第0話 「死なないと、気づいた日」
■全4000話以上・日本史縦断
時代配分マップ(章設計・完全版)
基本単位
〇1章=1つの「歴史的な感覚の変化」
〇章の終わり=必ず矢野蓮の死 or 決定的な別れ
〇沖田静は「変わらない存在」として、変化を受け取る器になる
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【序章】文字のない世界(0〜50話)
旧石器〜縄文前期
•話数:50話
•テーマ:
o死が概念化されていない
o時間が循環している
•蓮:
o子として生まれ、集落の一員として死ぬ
•静:
o不死を隠すことを覚える
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【第1章】定住という呪い(51〜100話)
縄文中期〜後期
•話数:約50話
•テーマ:
o土地に縛られる
o墓が生まれる
•蓮:
o技術を持つ者、祈る者として死ぬ
•回収:
o「名前が消える」概念の成立
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【第2章】奪うことを覚えた人間(101〜200話)
弥生時代
•テーマ:
o稲作
o所有
o争いの常態化
•蓮:
o農民/兵の始祖
•静:
o初めて“殺されかける”
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【第3章】権力が形を持つ(201〜400話)
古墳時代
•テーマ:
o支配
o王
o墓の巨大化
•蓮:
o権力に近づき、潰される
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【第4章】国家という暴力(401〜900話)
飛鳥〜奈良
•テーマ:
o法
o戦争の正当化
•蓮:
o徴兵される存在
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【第5章】記録される/されない(901〜1900話)
平安
•テーマ:
o文字
o日記
o物語
•静:
o初めて「書かれる」
•蓮:
o書かれずに死ぬ
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【第6章】正義が武器になる(1901〜2500話)
鎌倉〜南北朝
•テーマ:
o正義
o裁き
•蓮:
o正しい理由で殺される
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【第7章】生き残ることの罪(2501〜3200話)
戦国
•テーマ:
o生存競争
•蓮:
o名もなき兵として大量死
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【第8章】平和という停滞(3201〜4000話)
江戸
•テーマ:
o身分
o管理
•静:
o年を取らない異物
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【第9章】断絶(4001〜4600話)
明治
•テーマ:
o近代
o価値観の破壊
•蓮:
o労働者・兵士
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【第10章】国家と個人(4601〜5200話)
昭和
•テーマ:
o総力戦
•蓮:
o数として死ぬ
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【終章】不死が異物になる(5201話〜)
平成〜令和
•テーマ:
o記憶
o記録
終わらせる/終わらせないは選択制
土の匂いで目が覚めた。
湿った土が頬に張りつき、舌の奥に鉄の味が残っている。起き上がろうとして、肩が言うことをきかない。腹の底が空っぽで、寒さが骨のすき間にまで入り込んでくる。
空は白い。雲なのか霧なのか、境目のない色が低く垂れていた。遠くで鳥が一声鳴き、すぐに黙る。風は冷たく、草の先だけが小さく震えている。
自分が誰なのかは、分かる。
沖田静。
その名前だけは、最初から口の中にあった。けれど、昨日がない。昨日の夜がない。どこで眠ったのか、何を食べたのか、誰と話したのか。思い出そうとすると、頭の中に濁った水が流れ込んできて、指でつかもうとした瞬間にすり抜ける。
視界の端で、火の煙がゆっくり立っているのが見えた。風下から焦げた匂いが漂い、鼻が勝手に反応する。体が先に「食べたい」と言った。
