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不死の僕と死に戻りの彼で覚える面白い『日本史』  作者: 妙原奇天
【序章】文字のない世界(0〜50話) 旧石器〜縄文前期

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第5話 名前が、消える

 朝の空気は、昨日より薄かった。


 風が強いわけではない。寒いわけでもない。けれど、森の匂いが遠い。土の湿り気が引き、葉の匂いが乾いている。鼻に入るものが少ないと、人の気配が目立つ。


 静は歩きながら、背中の蓮の重さを確かめた。


 昨日より軽い。軽いというのは安心ではない。体が弱っているときも軽くなる。静は蓮の呼吸の音に耳を澄ませる。息は安定している。熱も落ち着いている。指の傷はまだ残っているが、腫れは引き始めている。


 それでも、蓮は静の背にしがみつく力を弱めない。


 離れないように掴む。掴んでいるのは静の首だけではない。蓮の中の世界の中心を掴んでいる。


 静はその感覚を背中で受け取りながら、集団の後ろを歩いた。


 先頭の女が短く指示を出す。


「川、渡る」


 川沿いに出ると、空が開けた。水の音が強い。水は濁っている。雨の後だ。流れが速い。足を取られれば終わる。終わると言っても、終わるのは普通の人だけだ。


 静は、自分だけが終わらないことを思い出し、胸の奥が鈍く痛んだ。


 痛みは、忘れた頃に戻ってくる。


 男たちが先に渡り、枝を投げ、足場を探す。女たちが子どもと老人を渡らせる。静は蓮を背負ったまま、最後に渡るように促された。


「落とすな」


 男が静に言う。


 静は頷いた。


 川の水は冷たく、膝に当たった瞬間に皮膚が締まる。足元の石が滑る。静は慎重に足を置き、蓮の体を揺らさないように体幹を固めた。


 渡り終えたとき、蓮が静の肩に頬を押しつけた。


 小さな安心の動作だ。静はその動作が、いつか消える日が来ることを知っている。知っているから、胸の奥が冷える。


 昼前、集団が足を止めた。


 木々の間に、煙の匂いが残っている。ここで誰かが火を使った。最近だ。灰がまだ湿っている。足跡もある。人の匂いが薄く残っている。


 女が手を上げ、全員を止めた。


 男たちが槍を構え、周囲を探る。静は蓮を下ろし、蓮を自分の影に入れた。影は薄いが、蓮はその中に入ると動かなくなる。


 しばらくして、別の群れが姿を見せた。


 五人ほど。男が二人、女が二人、子どもがひとり。遠くから見ても分かる。痩せている。頬が削れている。目が鋭い。腹が減っている目だ。


 腹が減っている目は、何かを奪うと決まっている。


 女が前に出て、短く声をかけた。


 言葉は互いに完全には通じない。通じないが、必要なことは通じる。ここは通るのか。食べ物はあるのか。争うのか。争わないのか。


 双方が距離を保ち、視線だけで探り合う。


 静はその場で、蓮の肩を押さえた。動くなという合図だ。蓮は頷き、口を閉じる。


 そのとき、別の群れの子どもがふらりと前に出た。


 蓮より少し大きい。だが、足取りが弱い。ふらふらしている。腹が空いているのだろう。目が静の持つ器に向かう。水だ。水が欲しいのか、器そのものが欲しいのか分からない。


 男が子どもの肩を掴み、引き戻そうとする。


 子どもが抵抗した。


 抵抗の動きが、男の苛立ちを刺激した。男の手が強くなる。強くなった手が、子どもの腕を捻る。


 子どもが声を上げる。


 声は泣き声ではない。痛みの声だ。痛みを抑えられない声だ。


 静の群れの男が、それを見て笑うような息を吐いた。


「うるさい」


 言葉は違うはずなのに、空気は通じる。うるさい、という空気はどこでも同じだ。


 別の群れの男が、こちらを睨んだ。


 睨み返す目が増える。目が増えると、争いが始まる。争いは怪我を呼ぶ。怪我は遅れを呼ぶ。遅れは死を呼ぶ。


 女が短く言った。


「行く」


 それで終わりにする。終わりにできるうちに終わりにする。


 集団が動き出す。


 静は蓮を背負い、すぐに後ろに回った。争いが始まったら、後ろから逃げる必要がある。逃げるとき、蓮を抱えたまま走れる位置にいる必要がある。


 背中で蓮が小さく震えた。


 蓮は今見たものを理解していない。理解していないが、怖さは分かる。怖さは言葉より早い。


 森に入ってしばらく歩くと、後ろで短い叫び声がした。


 誰かの声だ。


 短い。すぐに途切れた。


 女は振り返らず、歩く速度を上げた。男たちもそれに合わせて足を速める。誰も後ろを見ない。見ないことで、後ろの出来事をここに持ち込まない。


 静だけが、耳を澄ませる。


 叫び声の後、物が倒れる音がした。土を蹴る音がした。それから、何も聞こえなくなった。


 森の音だけが残る。


 その沈黙が、静の胸の奥に落ちた。


 夕方、野営地が決まった。


 木々が密で、風が弱い場所。火を起こしても煙が外に漏れにくい。女は火を小さくするように指示し、見張りを増やした。今日、別の群れと接触した。接触した後は危険が増える。後をつけられる可能性がある。


 火が小さく起こされ、煙が低く漂う。


 静は火のそばに座り、蓮の指の傷を確認した。昨日より裂け目が閉じている。まだ痛むだろうが、塞がり始めている。蓮は指を見るたびに、静の指を見る。静の指は、何事もなかったように動く。


