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不死の僕と死に戻りの彼で覚える面白い『日本史』  作者: 妙原奇天
【序章】文字のない世界(0〜50話) 旧石器〜縄文前期

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第7話 残された者

 朝は、思ったより早く来た。


 夜が長かったからではない。夜の途中で、時間の感覚が切れていた。切れている間に空が白み、森の匂いが変わり、鳥が鳴き始めた。


 静は火のそばに座ったまま、手のひらを見ていた。


 土が爪の間に入り込んでいる。指先がひりつく。昨日の夜、土を掘った。道具を使わず、音を立てず、手だけで掘った。掘るという行為は、体を動かしているのに、体から熱が抜けていく。


 蓮を土に戻したあとも、静はしばらく動けなかった。


 動けば、世界が次へ進む。進んだ瞬間、蓮が完全に過去になる。過去になるのが怖いから、静は動かずにいた。


 だが、朝は来る。


 朝が来ると、ここに留まることが危険になる。獣が来る。別の群れが来る。火を起こしていない夜の匂いは、人の匂いを隠してくれない。


 静は立ち上がり、土の盛り上がりを見た。


 盛り上がりは丸い。草がまだ倒れている。新しい土は色が違う。湿り気も違う。誰が見ても分かる。ここに何かがある。


 静は土を押さえ、周囲の落ち葉を集めた。落ち葉を撒き、草を起こし、盛り上がりの形を崩す。崩しても、完全には消えない。それでも、目立たない方がいい。目立たなければ、荒らされる可能性が下がる。


 荒らされるというのは、肉を奪われるという意味だ。


 静はそれだけは避けたかった。


 落ち葉を撒き終えると、静はその場にしゃがみ込んだ。しゃがみ込むと、膝が冷える。冷えるのは、夜の湿り気のせいだけではない。体の奥が空洞になったように感じる。


 静は土の上に手を置いた。


 土は冷たい。冷たいのに、昨夜の蓮の熱が手のひらに残っている気がした。残っているのは気ではなく、記憶だ。記憶は温度を連れてくる。


 静は手を離し、立ち上がった。


 歩かなければならない。


 ここに留まると、蓮を守れない。守れないというのは、土の上に立つ足跡を残すということだ。足跡が残ると、人が来る。人が来ると、掘り返される。


 静は歩くしかない。


 静は森の方を見た。群れの方向。昨日、女が指した方角。遅れたら置いていくと言われた方角。置いていかれるというのは、ここで一人になるという意味だ。


 静はすでに一人だった。


 蓮がいない。


 それだけで、世界の音が変わる。葉の擦れる音が大きい。鳥の声が高い。水の音が冷たい。自分の足音だけが、必要以上に響く。


 静は肩を回し、背中の重さを確かめようとして、何もないことに気づいた。


 いつもなら背中に、蓮の体温があった。腕が首に回り、頬が肩に触れ、呼吸が服越しに伝わっていた。静は歩きながらその微かなリズムを数える癖がついていた。


 今はない。


 ないという事実が、歩くたびに刺さる。


 静は腰のあたりを押さえた。そこに手を置くと、背負っていた重さの名残を探せる気がした。探しても、何もない。何もないから、指先が冷える。


 静は森を歩き出した。


 足場は昨日より悪い。昨夜の雨で土が緩み、苔が滑る。転べば怪我をする。怪我をしても静は戻る。戻るが、戻ることが今は役に立たない。戻るたび、置いてきたものが増えるだけだ。


 静は歩く速度を一定に保ち、木の枝を避け、獣の糞を避け、沼地を避けた。避けながら歩くのは、蓮がいるときも同じだった。けれど、避ける理由が変わった。


 蓮がいるときは、蓮を守るために避けた。


 今は、ただ避ける。避けても、守る相手がいない。


 守る相手がいないと、動きが雑になる。雑になると、危険が増える。静はそれを自分で自分に言い聞かせ、歩き方を丁寧に戻した。


 丁寧に歩くことだけが、蓮を守った延長のように感じられた。


 昼過ぎ、静は群れの痕跡を見つけた。


 踏み固められた草。折れた枝。浅い灰の跡。人の匂い。匂いは薄いが、静には分かる。昨日まで同じ空気を吸っていたからだ。


 静は痕跡を追い、さらに歩いた。


 少し先で、煙が見えた。高い煙ではない。低い煙。隠す煙。あの群れのやり方だ。


 静は木々の間から、火の周りを覗いた。


 男たちが槍を削り、女が木の実を潰している。老人が横たわっている。目を閉じたまま動かない。昨日の老人だろうか。静は覚えていない。覚えていないことが、急に怖くなる。人の顔を覚えられない。名前を持たない存在は、こうやって消える。