静は息を吐いて、膝を立てた。皮のような布が膝に擦れて、ざらつく。腰に紐が巻かれている。腰骨が浮いていて、紐の圧が痛い。
歩き出すと、足裏に石が当たり、皮が薄いところに鋭い痛みが走った。靴ではない。足を守るものは、草を束ねた程度のものだった。
火の近くには、人がいた。四人。年齢も名前も分からないのに、見た瞬間に「仲間だ」と体が判断する。彼らは毛皮を肩にかけ、短い槍のようなものを持っていた。顔は煤と泥で汚れている。目だけが妙に光って見える。
静が近づくと、男のひとりがこちらを見た。目の動きが早い。値踏みのように静を上から下まで眺め、鼻で笑った。
「やっと起きたか」
言葉は理解できた。自分の口から返せる気もする。それなのに、どの言葉を選べばいいのかだけが分からない。静は喉を鳴らし、短くうなずいた。
火のそばには、骨の欠片や乾いた草の束が散らばっていた。昨日の食事の跡だろう。静の胃が、何もないのに痙攣する。
別の女が、火の上の石をいじりながら言った。
「今日は、追えるやつが少ない。静、おまえも行け」
行け、と言われて、静の体は自然に動いた。槍を渡される。木の柄は冷たく、手のひらが吸い付く。指がうまく閉じない。寒さのせいか、空腹のせいか、それとも別の理由か。
森の縁に向かって歩く。足元の落ち葉が濡れていて、踏むたびに柔らかく沈む。木の幹は黒く、苔が張りついている。湿気の匂いが濃い。
獣の気配は、遠い。静はそれが分かる気がした。分かるのに、追い方が分からない。
男たちは目を細め、枝を避け、音を殺して進む。静も真似をするが、足が遅れる。槍の先が木の幹に当たり、乾いた音がした。その瞬間、全員の背中がぴくりと動いた。
男が振り返り、声を出さずに口だけで罵った。唇の形で分かった。「黙れ」。静の耳が熱くなる。
しばらくして、前を行く男が片手を上げた。全員が止まる。藪の向こうで、何かが動いた。鹿のような影がちらりと見え、すぐに消える。
男が合図を出す。二人が左右に回り込む。静は真ん中に残された。役割が与えられていない。置かれた場所が「余りもの」だと分かる。
影が走った。男が槍を投げる。外れる。獣は方向を変え、静の前方の藪を裂いて飛び出した。
その瞬間、静の体が硬直した。来る、と分かるのに、足が動かない。獣の目が一瞬こちらを見た。黒い。そこに感情はない。ただ、障害物を見る目だ。
「刺せ!」
背後から怒鳴り声が飛ぶ。
静は槍を構えようとした。構えようとして、腕が遅れた。獣は横をすり抜け、静の脇腹にぶつかった。骨の内側がずれるような衝撃。息が喉で詰まり、声にならない音が漏れた。
獣は走り去る。追う男たちの足音が遠ざかる。静だけが取り残される。
しばらくして男たちが戻ってきた。獲物はない。泥だけがついた槍を持ち、苛立ちを隠そうともしない。
最初に静を値踏みした男が、静の脇腹を軽く蹴った。痛みが走り、体が反射的に丸くなる。
「邪魔だ。居るだけで損だな」
女も火に戻りながら、冷たく言った。
「次、やらかしたら置いていく」
置いていく。森の中に。食べ物も火もなく。
その言葉は、刃物より薄くて、よく切れた。静はうなずくしかなかった。うなずいた瞬間、自分の中で何かが静かに沈んだ。
その日、静は無理にでも役に立とうとした。
獣を追いかける男の後ろにぴたりとつき、息を殺し、足の置き方を真似し、枝を避ける角度まで真似した。だが、体がついていかない。腹が鳴る。足がもつれる。頭の中がぼんやりする。たまに視界の端が暗くなる。
夕方、森の端に小さな岩場がある場所に来た。そこには崖のように切れ落ちた斜面があり、下には川が流れている音がした。水は見えない。音だけが深い。
男たちは下を覗き込み、何かを探している。獣の足跡か、渡れる場所か。静は遅れて岩場に上がった。足元の石が濡れている。苔がついていて滑りやすい。
静は岩の縁に近づいた。覗き込むと、目がくらむほどの高さがあった。川の音が遠い。霧が立っていて、底が見えない。
男のひとりが言った。
「向こうに回れる。近道だ」
近道。静はうなずき、男たちの後を追う。岩場の狭い通路を歩く。右側は岩壁、左側は切れ落ちている。足元に小石が散っている。
静は、恐怖を感じる暇がなかった。恐怖という感情を言葉にする前に、体が現実に反応する。指先が冷たくなり、喉が乾き、唾が飲み込めない。
そのとき、前の男が急に立ち止まった。静は避けきれず、肩でぶつかる。男が舌打ちをし、振り返る。
「押すな」
