第14話
王立アルケミスト学術院――。
古くは戦乱の時代、あらゆる階級から才能を掘り起こすために作られた、歴史ある錬金術師養成機関だ。
理念は「錬金術は年齢も身分も問わない」。
だが創立から百年以上が経った今、その門をくぐるのはほとんどが貴族や豪商の子息たち。
学費も教材費も法外で、平民の少女が入るには、ほぼ不可能な場所になっていた。
それでも、ミレイミァンは諦めなかった。
生まれた村は痩せた土地で、父と母は日が昇る前から畑に出て、ほとんど収穫もない畑を耕していた。
――もし作物が一年中実ったら?
――もし土を選ばず育つ種があったら?
それが叶えば両親だけじゃない。
あの村の――もっと言えば世界中の貧しい農家を救える。
そんな夢を抱いたのは、まだ十歳のころだった。
「お金が足りないなら、働けばいい」
母はため息をつきながらも、そう言って背中を押してくれた。
昼は畑、夜は村の酒場で皿を洗い、少しずつ金を貯めた。
十三歳になったとき、両親は家の古い食器を売ってまで足りない分を出してくれた。
――あの日、入学証を握りしめた時の手の震えは、今でも忘れない。
学術院の門をくぐった瞬間、まるで別世界だった。
広大な庭園に、薬草と花が色鮮やかに咲き乱れ、白い石造りの建物が陽光を反射して眩しく輝く。
その真ん中で、豪奢な服を着た生徒たちが笑い合いながら歩いていた。
粗末な麻のワンピースを着たミレイミァンに、彼らは一瞬だけ視線を向け、すぐに興味を失ったように去っていく。
――それでいい。
私はここに、友達を作りに来たんじゃない。
机にかじりつき、植物錬金術の研究室に籠もった。
授業後も図書館に残り、古代植物学や土壌の変質理論を片っ端から読み漁った。
寝不足で目が真っ赤になっても、気にしなかった。
成績は順調に上がり、二年目には学年主席まであと一歩に迫った。
だが、その一歩が遠かった。
ミレイミァンの前に立ちはだかったのは――マリナレッテ。
深紅の髪を腰まで伸ばし、翡翠色の瞳をした少女。
古くから続く錬金術師の家系に生まれ、家族の名誉と莫大な資金を背に受けている。
最初の模擬実験で彼女と意見がぶつかり、気づけば顔を合わせるたび口論をしていた。
「論理が甘いわ、ミレイミァン」
「そっちこそ、現場を見ない机上の空論よ」
そんなやり取りを繰り返すうちに、互いの腕を認め、いつしかライバルから親友へと変わっていった。
ある日、彼女に誘われた。
「私の大事な場所に案内してあげる」
案内されたのは、屋敷の裏手にある高い塀に囲まれた庭園――彼女の亡き母が贈ったバラ園だった。
満開のバラが風に揺れ、甘く濃い香りが漂う。
白いテーブルセットでアフタヌーンティーを楽しみながら、彼女がふと呟く。
「……最近、バラの元気がないの。
肥料も水も十分なのに」
その声はほんの少し不安を帯びていた。
ミレイミァンは胸を張って答えた。
「私に任せて。植物専攻の私が、きっと蘇らせてみせる」
――あの時の自信は、今思えば、ただの過信だった。
研究中だった植物成長促進剤を試しに使った瞬間。
地面が低く唸り、薬液を吸ったバラが光を帯び――。
爆発音と共に園全体が灰色の霧に包まれた。
空から落ちてきた何かが肩に当たった。
息を呑んで見やると、相棒のホムンクルス――青白く輝く小鳥アオノソラが、片翼を痛めてうずくまっていた。
視線を戻すと、そこには色も香りも失った灰色のバラたち。
枯れたのではなく――永遠に枯れたままの状態に固定されてしまったのだ。
「……ごめんなさい」
膝をつき、何度も謝ったミレイミァンに、マリナレッテは首を振った。
「錬金術に失敗はつきものよ。気にしないで」
優しい声だった。
けれど、その笑顔の奥にあった悲しみを、ミレイミァンは見逃さなかった。
自分が許せなかった。
あの日、彼女は学術院に休学届を出し、一輪だけ切り取った灰色のバラを抱えて旅に出た。
必ず、元に戻す方法を見つける――それがミレイミァンの全てになった。
◇
そして今。
色鮮やかに蘇った一輪のバラを手に、ミレイミァンはマリナレッテの屋敷の門をくぐった。
かつて訪れたときと同じく、手入れの行き届いた芝生と白い小道が、玄関までまっすぐ続いている。
けれど、その景色の中に立つ自分は、あの頃の私ではなかった。
――失敗のあと、全てを投げ出して旅に出た自分。
もう二度とこの門をくぐれないかもしれないと思った日々。
その果てに、ようやく掴んだ希望が、今、両手の中にある。
胸が痛いほど高鳴る。
それは恐怖でもあり、期待でもあった。
ノックすると、ほどなくして扉が開き、マリナレッテが現れた。
数秒間、彼女は固まったまま私を見つめ――そして、まるで糸が切れたように駆け寄ってきて、私に抱きついた。
「……無事だったのね!」
震える声が耳元で響く。
あたたかい腕の感触が、胸の奥の冷たさを溶かしていく。
あの日、灰色に変わったバラを前に、何度も謝り続けたミレイミァンを、彼女は最後まで責めなかった。
それが、かえって苦しかった。
「心配……させたわね」
絞り出すようにそう告げると、マリナレッテは少しだけ腕を緩め、彼女を見つめた。
その瞳には安堵と、言葉にならない疑問が揺れている。
ミレイミァンは抱えていた包みをそっとほどき、色鮮やかに咲き誇るバラを差し出した。
かつて彼女の庭で枯らしてしまったバラ――いや、それ以上に輝きを放つ再生したバラだ。
「これ……奇跡の錬金術で復活させたの」
マリナレッテの瞳が大きく見開かれる。
「学術院を休学してから、ずっと探してた。
どんなに高名な錬金術師でも直し方を知らなかったバラを、ある薬が……たった一滴で、息を吹き返させたの」
思い出すのは、森の奥で出会った【姿なき奇跡の錬金術師】のこと。
ツキノが持っていた薬は、ただ植物を蘇らせるだけじゃない。
失われた“時間”すら巻き戻すかのような力を秘めていた。
「これを解析できれば……バラ園全体を元に戻せるかもしれない」
薬の製作者を聞かなかったのは、責任と――錬金術師としてのプライドだろう。
そう思いながらも胸の奥には不安があった。
未知の錬金術は同じ結果を再現するだけでも至難の業。
――私一人では、きっとまた袋小路に迷い込むだろう。
だからこそ、ここに来た。
失敗しても離れなかった彼女と、一緒に挑みたいと思った。
ミレイミァンはそっとマリナレッテの手を取る。
温もりが指先から広がる。
「……お願い。手を貸して」
ほんの一瞬の沈黙のあと、マリナレッテは力強く頷いた。
「もっと早く頼りなさいよ」
その言葉は花びらを揺らす春風のようにやわらかく、そして確かだった。
胸の奥で、長い間失われていた何かが――ほんの少し、戻ってくるのを感じた。
このバラが再び彼女の庭を彩る日を、彼女は信じて歩き出せる。




