第8話 時間が、進む
朝は、毎日同じように始まった。
同じように、と言っても同じではない。空の色が違う。湿り気が違う。鳥の声が違う。けれど、火の跡を埋め、荷をまとめ、歩き出すという手順は変わらない。変わらない手順があるせいで、変わっていくものが余計に目につく。
静は群れの最後尾を歩きながら、土の匂いを吸った。
春の匂いがまだ残っている。湿った土と、芽吹いた草の青い匂い。だが、その匂いの奥に、乾いた風の気配も混じっている。季節が、次へ進む前の匂いだった。
蓮がいなくなってから、静は匂いに敏感になった。
耳も同じだ。遠くの水音、枝が折れる音、誰かが咳をする音。何でも拾ってしまう。拾ってしまうのは、背中にいた重さがなくなったからだ。背中が空くと、世界が広くなる。広い世界は、守るべき対象がいないと怖い。
群れは川沿いに移動していた。
川に沿うのは、迷わないためだ。川があれば水がある。水があれば喉が潤う。喉が潤えば、歩ける。歩ければ生き残る。単純な理由が、いちばん強い。
静は川を見た。
水はいつも同じように流れているように見える。だが、同じ水は二度と来ない。流れた瞬間に過去になる。目の前の水は、もう目の前からいなくなる。
蓮が言った「戻らない」が、静の中で形を変えた。
戻らないのは、人だけではない。季節も、顔も、言葉も、匂いも。戻らないものの上を、人は歩いていく。歩いていくから、生きる。
静は歩きながら、足の裏の感覚を確かめた。
土は柔らかい。湿っている。滑りやすい。春の土だ。春の土は足を取る。足を取られると転ぶ。転ぶと怪我をする。怪我をすると遅れる。遅れると置いていかれる。
置いていかれることが、以前より現実味を帯びていた。
蓮がいた頃は、置いていかれる前に何かを捨てる判断が群れにあった。弱い者、遅い者、口の多い者。だが今、静は「捨てられにくい」存在ではある。静は歩ける。静は起きていられる。静は怪我をしても動ける。
それでも、静が危険だと判断されたら話は別だ。
危険というのは、争いを呼ぶ存在のことだ。異物は争いを呼ぶ。争いは死を呼ぶ。
静は自分が異物だと知っている。
その知識が、静の体を固くする。固い体は動きが遅くなる。遅い動きはまた疑いを呼ぶ。悪循環がある。
昼前、群れが立ち止まった。
木々がまばらになり、草が伸びている。ここで狩りができる。そう判断したのだろう。男たちが散り、女たちが火の準備をする。
静は火の周りから少し離れた。
離れるのは癖になっていた。火の明るさの中にいると、思い出が浮かぶ。蓮が火を見ていた夜。蓮が静の背で眠った夜。蓮が熱で苦しんだ夜。火は揺れる。揺れるものは、記憶を呼ぶ。
静は揺れない場所を探す。
揺れない場所はない。揺れない場所がないことが、静の世界の条件だった。
草むらで、静は落ちている枝を拾った。
枝の先端が鋭い。折れて尖っている。槍にはならない。だが、獲物を追い詰めるときの道具にはなる。今までなら、男に渡して終わりだった。だが今日は、静はその枝を手の中で転がし続けた。
握り心地が変わっている。
枝が軽い。木が乾いてきている。春の湿り気が減っている。季節が進むと、木の繊維が硬くなる。硬くなると折れやすくなる。折れやすい枝は、刺さりやすい。
静は、その変化が「技術の芽」に見えた。
枝の硬さを知る。硬さに合わせて形を選ぶ。尖らせる角度を変える。そういう微細な工夫の積み重ねが、道具になる。
人は大きく変わる前に、小さく変わる。
誰も気づかないほど小さく。
静は枝の先を石で削った。
削ると、先端がさらに鋭くなる。鋭くなると、指が切れそうになる。静は指を避けながら削った。削る行為が、無意味ではないと感じたのは久しぶりだった。
背負うものがないと、人は手を余らせる。
手が余ると、手は何かを作り始める。余った手が、次の時代を作る。
群れの子どもが静を見ていた。
蓮より少し小さい。目の動きが落ち着かない。腹が減っている目だ。だが、さっきまでの子どもより強い。歯を見せて笑う。笑いは、ここでは強さだ。
子どもが静の手の動きを真似た。
真似ると言っても、同じ動きはできない。石を持つ手が揺れる。枝を押さえる手が滑る。それでも、真似ようとする。
静は何も言わず、削った枝を子どもに渡した。
子どもは目を丸くし、受け取った。受け取ってすぐ、走っていく。走りながら、その枝で地面を突く。突いて、笑う。
