先生とメイドと、珈琲の魔法
高橋健一、28歳、都立高校の国語教師。彼が今、人生で最も場違いな場所にいるという自覚は、痛いほどあった。
1
高橋健一、28歳、都立高校の国語教師。彼が今、人生で最も場違いな場所にいるという自覚は、痛いほどあった。
「おかえりなさいませ、ご主人様っ!」
鼓膜を揺らすアニメ声と、パステルカラーで埋め尽くされた視界。ここは秋葉原、メイドカフェ『ドリーム❤︎パフェ』。健一がここにいる理由はただ一つ、同僚の体育教師、田中との無謀な賭けに負けたからだ。
「さあ高橋先生!楽しまなきゃ損ですよ!」
隣で満面の笑みを浮かべる田中は、すでにこの世界の住人になりきっている。対照的に健一は、背筋を伸ばし、まるで職員会議にでも出席しているかのような硬い表情で椅子に座っていた。
「ご主人様、ご注文はお決まりですか?」
目の前に現れたのは、フリル満載のピンクのメイド服に身を包んだ少女だった。ツインテールを揺らし、大きな瞳がキラキラと輝いている。名札には『みさき』と、ひらがなで可愛らしく書かれていた。
「…コーヒーを、ブラックで」
健一が絞り出した声は、自分でも驚くほど低く、乾いていた。
「はーい!では、みさきと一緒に、コーヒーがもっと美味しくなる魔法をかけましょうね!せーのっ、萌え萌え、きゅんっ!」
みさきが両手でハートを作り、健一のコーヒーカップに向けてウインクする。健一は無表情のまま、その光景をただ見つめていた。カオスだ。彼の辞書にある「秩序」や「論理」といった言葉が、この空間では何の意味もなさない。
「…どうぞ、ご主人様。愛がこもってますから、きっといつもより美味しいですよ!」
「…どうも」
健一は一口コーヒーをすする。味は、普通のコーヒーだった。しかし、目の前で期待に満ちた顔をするみさきに「普通です」と言うほどの無粋さは、持ち合わせていない。
「…ええ。…温まります」
そう答えるのが精一杯だった。
すると、みさきは「えへへ」と、心の底から嬉しそうに笑った。その一瞬、作り物めいた笑顔の奥に、素朴で柔らかな何かが垣間見えた気がして、健一は少しだけ心臓が跳ねた。
罰ゲームの時間はあっという間に過ぎ、会計を済ませて店を出る。解放感に大きく息を吐く健一に、田中がニヤニヤしながら言った。
「どうでした?あのみさきちゃんって子、可愛かったでしょ」
「…仕事とはいえ、大変な職業だな」
健一は秋葉原の喧騒を背に、自分の住む静かな世界へと逃げ帰った。二度と来ることはないだろう。そう、固く心に誓いながら。
2
それから一週間後の土曜日。健一は神保町の古書店街にいた。古い文学全集の欠けている一冊を探すのが、彼のささやかな趣味だ。目当ての本が見つからず、少し疲れて近くの喫茶店に入った。窓際の席に座り、先ほど買った文庫本を開く。
ふと、視線を感じて顔を上げた。斜め前の席に、一人の女性が座っている。白いブラウスにジーンズというシンプルな服装で、熱心にスケッチブックに何かを描いていた。長い黒髪がさらりと肩からこぼれ、真剣な横顔は知的な美しさを湛えている。
(どこかで…)
健一は既視感を覚えた。思い出そうと記憶を辿ったその時、彼女が顔を上げた。目が合う。大きな、印象的な瞳。
(あ…)
秋葉原の、あのメイドカフェ。フリルとツインテールの少女。そうだ、みさきだ。魔法をかけてくれた、あの店員だ。
もちろん、彼女は健一のことなど覚えていないだろう。一日に何十人もの「ご主人様」を接客するのだから。健一は慌てて視線を本に戻した。だが、一度意識してしまうと、もう気になって仕方がない。彼女の描いているものが無性に見たくなった。
彼女がペンを置き、ふぅ、と一息つく。そして、自分のスケッチブックを満足そうに眺めた。健一は、自分でも信じられない行動に出た。席を立ち、彼女のテーブルへと歩み寄っていたのだ。
「あの…」
彼女は驚いて顔を上げた。その瞳が「どちら様ですか?」と問いかけている。
「突然すみません。あまりに熱心に描いていらっしゃるので…差し支えなければ、何を描いているのか、見せていただけませんか」
彼女は一瞬警戒の色を見せたが、健一のあまりに真面目な風貌と、どこか頼りない雰囲気に毒気を抜かれたようだった。
「…ただの、落書きですけど」
そう言って、少し恥ずかしそうにスケッチブックを健一の方に向けた。
そこに描かれていたのは、この喫茶店の窓から見える風景だった。しかし、ただの風景ではなかった。行き交う人々が、猫や犬、鳥といった動物の姿で描かれているのだ。スーツを着た犬が忙しそうに歩き、ハイヒールを履いた猫がおしゃべりに夢中になっている。温かく、ユーモアに溢れた世界観だった。
「…素晴らしい」
健一の口から、感嘆の声が漏れた。