 蓮はその差を覚えてしまった。


 その差が、今夜の蓮の目を曇らせている。


 肉は少ない。今日の狩りはできなかった。移動に時間を取られた。木の実と根だけで腹を満たす。腹は満たされないが、何もないよりはいい。


 それでも、空気は重い。


 重い空気の中で、誰かが小さく言った。


 別の群れの話だ。さっきの接触で、誰がいたか、という確認だ。女が短く答える。男の数。女の数。子どもの数。老人の有無。


 数だけが、情報として共有される。


 名前は出ない。


 名前という概念がないわけではない。静は自分の名前を持っている。蓮にも名前を与えた。だが、この集団の中で、名前は頻繁には使われない。呼ぶ必要があるときだけ使う。用が済めば、消える。


 静は火を見ながら、そのことを考えた。


 人は、ここでは数として扱われる。


 数は増えるか減るかだ。増えると負担になり、減ると口が減る。口が減ると生きやすくなる。生きやすくなると、次の冬を越えられる。


 残酷な計算だ。だが、この計算が正しいことも、静は知っている。


 正しいことが、人を救わない。


 火の向こうで、男が言った。


「さっきの子ども、どうなった」


 女が肩をすくめる。


「知らん」


 知らん、という言葉は嘘ではない。知ろうとしない、という意味だ。知ろうとすると、足が止まる。足が止まると遅れる。遅れると死ぬ。


 だから、知らない。


 静の喉の奥が乾く。


 静は知っている。


 誰かの叫び声が途切れるとき、それは終わりに向かうことが多い。終わりは、土の盛り上がりになる。土の盛り上がりは、やがて草に隠れる。草に隠れれば、そこに誰がいたか分からなくなる。


 名前が消える。


 消えると、記憶が軽くなる。軽くなると歩ける。歩けると生き残る。


 この世界はそう作られている。


 静はそれを理解できる。理解できるから、苦しい。


 蓮が静の袖を引いた。


 静が振り返ると、蓮が火の向こうの大人たちを見ている。大人たちの会話の意味は分からない。だが、声の温度は分かる。冷たい声。捨てる声。


 蓮は静を見上げた。


「……あの、こ」


 蓮は指で、森の外側を指した。さっきの子どもだ。蓮は見た。叫び声を聞いた。叫び声が途切れた。蓮はその途切れを覚えている。


 静は答えられない。


 答えれば、蓮の中に「戻らない」という現象がまた増える。増えれば増えるほど、蓮は世界を怖がる。怖がれば動けなくなる。動けなくなれば死ぬ。


 静は黙った。


 黙ると、蓮はさらに問いを伸ばす。


「……なまえ」


 蓮の口から出た言葉は、少し前の問いより鋭かった。


 名前。


 蓮は、さっきの子どもに名前があったのかと問うている。名前があれば、呼べる。呼べれば、そこにいたと残せる。残せれば、消えない。


 蓮の問いは、消えることへの抵抗だ。


 静はその抵抗を、嫌だと思えなかった。


 静はゆっくり息を吐き、短く言った。


「分からない」


 嘘だ。分からないわけではない。名前はあっただろう。だが、知らない。知ろうとしなかった。知らないから、ここでは語れない。語れないから、消える。


 静はその仕組みを、言葉にしたくなかった。


 蓮は静の答えを聞き、口を閉じた。


 口を閉じるが、目は閉じない。目が火の向こうの大人たちを見つめ続ける。目の中で、何かが固まり始めている。


 問いが固まる。


 問いが固まると、いつか答えが必要になる。


 静はそのことが怖い。


 静は蓮の頭に手を置き、言った。


「寝ろ」


 蓮は毛皮に潜り込む。潜り込む動きが遅い。指が痛むからだ。痛みが残ると、眠りは浅くなる。浅い眠りの中で、蓮は今日の叫び声を夢に見るかもしれない。


 静は火のそばに座り、木の枝をくべた。


 火が小さく鳴る。


 静はその小さな音の中で、名前のことを考え続けた。


 静の名前は静だ。


 蓮の名前は蓮だ。


 それは、静が与えた。


 与えるということは、残すということだ。残すということは、覚えているということだ。覚えているということは、重くなるということだ。


 重くなると、生きにくくなる。


 それでも、静は蓮に名前を与えた。名前がないと、蓮は集団の中でただの口になる。口は減らされる。減らされると、蓮は消える。


 消えさせないために、名前を与えた。


 名前がある限り、蓮は静の中で消えない。


 静は火を見ながら、胸の奥で言葉を噛んだ。


 名前が消える世界で、名前を残す。


 それがこの旅の矛盾だ。


 夜が深くなり、森が静かになる。


 静は眠らない。


 眠らずに、蓮の呼吸を聞き続ける。


 今日、名前のない子どもが消えた。


 明日、同じことが起きるかもしれない。


 そしていつか、蓮が消える日が来るかもしれない。


 静はそれを想像して、指先が冷たくなる。


 火の明かりの中で、静は小さく呟いた。


 誰にも聞こえない声で。


「……消すな」


 名前を。


 記憶を。


 蓮を。


 最後に。


 ここまで読んでくださってありがとうございます。

 もし続きが気になったら、フォローや評価で応援してもらえると励みになります。次の話で、蓮は初めて「死」を自分の言葉として持ち始めます。

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