笑う声が、森の中で弾んだ。
その弾みが、静の胸の奥の空洞に触れる。
蓮の声はもう聞こえない。だが、声という現象は消えない。声を出す子どもがいる限り、世界は続く。続く世界の中で、静だけが取り残される。
夕方、男たちが獲物を運んできた。
小さな鹿だ。角は短い。若い個体。肉は少ないが、皮が取れる。皮が取れれば、冬に備えられる。
女たちが手際よく解体を始める。
静はその手際を見ながら、以前とは違う動きが混じっていることに気づいた。石の刃の使い方が変わっている。刃を引く角度が違う。皮を剥ぐ順番が違う。小さな違いだ。だが、小さな違いは怪我を減らす。怪我が減れば、生き残る。
誰かが気づいたのだろう。
やり方を見て覚え、真似て、広げた。言葉で教えなくても、動きは伝わる。動きは言葉より速い。
静はその伝わり方に、妙な安心を覚えた。
蓮がいない世界でも、何かは伝わる。消えたものがあっても、残るものがある。残るものがあるから、世界は続く。
続くことが、救いなのか呪いなのか、静には分からない。
夜、火が起きる。
火の周りに人が集まり、肉を噛み、骨を折り、髄を吸う。油が口の端に残る。油の匂いが手に移る。手が油で滑る。
静は火の向こうの顔を見た。
顔が、少しずつ変わっている。
数日前まで前にいた男が、後ろに下がっている。後ろに下がった男の目が濁っている。濁っているのは疲れだ。疲れは動きを遅くする。遅い者は狩りに出されなくなる。狩りに出されない者は、肉の分け前が減る。分け前が減る者は弱る。弱る者は、いつか消える。
消えるというのは、土になるという意味だ。
土になると、名前が消える。名前が消えると、存在が軽くなる。軽くなると、世界は前に進む。
静はその仕組みを目の前で見続けた。
見続けることが、静の時間の使い方になっていた。
翌日、群れはさらに移動した。
川から離れ、丘を越え、森の種類が変わる。広葉樹が増え、葉が厚くなる。地面の苔が減り、枯れ葉が増える。
枯れ葉が増えると、足音が変わる。
踏むと鳴る。乾いた音が出る。乾いた音が出ると、獣に気づかれやすい。人にも気づかれやすい。
静は歩き方を変えた。
足の裏を置く角度を変え、枯れ葉の薄い場所を探し、踏む時間を短くする。音を減らすための工夫だ。工夫は積み重なる。積み重なると習慣になる。習慣になると、集団の動きが変わる。
変わる、というのはこういうことだ。
大きな出来事が起きて変わるのではない。小さな工夫が重なって、いつの間にか変わっている。
昼、雨が降った。
雨は細い。霧のような雨だ。けれど、長く降る。長く降る雨は体を冷やす。冷えれば動きが鈍る。鈍れば怪我をする。
女たちは大きな葉を頭に乗せ、首をすくめる。男たちは槍を濡らさないように持つ。火を起こす場所を探す。
静は濡れた髪を払った。
濡れた髪が首に貼りつく感覚が、不快だった。不快は生きている証拠だ。生きていると、体は反応する。死に近づくと、体の反応は薄くなる。
蓮の最後の夜、蓮の反応は薄かった。
薄い反応を思い出すと、静は無意識に足を速める。
速めてしまったことに気づき、静は速度を落とした。速度を落とすと、群れの最後尾にまた戻る。最後尾は静の位置だ。静はそこにいるべきだ。前に出ると目立つ。
雨宿りの場所が見つかり、群れはそこで夜を過ごした。
洞窟ではない。岩の張り出しの下。雨が直接当たらないだけの場所だ。それでも、風が弱まる。火が起こせる。火が起これば乾ける。乾けば眠れる。
火が起き、煙が岩の天井に沿って流れる。
静はその煙を見て、ふと気づいた。
煙の流れを、男が手で調整している。火の位置をずらし、湿った木を避け、乾いた枝を選ぶ。煙が外へ漏れないように、火を低く保つ。
以前より上手い。
誰かが覚えたのだろう。覚えた者がいて、他者が見て真似る。真似る者が増える。増えると、群れ全体の火の扱いが変わる。
火の扱いが変わると、夜の安全が変わる。安全が変わると、子どもの生存率が変わる。生存率が変わると、人口が変わる。
人口が変わると、次の時代の始まり方が変わる。
静は小さな差が積み重なっていく様子を、火の揺れの中で見た気がした。
季節が進んだ。
春の匂いが消え、夏の匂いが増えた。
草が伸び、虫が増え、夜の音がうるさくなる。うるさい音は眠りを浅くする。眠りが浅いと疲れが取れない。疲れが取れないと苛立つ。苛立ちは争いを呼ぶ。
争いは小さく始まる。
