第21話
宿屋の食堂は旅人たちのざわめきと香ばしいスープの匂いで満ちていた。
三人娘は空いていた窓際の席に腰を下ろし、それぞれに荷を降ろして一息つく。
ミルフィは背もたれに軽く体を預けながら、無意識に周囲の人々へと視線を走らせた。
油断なく見渡すその姿は、いつもの冷静さと、どこか姉妹を気遣う眼差しが同居している。
エミリアはパンをちぎりながら、ふと厨房の方へ目を向ける。
湯気の立つ鍋や皿の重なる音が、彼女の胸に“旅をしている”という実感を温かく刻み込んでいた。
そんな中、ツキノはスープの湯気に顔を近づけ、ぽつりと呟く。
「この湯気、くるくるしてる……玉ねぎ、嬉しい?」
ミルフィが思わず眉をひそめる。
「美味しいってこと?」
「火加減がじょうず。とてもあまい」
エミリアは小さく笑みを浮かべ、パンを口に運ぶ。
「アシュレイさんも、優しく煮込んでたよね」
その瞬間、厨房の奥から「ボンッ!」という鈍い音が響いた。
白い湯気がもくもくと溢れ、調理師が慌てふためいて飛び出してくる。
厨房の隅で金属の悲鳴のような「キイィィ」という音が響き、魔導湯沸かし器の表面は熱気で赤らみ、白い蒸気が噴き出していた。
「くそっ、また湯沸かし器か……魔力弁が限界かもしれん」
調理師は顔をしかめ、布巾で汗を拭う。
「修理屋なんて呼べる金はないのに……」
ツキノはスプーンを置き、まるで引き寄せられるように立ち上がった。
「見ていい?」
その声音に調理師は思わず目を丸くする。
年端もいかぬ娘が、蒸気を吹き上げる鉄の塊を前にして一歩も退かぬなど、常識では考えられない。
「なんだ嬢ちゃん……これは子どもの触っていい代物じゃないぞ」
しかし、ツキノの瞳は真剣そのものだった。
澄んだ湖のように揺らぎなく、機械の奥を覗き込んでいるかのようだ。
軽くあしらおうとした言葉が、調理師の喉の奥で止まった。
その様子を見ていたミルフィとエミリアは、驚くどころか落ち着き払って食事を続けている。
「ツキノ、こういうの得意」
「お嬢ちゃんに分かるとは思えんが、ほんとうか?」
「まかせて」
短い言葉に不思議な説得力が宿っていた。
気圧されるようにして、調理師は道を開ける。
ツキノはしゃがみ込み、鉄の表面に耳を近づけた。
湯気の漏れる音、内部を駆ける魔力の振動……彼女はまるで機械そのものと会話を交わすかのように、指先で金属をなぞり、首を傾げる。
「……ネジが、ちょっと迷子になってる」
腰のポーチからアシュレイから受け取った工具を取り出すと、ツキノは手袋をはめてから、ためらいなく分解を始めた。
その手つきは滑らかで迷いがない。
小柄な指先がカチリ、カチリと金属を鳴らすたび、見守る調理師の胸に不安と同時に期待が広がっていく。
やがて、最後の部品を締め直すと、湯沸かし器は嘘のように静まった。
しゅるしゅると蒸気が穏やかに立ちのぼり、厨房全体が温かな空気で満たされていく。
「……直ったよ。ネジは家に帰った」
ぽかんと口を開けたまま、調理師はしばし動けなかった。
目の前で起きたのは、ただの修理ではない。
鉄の塊に魂を吹き込むような、そんな光景だった。
「じょ、嬢ちゃん……いったい何者だ?」
ツキノは首をかしげ、少しだけ照れたように笑った。
「んー……未来の錬金術師?
こういうの好き」
奇妙な言葉なのに、不思議と胸に沁みる。
調理師は息をつき、やがて微笑を浮かべた。
「礼だ。フルーツもつけてやるよ」
差し出された皿に並ぶ色鮮やかな果物を見て、ツキノは目を丸くする。
「ありがとう、おいしそう」
そのとき、ミルフィとエミリアが厨房に顔を出した。
「ツキノ、そろそろ戻ろう」
「スープ、冷めちゃうよ」
三人は何事もなかったかのように席へ戻り、食事を続けた。
だが食堂の空気はどこか柔らかく、旅人たちのざわめきの中に小さな敬意が混じっていた。
ツキノが手にした果物皿をちらりと見る者、ひそひそと「すごい子だな」と囁く声。
彼女は気づくでもなく、幸せそうにリンゴをひと切れ口に入れる。
「リンゴ、美味しい」
頬をふくらませながら呟くツキノの無邪気さに、エミリアが思わず肩を揺らして笑った。
「アシュレイさんが、なんだか近くにいるみたい」
その言葉にミルフィがちらと視線を窓に向ける。
宿場町の夜通りでは、カンテラが風に揺れ、行き交う人々の声が遠くかすかに届いていた。
「……そうね。
でも私たちは、もう工房を離れた」
ミルフィの言葉に卓上のランプの炎が静かに揺れたように感じられた。
胸の奥に言葉にしづらい不安と寂しさが広がっていく。
一瞬の沈黙。
けれど、それを切り裂くようにエミリアが笑顔を取り戻した。
「寂しくなるにはまだ早いよ、旅はまだ始まったばかりなんだから」
その明るさは、ふたりの胸に灯をともすようだった。
ツキノは小さく頷き、まるで約束するようにリンゴをもうひと口かじった。
窓の外では、宿場町の灯火が揺れ続けている。
明日の朝になればまた違う景色が待っているだろう。
三人で過ごす夜は、数えるほどしかない。
けれどそのひとつひとつが、確かに未来へと繋がっていくのだった。




