1994年10月8日
勇太は名古屋の尾頭橋駅の近くに住んでいる。この辺りは地下鉄が通っておらず、閑静な場所だ。だが、1996年まではこの近くにあるナゴヤ球場が中日ドラゴンズの本拠地で、試合の日には賑わっていた。今では2軍の球場になり、その時の賑わいが消えている。
勇太は尾頭橋駅までの道を歩いていた。と、東海道新幹線の高架下に何かを見つけた。それは壁画だ。よく見ると、野球のようだ。この辺りにはナゴヤ球場があるので、本拠地だった頃の名残りだろうか?
「えっ!?」
勇太は興味津々で見ている。1996年を最後に本拠地ではなくなったのに、まだ残っているとは。
「もう貨物列車は来ないのか」
東海道新幹線の高架を抜けた先には、踏切がある。だが、その踏切はもう使われていない。3月いっぱいで廃線になった名古屋港線のものだ。100年以上の歴史を持ち、名古屋港の発展に大きく貢献してきた。だが、再末期にはレール輸送の列車が走るだけとなっていたが、走らない日もあったという。あれだけ多くの貨物列車が行きかっていたが、末期にはこれだけになっていた。国鉄の名古屋港駅だった場所は様変わりし、観覧車やポートタワー、名古屋港水族館ができた。
と、ある老人が肩を叩いた。どうしたんだろう。
「どうしたの?」
「ここに、駅があったって事、知ってるか?」
ここに駅? この近くには尾頭橋駅があるのに、もう1つ駅があったのか? それに、ここは貨物線じゃないか? どうして旅客駅があるのか?
「えっ、これって、貨物列車の駅なんでしょ?」
「ああ。だけど、ここにはかつて駅があったんだ。だけど、ナイターがある日だけやっていたんだよ」
ここにあったのは、ナゴヤ球場正門前という駅だ。常時開設していた駅ではなく、ナゴヤ球場でナイターがある日のみ営業していた。非電化で、急行型気動車や特急型気動車が使われていたという。
「そうなんだ」
だが、名古屋港線はもう廃止になった。ナゴヤ球場正門前の遺構は跡形もない。だいぶ前に廃駅になり、何もかもなくなったようだ。
「今はもうないんだね。そして、貨物列車も来なくなった」
すると、老人は胸を高ぶらせた。それは、ナゴヤ球場正門前駅の営業最終日だ。その日は、1994年10月8日、それは伝説の試合として語り継がれている。
「そうなんだよ。最後に駅が使われたのが、1994年10月8日。そう、あの日だったんだ」
老人は興奮している。そんなにすごい日だったのかな? 何があったんだろう。教えてほしいな。
「何があったの?」
「ドラゴンズとジャイアンツの試合だったんだよ。だけど、ただの試合じゃなかったんだよ」
1994年のペナントレースは、今年で創設60周年の読売ジャイアンツが独走していた。だが、徐々に失速してきて、追いかけてきたのが中日ドラゴンズだ。そして、129試合を残して、読売ジャイアンツと中日ドラゴンズが同率首位で並んでいた。さらに、次の試合はナゴヤ球場で行われる両チームの最終戦、直接対決だった。勝った方が優勝という大一番だ。長いプロ野球の歴史の中でも、こんな事は初めてで、多くのメディアが注目していた。
「えっ!?」
「両チームとも最終戦。勝った方が優勝という試合だったんだ」
そんなにすごい試合があったとは。きっとあの時は誰もが興奮したんだろうな。多くの人が球場に訪れたんだろうな。
「そんな試合があったんだ」
「もし、ドラゴンズが勝って、優勝していたら、日本シリーズまでこの駅があったんだけどな」
そして、この日限りで営業を終える予定だったナゴヤ球場正門前駅だったが、もし中日ドラゴンズが日本シリーズに進めば、ナゴヤ球場正門前駅の営業期間が延びる予定だったという。
「ふーん・・・」
「そして翌年からは、尾頭橋駅が最寄り駅になったんだ」
尾頭橋駅は1995年3月、このナゴヤ球場正門前駅の近くにできた。いつも利用している駅だ。勇太はそれに反応した。
「いつも使ってる駅だ!」
「うん。ここにあったナゴヤ球場正門前駅を臨時駅ではなく、普通の駅にしてほしいと言われたんだ。だけど、ここは貨物の線路の駅だから、そうはいかなかったんだ」
尾頭橋駅ができたのには、ある経緯があった。ナゴヤ球場正門前駅は、JR貨物の名古屋港線の途中にある臨時駅で、ナイター開催日のみの営業だった。だが、沿線の住民がこの駅を常設駅にしてほしいと言ってきた。だが、これは東海道本線ではなく、貨物線の駅だ。ここには常設駅を作れない。そこで、この近くを走っていた東海道線に新駅を作り、それを代替とした。
「そうなんだね」
だが、老人は残念そうな表情を見せた。その試合で勝ったのは読売ジャイアンツだったからだ。そして、ナゴヤ球場正門前駅は廃駅になった。中日ドラゴンズはいつも通りのように試合に臨んだのに対して、読売ジャイアンツは先発3本柱をフル活用する総力戦だったという。
「結局、勝ったのはジャイアンツ。そして、ナゴヤ球場正門前駅はなくなった」
「そうだったんだ・・・」
そんな名古屋港線も、今年3月で廃止になった。最後にレール輸送車が通ったのは、それよりずっと前だったという。まだ遺構はよく残っているが、徐々になくなっていくだろう。そして、ここにナゴヤ球場正門前駅があった痕跡も消えていくだろう。
「そして、今年の3月でこの線路はなくなった。そしてあの頃の面影は消えていくのかな?」
老人は寂しそうな表情だ。その直後、大きな轟音とともに東海道新幹線が通り過ぎていく。新幹線は貨物列車の何倍ものスピードで通り過ぎていく。それはスピードを求める現代社会のようで、それに取り残された遅い乗り物は衰退していくのを表しているようだ。
勇太は再び歩き出した。老人はその後姿をじっと見ている。老人はその話を、どう思っているんだろうか? その話を、気にしているんだろうか?