分け前が少ない。火の番が長い。子どもが泣く。老人が咳をする。槍の先が折れた。言葉が通じない。目が合った。
ある夜、男同士が殴り合いになった。
理由は、肉の分け方だった。分け方が気に入らない。手が早い。骨を隠した。そういう小さなことだ。
殴り合いの音は鈍い。乾いた音ではない。肉のあるもの同士がぶつかる音だ。音は大きくなくても、周囲の空気が固くなる。
女が割って入り、男の頬を叩く。男が怒りで歯を見せる。歯を見せるのは威嚇だ。威嚇は集団を割る。
静は火から少し離れた位置で、その光景を見た。
争いはどの時代にもある。争いがない群れは弱い。弱い群れは消える。消えないために争う。矛盾だが、ここではそれが自然だ。
殴られた男が、翌日から狩りに出されなくなった。
出されなくなると、男は火の番をさせられる。火の番は眠れない。眠れないと疲れる。疲れると目が濁る。濁った目は、次の争いを呼ぶ。
静はその循環を見ながら、蓮がいたらどうしただろう、と一瞬だけ思った。
蓮は静を見て、動いた。静の動きを真似た。真似て、笑った。笑って、眠った。眠って、熱を出して、戻らないと言った。
蓮がいたら、殴り合いを怖がったかもしれない。あるいは、殴り合いを面白がったかもしれない。どちらでも、蓮は反応しただろう。
今、静だけが反応しないようにしている。
反応すると危険だ。反応すると目立つ。目立つと疑われる。疑われると排除される。
静は排除されても戻る。
戻る場所がなくなるだけだ。
夏が終わる頃、群れの顔ぶれが変わった。
老人がいなくなった。
ある朝、老人は起きなかった。女が肩を揺らし、息を確かめ、何も言わずに手を離した。誰も泣かない。誰も名前を呼ばない。老人の体はその日のうちに森へ運ばれ、土に戻された。
静はそのとき、土の匂いが妙に甘いことに気づいた。
土は湿り、葉が腐り、菌が動いている。生き物が生き物を分解し、別の生き物がそれを食べる。土は死を受け取る場所ではなく、死を別の形に変える場所だ。
老人は消えた。だが、土になった。土になれば、草が育つ。草が育てば、獣が食べる。獣が食べれば、人が狩る。人が狩れば、また人が生きる。
この循環の中に、蓮も入ってしまった。
静はそれを止められない。
止められないことを、季節が進むたびに思い知らされる。
秋が来た。
風が乾き、空が高くなる。虫の声が減り、夜が静かになる。静かな夜は、思い出が大きくなる。思い出が大きくなると、体が重くなる。
静は夜、眠らないことが増えた。
眠ると飛ぶ可能性がある。飛べば時間が進む。時間が進むと、覚えているものが置いていかれる。置いていかれるのが怖い。だから、眠らずにいる。
眠らずにいると、朝がつらい。足が重い。目が痛い。けれど、静は歩ける。歩けるから歩く。歩けるという事実が、静の唯一の取り柄になっていく。
ある日、群れが別の小さな群れと合流した。
合流は自然に起きる。森で出会い、互いの数を見て、争うか、混ざるかを判断する。混ざる方が得なら混ざる。得でなければ奪う。
この日は混ざった。
理由は単純だった。双方とも数が減っていた。減っている群れ同士が争えば、両方とも消える。消えたくないから混ざる。混ざれば口が増える。口が増えれば狩りが難しくなる。難しくなればまた数が減る。減ったらまた混ざる。
人は増えたり減ったりしながら、形を変える。
合流してきた群れの中に、若い女がいた。
その女は、火の扱いが違った。火を起こすとき、石を打つ角度が違う。火種を移す順番が違う。乾いた草の束を作る手つきが違う。
静はそれを見て、技術が「群れ」単位で育っていることを感じた。
群れが違えば、同じことをしているようで微妙に違う。微妙に違うものが混ざると、より良いものが残る。
残るものが、次の時代の当たり前になる。
静はその当たり前を、ひとつずつ見ていく役目を背負っている気がした。
誰も頼んでいないのに。
冬が近づいた。
朝の息が白くなる。水が冷たい。手がかじかむ。火のありがたさが増す。皮のありがたさが増す。骨のありがたさが増す。食べられるものは全部食べる。捨てるものが減る。捨てるものが減ると、争いが増える。争いが増えると、弱い者が消える。
その冬、静は一度、大きく怪我をした。
雪ではない。雪はまだ降らない。だが、地面が凍り始めていた。凍り始めた地面は滑る。滑って転んだとき、静の脛に尖った石が刺さった。