 蓮は名前を持っていた。


 名前を持っていても、消えた。


 静は一歩踏み出し、火の近くへ出た。


 女が静に気づき、視線を投げる。視線は鋭いが、驚きはない。静が戻ることは、彼女にとって特別な出来事ではない。遅れた者が追いついた。それだけだ。


「子どもは」


 女が聞く。


 静は返事をしないまま、腰を下ろした。火の近くに座るという行為は、この集団の中に戻るという合図になる。合図だけで十分だった。言葉にすると、何かが崩れる。


 女は一度静を見て、興味を失う。興味を失うのは、口が減ったことを確認したからだろう。確認したら、次のことへ移る。生き残るために、次へ移る。


 静は火を見た。


 火は昨日と同じように揺れている。火は何も知らない。火は燃えるだけだ。燃えるという現象だけが続く。続くから、ここでは火が中心になる。


 中心があると、人は周囲に集まれる。


 集まれても、誰も静に触れない。


 触れないというのは、距離のことではない。目を合わせない。言葉をかけない。慰めない。慰める概念がない。慰める余力がない。


 静はそのことを理解している。理解しているから、耐えられる。耐えられるが、心地よくはない。


 男のひとりが、静の手を見た。


 土で汚れた爪。赤く擦れた指先。静は気づかないふりをした。気づかないふりは、ここでは防御だ。気づけば言葉が必要になる。言葉が必要になると、責める言葉が出るかもしれない。


 責める言葉は、静に向くよりも蓮に向いてほしかった。


 蓮はもういない。


 だから、責める言葉が出たら、それは静に向く。


 静はそれを受け取る準備ができていない。準備ができていないから、気づかないふりをする。


 夕方、狩りの一団が戻り、小さな獣が一匹運ばれた。肉が配られる。配られる肉は薄い。薄いが、匂いが濃い。脂が火に落ち、煙が立つ。煙の匂いが腹の底を刺激する。


 静は肉を受け取り、口に入れた。


 噛む。噛める。飲み込める。体は動く。動くのに、体が勝手に生きているように感じる。


 蓮がいないのに、自分の体は生きている。


 そのズレが不気味だった。


 食べ終えたあと、静は火から少し離れた。人の輪から少し外れる。外れた場所で、森の暗さが濃くなる。暗さが濃いと、夜が早く来る気がする。


 静は地面に座り、膝を抱えた。


 膝を抱えると、背中が丸くなる。背中が丸くなると、蓮を背負っていた姿勢に戻りそうになる。戻りそうになって、戻らないことに気づき、肩が落ちる。


 静は自分の指を見た。


 爪の間の土を、ゆっくり取った。取っても取っても、土は残る。土は匂いとして残る。匂いは記憶を連れてくる。昨夜の土の匂い。蓮の熱。蓮の冷たさ。最後に途切れた空気の音。


