「アシュレイさんも、一杯の素材があった」
ツキノはアシュレイの工房が好きだった。
油や木材、花や木――それに使い古された工具の臭い。
木材の破片が舞うと、太陽にキラキラと反射した。
鋭い目つきで、何も語らず黙々と修理する背中はツキノの目に焼き付いている。
――私もいつか、アシュレイさん……父のように、誰かのために物を直したり、育てたりできたら、なんて素敵なことだろう。
アシュレイが直した後の山間の村は、いつも笑顔にあふれていた。
父の直した道具を使って作業に打ち込む村人の笑顔を見るのが、ツキノは好きだった。
「その為には、珍しい素材はいつもストック」
ストック、ストック、ストッークと歌いながら、軽快なステップで歩く。
後を付いてくる動物たちも、ミュージカルに登場する動物のように踊っているようにさえ見る。
「ほっぷ、すてっぷ、じゃーんぷ」
雑草、花を飛び越え、最後にわずかな谷を跳躍する。
「……とと」
踏み外しそうになり、何とかバランスを保っていた時、洞窟の奥で破裂音がぐわんぐわんと空間を揺らした。
「どかーん?」
聞こえた方向は洞窟の奥だ。
出口から吹く風とは反対の方向である。
「あ」
視界の隅でぽわっと薄緑の残像が見えて、破裂音が響いた地下へと消えていく。
「きみたち、こっちには何があるか分かるかい?」
足首にすり寄っていた子ウサギに先生のモノマネをして問うと、動物の生徒は首を傾げた。
「よしならば行こう、無限の彼方へ!」
洞窟の地下を目指し、ツキノは下り坂へと足を踏み出した。
洞窟の地下は思いのほか暗い。
さっきまでは空洞が太陽の光を取り込んでいたが、ここから先は危険が伴うかもしれない。
――リーンベルが読んでくれた絵本なら、魔物が住んでるはず。
まだ薄暗いうちにリュックから、一つの小瓶を取り出した。
小瓶を2、3回振ると瓶が発光しだした。
「光れて、えらい」
発光キノコ苔。
キノコなのか苔なのか。
キノコの形をした苔なのか、苔がキノコの形を取っているのか、未だに不明だが、衝撃によって暗闇の中で光る特性がある。
錬金術学会では未だに菌類か植物かの争いが起きているというが、その真実を知る者はここにはいない。
ツキノとしてはキノコと苔が仲良く光っているので、その事実だけで仲良くていいなぁ、程度のことだ。
発光キノコ苔が入った瓶を縄で片掛けポシェットのように吊るして、ツキノは足元に気を付けて洞窟を下る。
湿気は先ほどよりも高く、足元も滑りやすい。
知らぬ間に動物たちも姿を消していた。
時折、聞こえる破裂音を頼りにさらに奥へと下る。
――いや、これは破裂音じゃない。
――打撃音だ。
「ここだ」
30分ほど下ったころだろうか。
打撃音が鳴り響く、空間に到着した。
ごぅん!
ごうん!
「落石で道が塞がっちゃたんだね」
発光する瓶で辺りを照らす。
正面は、大きな岩がいくつも重なり、崖上から落下してきたのが分かる。
両側は切り立った崖で、素手で登るには心もとない。
ツキノは両手の人差し指を頭部の左右でくるくる回して、「はっ!」と瞳を開ける。
「何かが閉じ込められてる」
この崩落した壁を腕力で解決しようとしている何かがいる。
「だいじょうぶ?」
反対側に問いかけるようにツキノが呟くと、攻撃の手が止み、「ぐるるる」と《《いななき》》による返答があった。
「任せて、すぐに出してあげる」
リュックの中で何か使える者があるかもしれない。
自分の背丈ほどのリュックを下ろして、中をごそごそと漁ろうとしたとき――ぽわっと薄緑の光がツキノの視界に入り込んだ。
「え?」
小鳥のようなシルエットで、くるくると嬉しそうに羽ばたく。
「きみ、どこかで――」
言いかけたとき、洞窟には不似合いな絶叫が、頭上から降ってきた。
「あああああああああああああああ、そこのだれか、どいてえええええええええ!」
ハッと見上げた時に、ツキノは反射的に小瓶の上空へ投げていた。