押していない。そう言いたかったが、喉が固まって声にならない。静は一歩下がろうとした。
足裏が、滑った。
苔の上を踏んだのだと分かる。分かった瞬間には、もう体が宙に出ていた。重力が急に思い出したように働き、胃が持ち上がる。手を伸ばした。指が空を掴む。岩の縁に爪が当たり、折れるような痛みが走った。
世界が回転する。空の白が上に行き、岩の黒が横に流れ、川の音が近づく。
落ちる。
その言葉が頭に浮かぶより先に、背中が岩に叩きつけられた。鈍い音が自分の中から響いた。胸の中で何かが砕けたような感覚。息が一気に吐き出される。肺が縮む。声が出ない。
次に足。足が変な方向に曲がったのが見えた。見えた瞬間、遅れて痛みが来る。痛みが来た、というより、痛みが世界そのものになった。
もう一度岩に当たり、頭が打たれる。視界が白く弾け、光の粒が散る。音が遠ざかる。川の音だけが残り、それも薄くなる。
冷たさが背中から広がった。血なのか、水なのか、分からない。分からないまま、体が重くなっていく。指先が開き、槍がどこかへ落ちる。
空がまだ白いのが見えた。白い空の下で、誰かの声がした気がした。怒鳴り声だったか、驚きの声だったか。はっきりしない。
静は息を吸おうとした。
吸えない。
胸が動かない。喉が閉じる。息がどこにも行かない。口の中に温かいものが溜まり、舌がそれを感じる。鉄の味が濃くなる。目の奥が熱い。
それでも、意識だけが残った。
残る、というより、残される。体は壊れているのに、頭の中だけが冷静に「終わる」を待っている。
終わらない。
終わらないまま、暗くなった。
真っ暗、ではない。薄い膜のような暗さだ。音が遠い。自分の心臓の音も、聞こえない。体の境界が曖昧になる。自分が土になっていく感じがする。
息が止まっている。これは分かる。止まっているのに、苦しくない。苦しさがあるはずの場所が空白になっている。空白の中に、時間だけが流れる。
どれくらい流れたのか分からない。
長いのか短いのかも分からない。だが、何かが変わった。暗さの膜が薄くなり、音が戻ってくる。鳥の声。風の音。川の音。草の擦れる音。
次に、痛み。
痛みが戻ってきて、静は反射的に体を丸めた。丸められる。動ける。動けることに驚いて、目を開ける。
土の匂いがまた来る。
頬に湿った土。舌の奥の鉄の味。寒さ。空腹。さっきまで砕けていたはずの胸が、ちゃんと上下している。
静は息を吸った。肺が動く。息が入る。喉が痛い。咳が出る。咳と一緒に泥が口の端に飛んだ。
静は起き上がった。
起き上がれてしまった。
視界の中に、見覚えのある岩場がある。さっき落ちた場所だ。だが、自分は崖の下ではない。落ちる前に通っていた、あの土の上にいる。岩場の縁から少し離れた草地。そこに、静は横たわっていた。
体を見下ろす。腕。脚。指。どこも折れていない。皮膚の表面に擦り傷がある程度で、血は固まっている。さっきの、足が変な方向に曲がった光景が、嘘みたいに遠い。
静は立ち上がった。ふらつきがある。だが立てる。骨は鳴らない。胸も痛くない。腹だけが空っぽで、胃が焼ける。
静は岩場へ近づき、縁を覗き込んだ。
下は霧で見えない。川の音は相変わらず遠い。落ちたはずの自分の体は、見えない。落ちた槍も見えない。
静は、ゆっくりと後ろを振り返った。
火の煙が見える。だが、位置が違う。さっきより少し遠い。人影も見える。森の縁のところに、男たちが何かを運んでいるのが見えた。落ちる前に自分が見た場所とは違う。火が移されている。
太陽の位置も違う。
さっきは、岩場に影が長く伸び始めていた。今は、影が短い。光が上から落ちている。昼に戻っている。
戻っている。
という言い方が正しいのかも分からない。静は頭を押さえた。思考が追いつかない。だが、目の前にある現象だけは否定できない。
自分は落ちた。
落ちて、壊れた。
壊れて、息が止まった。
止まったのに、今こうして立っている。
静は、ためらいながら自分の腕を噛んだ。
歯が皮膚に沈み、痛みが走る。血が滲む。舌に塩の味が乗る。確かに痛い。夢の痛みではない。現実の痛みだ。
静は次に、手のひらを強く叩いた。乾いた音がして、じん、と痺れる。体は生きている。生きている、と言っていいのか分からないが、とにかく動いている。
静は唇を舐め、乾きを確かめた。喉が痛い。さっき呼吸が止まっていたことの名残だろうか。だが、喉の痛みだけが「さっき」を証明している気がした。
静は火の方へ視線を戻した。仲間たちがこちらに気づく様子はない。距離がある。風向きのせいか、声も届かない。今なら隠れていられる。