「これは、ただの落書きなんかじゃない。物語がありますね。この犬はきっと、家に帰れば可愛い子犬たちが待っているサラリーマンで、こちらの鳥は、これからデートに向かう途中だ…とか。想像が膨らみます」
彼女は目を丸くした。
「…わ、わかりますか?いつも、そんなことばかり考えてて…」
「ええ。とてもよく。素敵な感性だと思います」
健一は心からそう言った。作り笑いの裏に隠れていたのは、こんなにも豊かで優しい世界だったのか。
「あの…失礼ですが、お名前は…」
「星野美咲です」
「高橋健一です」
名刺を交換するようなぎこちない自己紹介。健一は、彼女が『みさき』という名札をつけていたことを思い出し、それが本名だったのだと知った。
「もしよければ、今度また、あなたの絵を見せてくれませんか」
健一の申し出に、美咲は少し頬を染めて、小さく頷いた。
「…はい」
こうして、教師と、正体を知られていないメイドの、不思議な交流が始まった。
3
それから、二人は時々会うようになった。
上野の美術館へ行ったり、井の頭公園のボートに乗ったり、駅前のラーメン屋で餃子を分け合ったり。
健一は、美咲が美術系の専門学校へ進むために、アルバEイトで学費を貯めていることを知った。彼女は自分の仕事内容を「飲食店です」とだけ、少し曖昧に語った。健一は、それ以上深くは聞かなかった。彼女が話したくないのなら、それでいいと思ったからだ。
美咲は、健一が高校の教師で、古典文学を愛し、少し不器用ながらも生徒たちに真摯に向き合っていることを知った。彼の語る万葉集の話や、生徒の悩み相談に乗った話は、いつも穏やかで、美咲の心を温かくした。
ある雨の日、古書店巡りの後、いつもの喫茶店で雨宿りをしていた。
「高橋さんは、どうして先生になったんですか?」
美咲がカップの湯気を指でなぞりながら尋ねた。
「…格好いい理由なんてないですよ。ただ、言葉というものが好きで。一つの言葉が、誰かの人生を支えたり、時には傷つけたりもする。その不思議さ、奥深さを、若い人たちに伝えたかった、というところでしょうか」
「言葉、ですか…」
「星野さんの絵も、言葉と同じだと思います。見る人の心を動かす力がある」
健一は美咲のスケッチブックをめくりながら言った。そこには、健一をモデルにしたと思しき、本を抱えたフクロウの絵が描かれていた。
「私の絵なんて、まだまだ…」
「そんなことはない。あなたの絵は優しい。見ていると、世界はまだ大丈夫だ、と思える」
健一の真っ直ぐな言葉に、美咲は俯いた。長いまつ毛が震えている。
(この人に、本当のことを言わなくちゃ…)
美咲は何度もそう思った。自分が秋葉原のメイドカフェで、「萌え萌えきゅん」などと言いながら働いていることを。それを知ったら、この誠実で真面目な人は、きっと幻滅するに違いない。そう思うと、どうしても言葉にできなかった。
健一は健一で、美咲への想いが日に日に大きくなっていくのを感じていた。彼女の笑顔を見るだけで、一日が輝いて見える。彼女の描く絵の世界に、自分も住んでみたいとさえ思う。
だが、同時に不安もあった。彼女は若く、夢に溢れている。自分のような地味で面白みのない男が、彼女の隣にいていいのだろうか。
二人は互いに惹かれ合いながらも、見えない壁の前で、あと一歩を踏み出せずにいた。
4
季節は夏になり、蝉の声が降り注ぐようになった。その日、二人は夕暮れの隅田川沿いを散歩していた。夏祭りの日で、遠くから楽しげな太鼓の音が聞こえてくる。
「綺麗…」
美咲が、川面に映るビルの灯りを見つめて呟いた。浴衣姿の彼女は、いつもよりずっと大人びて見えた。
健一は、今日こそ想いを伝えようと決めていた。ポケットの中には、小さなキーホルダーが入っている。美咲が描いたフクロウをモチーフにした、特注品だ。
「星野さん」
健一が意を決して呼びかける。美咲が「はい」と振り返る。
その時だった。
「あれー?みさきじゃーん!」
聞き覚えのある、能天気な声。振り返ると、そこには案の定、同僚の田中が、数人の友人とはしゃいでいた。
「お、高橋先生も!奇遇っすねー!もしかしてデートですか?」
田中は人の心に土足で踏み込む天才だ。
「た、田中先生…」
健一が狼狽えていると、田中は美咲の顔をまじまじと見て、ポンと手を打った。
「あーっ!思い出した!秋葉原の!先生に魔法かけてくれたメイドさんだ!いやー、私服だと全然雰囲気違うなー!」
空気が、凍った。
美咲の顔から、さっと血の気が引いていくのがわかった。彼女は健一の顔を、怯えたような、信じられないものを見るような目で見つめた。
「…知ってた、んですか?」
か細い声が、夏の夜風に震える。
「いや、それは…」
健一が言い訳を探すより早く、田中が追い打ちをかける。
「先生、隅に置けないなー!あの後、また通っちゃったりして?『おかえりなさいませ、ご主人様』って、言われに!」