 静はそれらを言葉にしなかった。


 言葉にすると、ここで目立つ。目立てば、弱いと判断される。弱いと判断されれば、次に捨てられるのは静になるかもしれない。


 捨てられても静は戻る。


 戻る場所が、なくなるだけだ。


 夜が来た。


 火の周りの明るさが強くなり、暗い部分がより暗くなる。暗い部分の奥で獣が鳴く。獣の鳴き声は、ここではただの背景ではない。危険の前触れだ。


 見張りが立つ。男が槍を持って立つ。立つ男の背中は緊張で固い。腹が減っている。腹が減っていると、緊張が抜けない。緊張が抜けないと、苛立つ。


 苛立ちが、弱い者に向かう。


 静はそのことを知っているから、火の側に近づかなかった。近づくと、視線が増える。視線が増えると、言葉が増える。言葉が増えると、刃が出る。


 静は森の闇に近い場所で座り、目を開けたまま夜をやり過ごした。


 眠ると、飛ぶ可能性がある。


 飛ぶのは静の中で起きる現象だ。気づいたら場所が変わっている。時間が進んでいる。体が戻っている。


 飛ぶと、蓮の土の盛り上がりの場所から遠ざかる。


 遠ざかってしまったら、蓮の場所が分からなくなるかもしれない。分からなくなると、蓮は完全に消える。


 静はそれが怖かった。


 だから眠らない。


 眠らないことが、蓮の名前を守る唯一の方法のように感じた。


 夜の途中、誰かが咳をした。


 老人だ。老人の咳は浅い。浅い咳のあと、しばらく呼吸が止まる。止まるように感じるだけかもしれないが、静にはそれが止まったように聞こえる。


 静は耳を澄ませた。


 止まる呼吸。戻る呼吸。戻るたび、空気が擦れる音がする。湿った紙をこすったような音だ。


 静はその音を聞きながら、蓮の最後の音を思い出す。


 思い出すと、指先が冷たくなる。


 静は立ち上がり、見張りの男の背中に近づいた。男は静を見て、眉を寄せる。


「何だ」


 静は短く言った。


「老人」


 男は興味なさそうに振り返り、老人を見る。老人の胸は動いている。動いているから、男はそれ以上見ない。


「生きてる」


 男はそう言い、また闇を見る。


 静は頷き、元の場所に戻った。


 生きている。


 生きているという判定は、ここでは簡単だ。息があるか、動くか。それだけだ。蓮も昨日まで息があった。昨日まで動いた。昨日まで言葉があった。だから、生きていた。


 そして今はいない。


 いないという事実は、息がないという事実より重い。いないというのは、触れられないということだ。触れられないものは、確かめられない。確かめられないものは、怖い。


 夜明け前、静は火の側へ戻った。


 火は小さくなっていた。灰が積もっている。女が起きて、火を足そうとしている。女は静を見て、何も言わない。


 静は火に枝をくべた。


 枝をくべると、火が少しだけ大きくなる。火が大きくなると、周囲が明るくなる。明るくなると、今いる場所が確かになる。確かになると、少しだけ息がしやすい。


 静は枝をくべながら、蓮にしていたことを思い出す。


 蓮が寒いとき、火を少しだけ強くした。蓮が眠るとき、火が消えないようにした。蓮が怖がるとき、火の明かりを保った。


 今、火を保っても、蓮はいない。


 静は枝をくべる手を止めた。


 止めると、火がまた小さくなる。小さくなる火を見ていると、何かが胸の奥で沈む。沈むが、沈んだままでは生き残れない。ここでは生き残ることが目的だ。目的は単純だ。単純なのに、静にはもう単純に感じられない。


 朝が来た。


 女が指示を出す。


「動く」


 男たちが荷をまとめる。女たちが火を消す。灰に土をかけ、煙を止める。痕跡を消す。痕跡を消すのは、追跡されないためだ。


 静は立ち上がり、荷を持った。


 荷は軽い。軽いから、両手が空く。両手が空くと、背中の重さがないことが余計に目立つ。


 静は歩き出す。


 歩き出すと、森がまた動き始める。木々が流れ、影が移り、空気が変わる。世界は続く。続くという事実だけが、容赦なく前に進む。


 静は歩きながら、何度も後ろを振り返りそうになった。


 振り返れば、蓮の盛り上がりの方角が分かるかもしれない。分かるかもしれないが、振り返ると遅れる。遅れると置いていかれる。置いていかれると一人になる。


 一人になるのは怖くないはずだった。


 静はずっと一人だった。ずっと一人で目を覚まし、ずっと一人で死を越え、ずっと一人で歩いてきた。


 蓮に出会う前は。


 静は歩く速度を上げた。


 上げると息が上がる。息が上がると、胸が痛む。胸が痛むと、蓮の最後の息の薄さが思い出される。思い出されると、足が重くなる。


 静は足を止めずに、ただ前を見る。


 前を見るしかない。


 前を見ることでしか、蓮を消さずにいられない気がした。


 昼過ぎ、森の向こうに開けた場所が見えた。


 草原。空が広い。風が強い。空が広いと、音が散る。音が散ると、静けさが増す。静けさが増すと、蓮のいない空洞が大きくなる。


 草原に出た瞬間、静は自分の名前を思い出した。


 静。


 自分の名前を呼ぶ相手は、もういない。


 蓮は静を呼んだ。蓮は静の声で安心した。静は蓮の名前を呼び、蓮はそれで目を開けた。


 名前は繋がりだった。


 繋がりが切れた。


 静は草原の風を受けながら、握っていた荷紐を握り直した。握り直すことで、手の震えを止めた。震えは寒さではない。体の奥が落ち着かないだけだ。


 群れは草原を横切り、また森へ入る。


 静はその後ろを歩いた。後ろを歩くのは、いつもの位置だ。後ろは遅れる者の位置だ。遅れる者は捨てられる位置だ。


 静は捨てられない。


 捨てられないから、ここにいる。


 ここにいる理由が、薄い。


 静はそれを言葉にしなかった。


 言葉にしないまま、静は歩き続けた。


 夜、また火が起こされる。


 火の周りに人が集まる。集まっても、誰も静に話しかけない。静も話しかけない。話しかけないことが、ここでは自然だ。


 自然な沈黙の中で、静は火を見た。


 火は揺れる。


 揺れる火の中に、蓮の顔が一瞬浮かぶ。浮かぶのは幻ではない。火の揺れが、人の輪郭に似るだけだ。似るだけで、胸の奥が痛む。


 静は火から目を逸らし、闇を見た。


 闇は暗い。暗いのに、何かがこちらを見ている気がする。獣かもしれない。人かもしれない。あるいは、何もいないかもしれない。


 何もいない闇が、一番怖かった。


 最後に。


 ここまで読んでくださってありがとうございます。

 もしこの旅をもう少し一緒に歩いてもいいと思ってもらえたら、フォローや評価で応援していただけると励みになります。次の話では、静が「蓮のいない日々」を過ごしながら、決定的な出来事でこの時代を終えるきっかけが訪れます。

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