静は岩場の近くの土を見た。さっき自分が目を覚ました場所に、乱れた草がある。だが、落下の痕跡はない。血もない。槍もない。まるで、落ちていないみたいに、世界が整っている。
静の背中に、冷たい汗がにじむ。
説明がない。
理由がない。
起きた出来事だけがある。
静は、腰に手を当てた。紐がある。そこに小さな石の刃が結ばれていた。自分の持ち物なのだろう。刃は欠けていない。刃の冷たさが指に伝わり、現実が一段濃くなる。
静は小さく息を吐いた。
これは、知られたら終わる。
終わる、というのが何を意味するのか分からない。だが、分からないのに確信だけがある。知られた瞬間に、自分は「役に立たない者」から「役に立つ道具」に変わる。あるいは、「気味の悪いもの」として捨てられる。どちらに転んでも、静はここで生き残れない。
静は火の方へ歩き出した。足音を殺す。草を踏む場所を選ぶ。さっき失敗したことを思い出し、今度は慎重に動いた。体はまだ震えている。寒さと空腹だけではない。自分の中に、言葉にできない異物が入り込んだ感覚がある。
火の近くまで戻ると、男がこちらに気づいた。眉をひそめる。
「どこ行ってた」
静は一瞬、答えを失った。落ちた、と言えばいいのか。落ちたが、落ちていない。死んだが、生きている。時間が進んだが、戻っている。
そんなことは言えない。
静は口を開き、最も普通に聞こえそうな言葉を選んだ。
「……水を」
水を探していた。そういう顔を作る。空腹と寒さで朦朧としていたふりは、今の静の体に合っている。実際、朦朧としている部分もある。
男は鼻で笑い、火のそばの器を顎で示した。木の皮を丸めたような器に、水が溜まっている。水面に灰が浮いていた。
「勝手に飲め。次は勝手なことするな」
静は器を手に取り、口をつけた。水は冷たく、舌に苦い。だが、喉を通る感覚があるだけで安心する。生きている、というより、「今の体が現実に触れている」という事実が欲しかった。
器を戻すと、女が言った。
「狩りは失敗だ。今日は移る。夜までに向こうの林まで行く」
向こうの林。静は頷いた。さっき自分が落ちたはずの場所から、彼らが移動していることと一致する。あの「位置が違う」火は、今から移動した後の火だったのか。
静は胸の奥が冷えるのを感じた。
時間差。
自分が暗い膜の中にいる間に、世界は進む。進んで、戻る。戻る、というより、自分が別の場所で目を覚ます。落ちた場所に戻る。だが、世界は同じではない。太陽の位置が変わり、仲間の位置が変わる。
静は、男たちの背中を見ながら歩いた。足元は泥。靴のない足に冷たさが刺さる。だが、痛みがあるからこそ、現実にしがみつける。
夕方、彼らは林の手前で火を起こした。煙がまっすぐ上がり、風が止まったことが分かる。静は木の枝を集め、火のそばに積んだ。役に立つふり。目立たないための努力。
男が静を見て、少しだけ表情を緩めた。
「今日は、余計なことするなよ」
静は頷いた。
余計なこと。自分が死なないこと。死んでも戻ること。死んでいる間に時間が進むこと。
それらは、すべて余計だ。
静は火の向こうの闇を見た。森の奥は黒い。虫の声が遠い。夜の匂いがする。湿った土と、枯れ草と、煙と、汗と。人間が暮らす場所の匂い。
静は、自分の腕の噛み跡を指でなぞった。まだ痛い。血は固まり始めている。痛みは確かだ。痛みがある限り、自分はただの怪物ではない。そう思いたかった。
火のそばで、男たちが眠り始める。毛皮をかぶり、槍を抱えて丸くなる。静も少し離れた場所に座り、膝を抱えた。目を閉じれば、さっきの落下の光景が浮かぶ。背中の衝撃。骨が砕けた感覚。息が止まった静けさ。
静は目を開けたまま、火を見つめた。火は揺れ、時々ぱち、と音を立てる。その音が、やけに現実的だった。現実的であることが、怖い。
静は、声に出さずに言葉を作った。
これは、知られてはいけない。
それは誓いではなく、判断だった。自分が生き残るための、ただの手続きだ。
明日も狩りがある。明日も寒い。明日も腹が減る。明日も自分は役に立たないかもしれない。
そして、明日、また落ちるかもしれない。
静は、火の熱を手のひらに感じながら、眠らないまま夜をやり過ごした。眠ったら、次に目を開ける場所がどこになるのか分からない。暗い膜の中で時間が進み、仲間が遠ざかり、火が消えているかもしれない。
静は、火を見つめ続けた。
火が消えないように。
自分が消えないように。
静の喉の奥で、言葉にならないものが固まる。叫びたいのか、笑いたいのか、自分でも分からない。分からないまま、ただ火の明かりだけが、静の目に映り続けた。




