第16話
薬草畑には元々、腰の高さほどの低い木製の柵が巡らされていた。
しかし今は、その柵が無残にも土から引き抜かれ、あちこちが歯型だらけになっていた。
アナグラネズミたちが地面を掘り起こし、柵の支柱をぐらつかせ、ついには役目を奪ってしまったのだ。
よく見れば、木材の端々は鋭い前歯で削り取られ、まるで鉋で削ったかのように滑らかだ。
これでは補修どころか、まず木材を調達するところから始めなければならない。
――駆除ってのは、つまり殺すってことだが……ミルフィの手前、無駄な殺生は避けたい。
柵をしっかり作り直して畑を守れば、それでいいだろう。
かつて素材集めの依頼では、容赦なくモンスターを狩ってきた。
そんな自分が、いまさらためらうとは――。
アシュレイは苦笑し、肩をひとつ竦めた。
魔物除けの煙を焚くと、乾いた香草の匂いが辺りにふわりと広がる。
鼻の奥にわずかな辛みを残すその煙は、森の獣や魔物が嫌う匂いだった。
アシュレイは煙の加減を確かめながら、ミルフィに「少し素材を取りに行ってくる」と短く告げ、洞窟を後にする。
見送るスフレは、小さな肩をすくめながら、その背を目で追った。
煙の向こうにゆらりと揺れる背中は、すぐに闇に溶けていく。
「ネ、ネズミが来たらどうしよう」
「大丈夫。二時間くらいなら、魔物は近寄らない」
アシュレイの言葉を聞いたスフレは、ぱっと顔を上げた。
「すごい……そんなお香、魔術を使うお母さんでも作ったことない」
「お母さん、魔術師なの?」
「うん、凄い魔術師なんだ」
胸を張ったその姿は誇らしげだったが、ほんの一瞬でしおれるように肩を落とした。
「でも、具合が悪くて……ずっと休んでるの」
山間の小さな村に魔術師がいるとは初耳だった。
ずっと姿を見なかったのは、病に伏していたからだろう。
「だから薬を取りに来たの? バルバトス先生のところは?」
「お母さんの病気は普通じゃないんだって。
魔術を失敗した“はんどう”って、先生が言ってたの。
ここの薬なら効くけど、先生じゃ“ぶんやがちがう”んだって」
「そうなんだ」
二人は並んで座り、足をぶらぶら揺らす。
靴底が石畳を軽く叩くたび、こつこつと乾いた音が響いた。
ミルフィには本当の父親も母親もいない。
けれどスフレの気持ちは、胸の奥が締め付けられるほどよく分かった。
――守りたいのに、守りきれないのって……胸のあたりが苦しいよね。
「いつも薬草を取りに来てたの?」
「買えないから。
入り口の近くによく生えてたけど、今日はここまで潜らないと見つからなくって……」
「調合も自分でしてるの?」
「お母さんの本を調べて、いつも作ってるの」
「そう」
その答えを聞いたミルフィは、ふっと小さく笑った。
――まるで、自分みたいだな。
ミルフィもまた、アシュレイの本棚からモンスター辞典を引っ張り出しては読み漁り、盾の構え方や剣の使い方をまとめた本を、紙がよれるほど読み返しているのだ。
「あ、あの……ミルフィちゃんって、すごいね」
「……?」
不意に名前を呼ばれて、ミルフィは小首を傾げる。
瞳にはわずかな戸惑いが浮かび、返答を探すように瞬きをした。
「だ、だって……あんなモンスターの前にすぐに飛び出して、あたしを守ってくれるなんて――普通できないよ」
スフレの声は震えていた。
恐怖と安堵が混ざった響きで、言葉の端がほんのり熱を帯びている。
何の話をしているのか、最初はまるでわからなかった。
ミルフィはぽかんと口を開けたまま、スフレの言葉を頭の中で何度も反芻し――ようやく意味が繋がった。
「あ、そういうことか」
小さく笑って、膝の上に置いていた盾を持ち上げる。