悪気のない、しかし残酷な言葉のナイフが、美咲の心を突き刺した。
美咲は何も言わず、健一に背を向けた。そして、人混みの中へと走り去ってしまった。
「あ、星野さん!」
健一が追いかけようとしたが、祭りの喧騒が、あっという間に彼女の姿を飲み込んでしまった。
残されたのは、呆然と立ち尽くす健一と、状況が全く読めていない田中の「あれ?俺なんかまずいこと言いました?」という間の抜けた声だけだった。
ポケットの中のフクロウのキーホルダーが、鉛のように重く感じられた。
5
それから、美咲からの連絡は途絶えた。健一が送ったメッセージは、既読になることすらなかった。喫茶店に行っても、彼女の姿はない。
健一は、自分がどれだけ愚かだったかを思い知らされていた。なぜ、最初に会った時に言わなかったのか。「僕もあの場所にいました」と。誠実であろうとしながら、結果的に彼女を欺いていたのと同じだ。教師として生徒に言葉の大切さを説きながら、自分は一番大切な言葉を伝えられなかった。
仕事にも身が入らなかった。授業中、ふと窓の外を見ては、美咲の姿を探してしまう。生徒たちからも「先生、最近元気ないね」と心配される始末だった。
一週間が経った。もう、彼女に会うことはできないのかもしれない。諦めにも似た気持ちが胸を支配し始めた金曜日の夜、スマートフォンの通知が鳴った。
『今、話せますか?』
美咲からだった。
健一は飛び上がるように返信した。
『会えるか?どこへでも行く』
指定されたのは、二人が初めて話した、神保町のあの喫茶店だった。
店に入ると、美咲は窓際の隅の席で、小さくなって座っていた。目の前には、手つかずのココアが置かれている。
「星野さん…」
健一が声をかけると、彼女はびくりと肩を震わせた。
「ごめんなさい。あの日は…」
「謝るのは僕の方だ。言うべきでした。黙っていて、本当にすまなかった」
健一は深く頭を下げた。
沈黙が落ちる。気まずい空気が二人を包む。
先に口を開いたのは、美咲だった。
「…ずっと、怖かったんです。メイドカフェで働いてるって知られたら、軽蔑されるんじゃないかって。高橋さんみたいに、真面目な人には特に…幻滅されるのが、怖くて」
俯いたまま、ぽつりぽつりと語る。
「でも、隠しているのも辛かった。嘘をついているみたいで…。だから、あの日に言おうと思ってたんです。でも、間に合わなかった…」
「幻滅なんかするはずがない!」
健一は、思わず声を大きくしていた。
「僕が惹かれたのは、君が自分の夢のために、一生懸命に頑張っている姿だ。君の描く、優しくて温かい絵だ。君がどこで、どんな格好で働いているかなんて、全く関係ない」
健一はポケットから、あのフクロウのキーホルダーを取り出した。
「これを、渡したかったんだ。君の絵が好きだから」
テーブルの上に置かれた小さなフクロウ。美咲はそれを見て、目を見開いた。そして、その大きな瞳から、ぽろぽろと涙がこぼれ落ちた。
「僕は、君が好きだ、星野さん。…美咲さん。君のいる世界は、僕が今まで見てきたどんな文学作品よりも、ずっと輝いて見える。だから…僕の隣にいてくれませんか」
それは、教科書に載っているどんな愛の言葉よりも、不器用で、まっすぐな告白だった。
美咲は涙を拭うと、顔を上げた。そして、少しだけ、本当に少しだけ、いたずらっぽく笑った。
「…じゃあ、今度お店に来てくれますか?高橋さんのコーヒーに、とびっきりの魔法、かけてあげますから」
「…ああ。行かせてもらうよ」
健一は照れながらも、力強く頷いた。
窓の外では、いつの間にか雨が上がっていた。洗われた街の空気が、二人を優しく包んでいた。
エピローグ
半年後、春。
桜並木が満開の公園を、健一と美咲は並んで歩いていた。美咲の手には、美術専門学校の合格通知書が握られている。
「本当に、おめでとう」
「ありがとうございます。…健一さんのおかげです」
「僕のおかげじゃない。君が頑張ったからだ」
美咲は秋葉原のアルバイトを卒業し、今は画材屋で働きながら、春からの新しい生活に胸を膨らませていた。
「ねえ、健一さん」
「ん?」
「私、先生のこと、描いてもいいですか?」
「僕を?」
「はい。私の卒業制作のテーマ、『私の世界を変えた人』なんです」
健一は驚いて立ち止まった。そして、どうしようもなく込み上げてくる愛しさに、美咲をそっと抱きしめた。
「光栄です」
桜の花びらが、祝福するように二人の上に舞い落ちる。
不器用な国語教師と、夢を追う絵描きの卵。二人が出会ったのは、萌えと魔法が渦巻く不思議なカフェ。健一が注文したブラックコーヒーには、きっとあの日、本当に特別な魔法がかかっていたのに違いない。それは、人生で一番、甘くて温かい魔法だった。