刺さった瞬間、痛みが走った。
痛みは鋭い。鋭い痛みは、体を現実に縛りつける。静は息を止め、石を抜いた。抜くと血が出る。血は黒っぽく見える。寒さで色が濃い。
静は布を当て、きつく縛った。
縛っても歩ける。歩けるが、痛みで足取りが乱れる。乱れると遅れる。遅れると置いていかれる。
静はそれでも歩いた。
夜、火のそばで静は傷を確認した。血が止まっている。腫れている。腫れの熱が少しある。熱は不快だが、治る過程だ。
静はそこでふと、蓮の傷を思い出した。
蓮の指の傷は、治りが遅かった。静の傷は、翌朝には薄くなっていた。薄くなる速さが異常だった。異常は隠すべきものだった。
静は布を巻き直し、誰にも見せないようにした。
翌朝、静の傷は塞がっていた。
痛みも薄い。腫れも引いている。皮膚は新しく、少し赤いだけだ。
静はそれを見て、胸の奥が冷たくなった。
自分だけが戻る。
戻るという現象は便利だ。便利だが、便利さが孤独を増やす。便利さが増えるほど、誰とも同じ痛みを共有できない。
共有できない痛みは、言葉にならない。
静は言葉にしないまま、布を外し、また歩き出した。
冬が来た。
風が鋭くなり、森の音が減る。葉が落ち、木の枝が裸になる。裸の枝は空を細く切り裂く。切り裂かれた空は冷たい。
群れの数は減っていた。
合流して増えたはずの口が、冬の間にまた減っていく。減るのは自然だ。弱い者が先に消える。弱い者は年寄り、病人、怪我人、そして子どもだ。
子どもが消える冬は、群れの目が冷たくなる。
冷たくなるのは、諦めが増えるからだ。諦めが増えると、助ける手が減る。手が減ると、さらに消える。
静はその連鎖を見ながら、ひとつだけ確信した。
時間は、止まらない。
蓮が戻らないと理解したのと同じように、静は時間が戻らないと理解していく。季節は巡る。春が来る。だが、同じ春ではない。同じ顔ではない。同じ群れではない。同じ言葉ではない。
それでも、春は来る。
来てしまう。
来てしまうから、この話は長くなる。
静は火のそばで、遠くの空を見た。
雲が流れる。雲は形を変える。形を変えながら、同じ方向へ流れていく。
静も同じだ。
形を変えないまま、同じ方向へ流されていく。止まれない。止まると置いていかれる。置いていかれると、蓮の名前が完全に消える気がする。
静は火を見つめ、手を伸ばした。
火の熱が手のひらに当たる。熱い。熱いのに、慣れてしまう。慣れは怖い。慣れると、何でも当たり前になる。蓮のいない夜も当たり前になってしまう。
静はそれが嫌で、火から手を引っ込めた。
そのとき、見張りの男が小さく叫んだ。
森の端、闇の中で何かが動いた。獣かもしれない。人かもしれない。冬の夜に近づくものは、飢えている。
男たちが槍を構える。女たちが子どもを背に隠す。火が一瞬揺れ、影が大きく跳ねる。
静は立ち上がり、闇を見た。
闇の中から現れたのは、人だった。
痩せた男。目が落ち窪み、口が乾いている。手に何かを持っている。石の刃が光った。
奪いに来た。
そう判断するのに時間は要らなかった。
静は一歩、前に出た。
前に出ると目立つ。目立つと危険だ。それでも、静は前に出た。理由は分からない。ただ、体が動いた。
男が静を見た。
男の目が、静の顔を見て一瞬止まった。止まったのは、静が怖かったからではない。静の目の奥に、何か異物を見たからだ。
男が槍を構える腕を少し緩める。
その隙を見逃さず、群れの男が飛びかかった。鈍い音。雪のない地面に、体が倒れる音。石の刃が弾かれる音。
争いが始まった。
静はその争いの中で、ひとつのことだけを感じた。
時間が進むと、争いの形も変わる。
石の刃が増える。槍の先が硬くなる。火を隠す技術が上がる。集団の判断が速くなる。
速くなるほど、弱い者が消えやすくなる。
そして、蓮はまたどこかで生まれる。
生まれて、育って、死んで、戻らないと言う。戻らないと言いながら、別の形でまた来る。
静はその再会を知らないまま、目の前の争いを見つめた。
火が揺れ、影が跳ねる。
冬の夜が、さらに冷たくなる。
最後に。
ここまで読んでくださってありがとうございます。
もしこの長い旅を一緒に追ってもいいと思ってもらえたら、フォローや評価で応援していただけると励みになります。次の話では、この争いが「この時代の終わり」を決定づけます。そして第9話で、約束していた再会を描きます。