金属の表面が洞窟の薄明かりを反射し、柔らかな輝きが二人の顔を照らした。
ミルフィはそれをそっと撫で、確かめるように指先を滑らせる。
「この盾なら、絶対に守れるって思ってる……気づいたら身体が勝手に前に出てた」
スフレは改めてその盾に目を向ける。
磨き上げられた金属面には、余計な汚れ一つなく、持ち手の革は手の形に馴染んでいる。
子ども用に寸法が整えられ、盾の角度も絶妙。
力の衝撃を受け流すことが容易そうだ。
「……すごい盾なんだね」
「ううん、父さんが直しただけ。元は普通の盾なんだって」
事もなげに言うミルフィの表情は誇らしげでもあり、どこか照れくさそうでもあった。
「へえ……」
どう見てもただの盾ではない――そんな感覚がスフレの胸をかすめるが、盾の専門知識がない彼女には判断できない。
ただ、その輝きが不思議と心を落ち着けてくれるのは確かだった。
「あたしも……すごい魔法の杖とか持てば、勇気が出て、お母さんみたいに凄い魔術師になれるかな?」
「そうなのかな……?」
ミルフィは一度視線を落として考えるように眉を寄せ、それから静かに首を傾げた。
「盾も信じてるけど……私が前に動けたのは、もっと強くなりたいって思ったからかも」
「もっと強くなりたいの? 今だって、モンスターの攻撃を耐えたのに?」
「……家族をもう、失わないようにしたいから」
その言葉は短く、けれど重たく響いた。
小さな背に背負うにはあまりにも大きな決意。
スフレは胸の奥が熱くなり、そっとミルフィの顔を覗き込んだ。
「ミルフィちゃん……」
モンスターは怖い。
だがそれ以上に怖いのは、大切な人が傷つくこと、消えてしまうこと――その恐怖は、スフレにも理解できた。
「ありがとう、ミルフィちゃん。あたしも……頑張る」
「がんばって」
小さな両手をぎゅっと握りしめ、決意を固めるスフレ。
その姿を見て、ミルフィも静かに頷いた。
ちょうどその時、薬草の束を背負ったアシュレイが戻ってきた。
三人は声を掛け合い、畑の周囲に新しい柵を組み立て始める。
これ以上、被害が広がらないように。
そして――誰でも安心してこの薬草畑に来られるように。
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夜、焚き火の明かりがわずかに揺れる室内の一角。
スフレはアシュレイから受け取った薬草束を調合していた。
彼が煮詰めてくれた薬草を抱きしめるように持ち帰り、スフレは慣れた手つきで調合を始める。
母親の魔術書を机に広げ、ページの端に指をかけながら。
――けれど、ふと気づく。
「え……この薬草……不純物が、ない?」
いつもなら混ざってしまうはずの灰汁や不純物が、どこを見ても見当たらない。
それどころか、色艶が良く、香りは鮮やかに澄みきっている。
収穫の仕方、乾燥の具合、保存の温度――すべてが驚くほど丁寧だ。
「こ、この薬草だけが特別なの……?
それとも、あのおじさんが……?」
目つきも悪く、猫背で、無愛想そうに見えたミルフィの父親。
その印象とは裏腹に、彼の言葉も手つきも不思議なほど優しかった。
そして――この薬草の品質が、何より雄弁に物語っている。
「……これなら、もしかして……」
いつも薬の効果は途中で薄れ、母の病を完全には癒せなかった。
けれど、この効能の高さなら――もしかしたら。
胸が高鳴る。
スフレは薬瓶を抱えて家の奥に駆け込み、眠る母の傍らに座り込んだ。
「お母さん、お薬できたよ。
それで、今日はね、素敵な出会いがあったの――」
その夜、一人の少女の未来は静かに動き出した。
アシュレイはまだ知らない。
数十年後、――努力で己を鍛え上げた一人の魔術師が世界を変えることを。




